第3話

  そこは堂々たる一町家いっちょうや。 ※一町家=約120m四方の豪邸

 だが、惜しいかな、もはや廃屋同然の朽ち果てた邸だった。

 芳しい匂いの出処を確かめるべく雪丸は門を潜って敷地の中へ足を踏み入れた。



「──」

 改めて、雪丸は息を飲んだ。

 今、目の前に出現した光景が夢幻ゆめまぼろしたぐいかと疑って目を瞬く。

 廃屋と思しきその邸の中庭は白から黄色、赤に橙、黄金色まで……

 さんざめく花々で埋め尽くされていた。

 芳香は、この花たちの吐息だったのだ。

(天上のお花畑とは、このことかよ?)

 恍惚こうこつとする雪丸。

 だが、いきなり真横で、この美しい光景には似つかわしくない耳障りな音が響いた。

「ひええええ──……」

「?」

 見ると、花の間に老女がへたり込んでいる。

「と、と、と、盗賊ぅ……!」

 パクパクさせて喘ぐ口と白目を剥いた目が陸に打ち上がった魚を思わせる。

 暫くして雪丸はそれが自分に向けられた言葉だと理解した。

「ふざけんなよ、婆さん。俺が盗賊に見えるか? その前に、こんなさびれた邸へ押し入る酔狂な盗賊なんぞいるものか」

 雪丸の、邸を見ての率直な感想だった。

「おっと、失礼。いや、俺は唯、あまりに清らかな匂いに誘われて……その匂いの在処ありかを辿ったまでじゃ。悪さをするつもりなど更々さらさらないよ」

 それにしても、と雪丸はまた感嘆の息を吐いた。

「なんて美しいお花畑だ! 俺は生まれて初めて、こんな美しい光景を見たぞ!」

 真実の思いだった。

 自分の十五年の人生の中で見た、最高に美しい眺め……

「これからだって、きっともうこれ以上美しいものを見ることはないだろうな!」

「まあ、嬉しい! 花を褒められるのは無上の喜びじゃ!」

「──」

 この瞬間に、もう雪丸はさっきの自分の言葉を撤回したくなった。

 この世には庭一面に咲き誇る花々よりも美しいものが存在したのだ。

 それこそ、今、目の前に佇む姫君──

  あまりにも突然だったので、拝跪するのも忘れて雪丸は呆然とその姫に見入ってしまった。

 自分と同じ地面に立っているのが信じられない。

 待てよ、立っている? 地面に?

 そんなことがあり得ようか?

 やんごとなき貴人の姫が〝直接〟大地に〝立っている〟だと?

 とすれば、これは夢か? 

 

有り得る。


(俺は色んな夢を──悪いものを見るからな……)

 実は、一緒に住んでいた歩き巫女たちが僧を呼んだのもそのせいだった。

 雪丸は物心ついた頃から怪しいものを見る体質だった。夜は一晩中うなされて一睡もできない。

 心配した巫女たちが高僧に引き取ってもらった。寺に預ければマシになるかと考えたのだ。

 だが、結局、寺に入ってもマシになどならなかった。

 寧(むし)ろ、寺ではその深遠な闇の中にもっと激烈な霊たちを見る破目になった。

 それでも──

 その内に雪丸は理解した。

 悪霊はまだ耐えられる存在なのだと。

 もっと恐ろしいのは生きた人間である。

 その証拠に、寺に入って何年も経たずに、夜、雪丸を悩ませるのは霊よりも僧侶たちになったから。

 冷たくしたらしたで、優しい素振りを見せれば見せたで、どっちにしろ、僧侶たちは雪丸を取り合って争った。

 雪丸は己の無意味な美貌を知った。

 そして、そのことに辟易した。


 ── ひょっとして、母も?


 母が河原なんぞであんな死に方をしたのも美貌のせいかも知れない。

 大層美しい女だったと看取った歩き巫女たちは言っていたから。

 身分違いの恋でもしたか?


 とはいえ、今回ばかりは、眼前の光景が夢なら、このまま永遠に醒めずにいてもいい、と雪丸は思った。

(こんな可愛らしい、可憐な幻があるんだなあ?)

 もっとしっかり見ようと、目を瞠り過ぎて、眩暈めまいがした。

 蹌踉よろめいた雪丸。咄嗟に、その体を支えたのは、誰あろう、その幻の姫だった。

 さっきよりも更に近く、雪丸は姫の甘い息や、桃色の肌の熱を感じ取った。

「もし? 大丈夫か?」

「──……」

 老婆の隣に雪丸もヘナヘナと尻餅をつく。

 姫に触れられることの方が怖くて──もっと蹌踉けたせいだ。

 老婆の横、花畑の中で腰を落としたまま雪丸は考えた。

 どうやら、この姫は実在していて、本当に自分の足で地面に立っているらしい。

 自分に向けて鈴のような声が降って来た。

「のう、大丈夫か?」

「我が姫君はあまりに清らかにお育ちの故、世俗のことわりは微塵もご存知ない。

 これ、男子おのこく、去りや!」

 去りたいのはヤマヤマだが。

 雪丸の方もこの場合、〝本当に〟腰が抜けて、立てなかったのだ。

貴人の姫をかに見たのも初めてなら、その姫が大地に立つという事実も初めて知った雪丸だった。

 深窓の姫君たちは繧繝縁うんげんべりの畳の上にましまして動かず、外に行く時は牛車に出衣いだしぎぬして乗り、それ以外のところでは抱かれて移動するものと思っていた。


 さて、この、花園で会った姫の名は花挿かざし姫。

 邸は源某中納言邸だという。

 とはいえ、中納言だったのは姫の祖父に当たる人で、彼の庭の菊は美しいと評判で、宮中の〈花揃はなぞろえ〉の儀式にはなくてはならない存在だった。

 だが、息子の代に家は零落し、今では花を帝に献上することもなくなった。

 遂に無位無官で終わった父が娘に残したのは貴種の血と、狂おしいまでの花作りの熱情である。

晴雅はるまさ様は花に取り憑かれたせいでお家が傾いたのですよ。

 全てはこの、あまりに美しい花たちのせいじゃ……!」

 老女──かつて姫の父の乳母めのとだった──左女さめは憎憎しげにこう言った。

 漸く、自分は立てるようになり、この乳母を渡殿わたどのまで抱えて運んでやった雪丸、驚いて訊き返した。 ※渡殿=屋根のついた廊下

「え? 花は嫌いなのか、乳母殿?」

「大嫌いですとも! 私の若君は遂には花のこと以外考えられなくなってしまわれた。お父上を超えて隆盛なされると周り中に期待されながら、全てを投げ捨てて朝から晩まで花の世話ばかり……

 この庭だとてかつては珍しい草木を形よく植え、遣水やりみずした広大な池には水鳥が泳ぎ、それはそれは豪奢ごうしゃな庭園だったのに。ほれ、このように晴雅様が全て花畑にしてしまわれた!」

 両手を振って庭を指し示す老いた乳母。

「寝ても覚めても花作りにだけお心を奪われ……ああ! おいたわしや!

 私の晴雅様は花神に取り殺されたのじゃ!」

 身を打ち震わせて嘆いた後で、乳母は雪丸を一瞥いちべつした。

「だが、良かった! 見た通り私はもう年じゃ。これ以上、姫様の花作りのお手伝いはできぬ。

 されど、人など雇えぬ内情。これ、下郎、〝おまえ〟が迷ってここへ至ったのも、尊き無量光仏むりょうこうぶつ様のお導きに違いない。せいぜい、姫様の花作りの手伝いをしてたもれ」 ※無量光仏=阿弥陀仏

 左女はほとんど抜け落ちた白髪頭を振って、

「姫様はお父上の影響か、高貴の血をお持ちなのに平気で庭に下り、土に触られる……」

 装束は全て祖母や母の残したものだという可哀想な花挿し姫!

 だが、乳母の嘆きなど露程も雪丸には理解できなかった。

 姫は十分に美しかったから。

 古い装束だろうが、大地に降りて土いじりをしようが、美しいものは美しい。




 花畑で腰を抜かして以降、老乳母は床に臥せってしまった。

 本当にあの日が限界だったのだろうか? それとも自分の代わりに手伝いをする者ができて安心したのだろうか?

 雪丸としても、実際のところ、この方が都合が良かった。

 口うるさい監視役なしに作法も気にせず気楽に振る舞えるから。

 乳母の言った通り、花挿し姫が世間のことを全く知らないという点もこの場合、本当にありがたかった。

 素性や身分など気にかけることなく、姫も伸び伸びと雪丸に接した。

 姫よりももっと身分の低い女たちでさえ、河原に住んでいるというだけで蔑みの目を向けるというのに。


 下賤のことは知らなくとも、花挿し姫は花のことなら何でも知っていた。

 土の質、水のやり方、その量や、やる時刻。大切な芽や不要な葉。残す蕾と摘み取る蕾。

 花に狂った父から秘伝を授かり、幼い時から花作りに精を出していると言う乳母の言葉はどうやら真実のようだ。

 雪丸は、翌日から、毎日邸に通っては姫の求めに応じて一心不乱に働いた。

 その内に、雪丸は気づいたのだが。

 花の世話に打ち込む姫の可憐な瞳が、時折、花たちから離れて、崩れた築地塀ついじべいの上に広がる空の彼方を虚ろに彷徨うのを。

 聞けば、姫は生まれてから一度も邸の外へ出たことがないと言う。

「って、姫はお幾つですか?」

「十五じゃ」

(俺と同じ歳か……!)



 とうとうある日、雪丸は決心して、言った。

「姫、いちへ行ってみませんか?」


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