第二章 (陸)

 功宝!?

 初耳だった。

 そしてその短い単語が、驚くほど深く心に入り込んできた。

 ざわざわと鳥肌が立つのが分かる。

 熱い衝動が腹の底から湧き立ってくる。

 気功は唯の健康法なのか?

 長年の実践から得た、人一人が得るには大き過ぎるエネルギーの実感。そこから生まれてくる疑問。

 その答えが分かるかも知れない。

「功宝の話を聞いて、興味を持ちましたね」

 行斗が立ち上がる。視線は心から離さない。

 すっと下がって、間合いを開けた。

 始めはゆっくりと、途中から勢いをつけて心が立ち上がった。さっきまで疲労困憊していたにしては、軽やかな動きだった。

 心の荒い呼吸が、いつの間にか深いものに変わっていた。

 心に自覚はなかった。長年の気功の習慣が働いたと言う事か。

 そのせいか、行斗も気づくのが一瞬遅れた。

「やはり、あなたは面白い」

 心を見上げながら、その目がすうっと細められる。

「余り私を喜ばせないで下さい」

 にっと、能面のような笑みが浮かぶ。

「つい、殺してしまいたくなるじゃあありませんか」

 こいつは、学生の皮を被った狂人だ。何とか逃げなくては。

 行斗は手合わせを再開するつもりらしい。

 恐怖が過ぎる。今度は、骨折の一つもさせられるかも知れない。

 プレッシャーに晒される中、心は必死に思考を廻らせた。

 ただ逃げれば、執拗に狙われるだろう。

 ある程度行斗を満足させ、できれば興味を失うように仕向けたい。

 それができなければ時間を稼ぎたい。

 そうすれば、酔螺を探し出して事態を打開できるかも知れない。

 それにしても、ここ数日間はろくな事がない。

 心は今の境遇に毒づいた。

 何でこんな災難にばかり遇うんだ。

 一体オレが何をした?

 いや、色々したかも知れないが、そんなに罰当たりな事はしていないと思うぞ、多分。

 ニタニタ笑う酔螺の顔が脳裏に浮かぶ。

 やはり、あの女キジムナーのせいか。

 また気がつくと、行斗が目の前にいた。

 足を払われ、マンガのようにひっくり返った。

 完全に心が素人だと言う事を把握したのか掴みもしない。ただ、足先で軽く払っただけ。

 それだけで、しかし、心は半回転して板間に叩き付けられた。

 圧倒的だった。

 実力云々と言うより、生物としての種類の違いに思える程だ。

「これは、明らかにいじめだと思いますっ」

 場違いな台詞で心は怒鳴った。

「上級生は下級生を労るのが、この学園の方針じゃあないんですかっ!」

 何とか気を逸らせないか、心は叫んだ。

 ひょっとすると、口くらいは勝てるかも知れない。

「厳しく指導しなさいとも言われています」

「いじめは指導とは言わないでしょうっ」

 半ばやけくそで心は言った。

「いじめではありませんよ、一対一ですから」

 だめだ、動じない。

「実力が違いすぎるでしょうっ」

「だからこその指導です。実力をつける良い勉強になりますよ」

「あー言えばこー言う!」

「ああもこうも言った覚えはありません。私は実学を重視しているので」

 一方的な〈指導〉が再開された。

 立つ暇も与えられずに、投げ倒され転がされ続ける。

 へとへとになり、心は再び立つ事もままならなくなる。

 勘弁してくれ!

 内心の声とは逆に、気が遠のきかける。

 倒れる事を許さないように、初めて行斗が心の襟を取った。

 とんでもない投げがくる!

 何とか抵抗しようと、動きの鈍った体を心はばたつかせた。

 手足を無法測に振り回す。型もなんにもない、むちゃくちゃだった。

 だがそのなかの一つが偶然行斗の腕を弾き上げた。無防備に開いた胸部。

 吸い込まれるように心は、両掌を突き出した。

 微かな手ごたえ。

 行斗が初めてよろめいた。胸を押さえて咳き込む。

 片ひざを着きかけるが、ニィと笑って踏みとどまる。

 コォオオオオオオ……。

 特殊な呼吸法で威力を相殺すると、何事もなかったかのように行斗は手を伸ばしてきた。

「今のは少し、いい動きでした」

 再び、あっさりと襟を取られる。

 とっさに投げられまいと、心は狂心功の沈墜呼閃で気を落として重心を下げる。

 が、行斗は一瞬驚きの表情を浮かべ、掴んだ襟を放した。

 堂に、甲高い笑い声が響き渡る。

 突然笑い出した行斗に、心は訳が分からなくなった。

 たちの悪い夢の中にいるようだ。

「なるほど、あなたはインターセクシャルですね。外見こそ男ですが、その内には女の遺伝子も内包し、男と女の狭間の性を持つ。道理で、陰の気も陽の気も併せ持っていて重いはずです。そうか、そこに目をつけたか……」

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