第16話 果実がとっても甘いワケ(前編)


「ほらマスター、しっかり足を前に出して」

「はっ、はっ、も、もうっ、ダメっ! あっ!」


 汗だくの体で荒く息をつきながら、私はダキニの指示に従い体を動かす。


「どうしたんですか? まだまだ、果てるには早いですよ?」

「だってっ! あっ! げ、げん……限界っ!」

 私は震える体でダキニに縋りつくようにそう言うが、返ってくるのは無慈悲な微笑み。


「ふふっ。マスターの体はもう少し頑張れると言っていますよ? さあ、もうちょっとです」

 表面上はとろけるような甘い口調でありながら、ダキニは泣き言を一切聞きつけず、へたり込むことを許さない。主導権は、もはや私にはない。


 私は真っ赤になった顔を持ち上げることも出来ず、火照った体に鞭をうちながら、必死にもがくようにして動き続ける。髪を振り乱し、手をきつく握りしめながら、この仕打ちにただただ耐える。


「はっ! はっ! あひっ! ひはっ! はぁっ! やぁっ!!」

「さあ、もう少し。もう少しですよ。マスター」


 汗が跳ね、体が悲鳴をあげ、口からは勝手に声が漏れる。本当の本当に、これ以上はもう無理だった。


「あっ! ダメっ!! あっ! やっ! も、もうっ! ダメっ! だめえええっ!!」

「ふふ、もういいですよ。よく頑張りましたね」


 私は震える体をびくびくと痙攣させながら、何とか最後まで耐えきって、その身を地に投げ出した。


「あひっ! はーっ! はーっ! あっ! あーっ! は、はひぃ……」

 大の字の姿勢で空を見上げ、ばくんばくんと跳ね続ける心臓に突き動かされて息をする。手足に力が入らず、激しい運動をした後特有の気だるい疲労感が私の体を包む。


 私の顔を覗き込むダキニが妖しく笑う。私の頬にその手を這わせると、慣れた手つきで汗を拭っていく。髪を持ち上げ、うなじを空気にさらすようにして、耳元で囁く。


「マスター、お疲れ様です。どうです? 気持ちいいでしょう?」

「だ、ダキニ……」

 私は涙目になりながら、呼吸を整えてダキニを見つめ返す。吐息がかかりそうなくらいの距離で私達は顔を見合わせている。


 さて、ここで改めて言うのもなんだが、私とダキニが何をやっていたかと言うと……。


「朝の涼しい空気の中、全力で走るのは」

「あ、あんた……鬼よ、スパルタよ!」


 最近の日課となった、早朝ランニングである。

 何か別のモノを期待したりしちゃった?


「スパルタというのは、確か海向こうの大陸の、さらに果てにある古代軍事国家の名、でしたか? この程度の訓練で栄える軍事国家など無いと思いますが」

「ああもう! そういう事言ってるんじゃないのっ! こ、こんなへとへとになるまで走らせることないじゃないっ!」

「マスターが始めようとしたことですよ? それに、ちゃんと限界ぎりぎりでいつも止めているじゃないですか」


 ダキニはなんでもない事のようにさらりとそう言うが、毎回限界ぎりぎりを見極めて、そこまでひたすら走らせる鬼コーチを想像してみて欲しい。


「あ、あんた……本当は神様じゃなくて悪魔なんじゃないの?」

「ああ、案外そうかも知れませんね。さあ、背中も拭きますよ」

 私の文句を軽くいなし、ジャージをめくってタオルで丁寧に汗を拭きとってくれるダキニ。その後はごくごく自然な流れでマッサージ。疲れを残さないためのダキニの配慮だ。


 最初はいやらしいことをされるのではないかと身構えたりしたのだが、こういう時に私情は持ち込まない主義なのか、事務的な態度で懇切丁寧に私の体をほぐしてくれている。私に献身するダキニの姿勢はやはり本物だ。


 マッサージを受けながら大きく息を吸うと、朝の空気が身に染みわたる。夏とはいえ早朝の気温はまだ肌寒い。むし暑くなる前のほんの僅かな時間に、私はダキニと共に菜園の周りを走っている。

 最初は軽い気持ちで始めたのだが、いつの間にかダキニプロデュースの特別訓練に成り代わってしまったのだ。体力がついてきた今では有難くも感じるのだが、最初の方は本当に地獄だった。


 いや、今でもきついのは変わらないのだけれど。


「マスターも、最初の方と比べるとだいぶ走れるようになってきましたね」

「どうもありがとう。あんたに合わせて走ってたら、嫌でも体力つくわよ」

 ダキニにそう答えながら、ダキニのマッサージが気持ちよくて、あ、そこっ、なんて声をあげたりして。


「このマッサージが無ければ、さっさと止めてたんだけれどなあ」

「お褒めに預かり光栄です。マスターが望まれるのでしたら、もっと気持ちいいことをしてあげられるのですが」

「絶対パス」

 耳元で囁かれる甘い誘惑をぴしゃりと跳ねつける。引くべき一線はしっかりと引いておかなければならない。


「そうですか? マスターも年頃の娘なのですから、そういう事に興味は……」

「朝から何てこと言ってるのよこのエロ使い魔! だから私は同性に興味はあひゅんっ!」

 ダキニに気持ちいい所を揉まれて思わず声が出る。

「マスターの牙城を崩すのは骨が折れますね」

「何言って……あーそこっ、んんっ、いいっ! あー気持ちいいっ。もちょっと強く」

 マスターとして、いや、女として最後の抵抗は出来ているが、結局のところは既に骨抜きにされているんじゃないかしらこれ?


 明日からこのマッサージを抜きにすると脅されれば大抵の要求は呑んでしまいそうだ。


「まあ、城攻めはのんびりやることにしましょう」

「何が城攻め……あーいいっ! もっともっとー!」


 私はだらしなく声をあげながら、ダキニに身を委ね続けるのだった。



――



 日課のランニングを終えたら朝風呂、そして朝食。この流れもすっかり生活に根付いてしまった。朝食が済めば菜園に出て梨のチェック。する事が無ければ試験に向けて魔法のトレーニング。大抵梨の方ではやることが無いので、もっぱらトレーニング中心の一日を送っている。


 だが、今日は少し違っていた。


「あれ、装果と宗谷さんだ」

 私がダキニと共に菜園に向かっていると、梨園の前で二人が立ち話しているのが見えた。


「あ、そういえば装果って宗谷さんの事好きなのよね? 二人っきりの所お邪魔しちゃ悪いかな?」

 ふふふ、と私は微笑ましい気持ちになるが、改めて見るとどうも仲良く語らっている感じではない。


「あれ? 何? あんまいい雰囲気じゃない?」

「何か、問題があったようですね」

 遠くからでも声を聞き分ける力を持つダキニは、二人の会話から何か推察したのだろう。そう教えてくれた。


「おーい! 宗谷さーん! 装果ー!」

 私は声をあげて駆け寄っていく。

 振り返った二人は……特に装果は、浮かない顔をしていた。

「あ、お嬢様……」

「え、何? 何かあったの?」

 装果はどことなく元気がない。目を伏せがちにして言葉にするのを躊躇っている。


「ああ、お嬢様。すいません、いくつかの木が虫に食われていたみたいで」

 代わりに説明してくれる宗谷さん。


 ……って、虫?


「えっ、何? 前言ってた何とか虫とか何々虫とかにやられちゃったの?」

「マスター、それでは何一つわかりませんよ」

 ダキニのツッコミはごもっともだが、今回は無視して話を進める。虫だけに。


「えっと……それで宗谷さん、なんて虫なの?」

「カミキリの幼虫ですね。成虫が大量発生していたので、うちの菜園でも注意していたんですが」

「あらら、前に装果が梨を育てるのが難しい、って言ってた理由の一つよね? で、食べられちゃったって、どのくらいの実が駄目になっちゃったの?」

「いえ、お嬢様。カミキリは実を食べるのではなく、文字通り『木』を食べるんです」


 木を食べる?


「え、何? 美味しい梨の実じゃなくて、わざわざ木を齧るの?」

「はい。成虫は木に噛み傷をつけてそこに卵を産みます。卵からかえった幼虫はその木を食べながら中へ入っていって、数年に渡って被害を出し続けるんです」

「えっ、何それ怖い。というか木を食べるなんて変わった虫ね」

「マスター、そういう虫も結構いるんですよ。特に幼虫の時は木の中で過ごすのが安全という事もありますし」


 ふむ、また要らない知識を増やしてしまった。農業の知識ならともかく木を食べて生きる虫がいるなんて知りたくなかった。


「じゃあ、ええっと、その虫は今木の中にいて、ひょっとして手が出せないとか?」

「そうですね。一応駆除の仕方はあるのですが……」

「すいませんお嬢様。私が宗谷さんから引き継いだ後にやられてしまったみたいで。発見が少し遅れてしまったんです」

 申し訳ありません、と頭を下げる装果。相当落ち込んでいるのか、声も沈んでいる。


「ちょ、ちょっと装果、いいわよそんな。前も言ったけれど、私は借りてるだけの立場なんだから。私に申し訳なく思う必要はないわ」

「そうですよ。そういうわけで今の責任者はマスターですから、悪いのはマスターです」

 さらりと私を売り渡すダキニ。いや、ナイスフォローだけれども。


「そ、それで、虫に食べられてる木ってどれ?」

「ええと、この木と、あそこの木……それと向こうの方にも一本」

 三本か。この数字が多いのか少ないのかはよく分からないわね。


「この木も虫に食われてたのね。全然そうは見えないけれど、どうやって分かったの?」

 私はまじまじと木を見つめるが、普通の木と何が違うのかが分からない。葉っぱが変色しているわけでもないし、実にも特に異常は見られない。

「木に穴が開いている所がそうだと分かるんですよ。カミキリは木の外側に卵を産んで、幼虫はそこから木の中に入っていきますから」

 宗谷さんはそう説明してくれる。三白眼を細めて、ほら、ここですと指をさしている。


「ん? ここって、どこ? 何もないじゃない」

「いえお嬢様、ここですよ、ここ。木くずのようなものが溜まっているでしょう?」

「え? ん?」

 私は目を凝らして見るが、見つからない。宗谷さんは指をもっと近づけて、ここ、と改めて教えてくれる。


 そこには確かに、僅かな木くずと穴のようなものが見えた。


 本当に、かすかに。


「……え? これ!? このちっちゃくてめちゃくちゃ分かりづらい穴が!?」

「はい、そうです」

「……は? え、これを見つけられなかったから、宗谷さんに怒られてたの? 装果」

「い、いえ、怒られていたわけではないのですが……申し訳ありませんでしたお嬢様。私がもっと早くに気付けていれば……」

「とぅあー!!」

「はぐっ!?」


 私はべし、っと落ち込む装果にチョップを加える。勿論手加減した甘々チョップだ。


 宗谷さんもダキニも、当然チョップされた装果も、三人とも目を丸くして私を見ている。


「えっ!? あ、お、お嬢様!?」

「何よ装果! こんなのぜんぜん落ち込むことないじゃないっ!」

 いや、こんな小さい穴、というか痕跡など見つからなくて当然だ。


「宗谷さんも! こんなの気付かなくてもしょうがないじゃない! 装果を責めちゃダメよ!」

「えっ!? あ、は、はい……すいませんでした」

 私がそう言って宗谷さんを怒ると、宗谷さんはあっさりと降参する。怒った私が言うのも何だが、宗谷さんは基本的にとても弱腰だ。


「い、いえっ、宗谷さんのせいじゃなくて私の」

「だからー、こんなの気付けなくて当然! 装果は何にも悪くないわよっ!」

 私は全面的に装果の味方になってそう弁護する。


「マスター、気持ちは分かりますがそういう変化に気づけるか否かも収穫の出来に関わってきますから」

「でもこれはしょうがないでしょ? 装果の落ち度じゃないわ。だから気にしちゃダメよ」

 私はそう言って装果をなだめるが、装果は装果でやっぱり浮かない顔。何かまだ気にかけることがあるのだろうか?


「……マスター、装果さんは怒られたから落ち込んでいるわけではないのだと思いますよ」

「え?」

 ダキニの意外な言葉に、私は振り返る。


「以前マスターも仰っていましたが、装果さんは仕事に対してとても真剣な方です」

「え? うん、そうよね」

「ですから装果さんの場合、気付けるようになりたかったのですよ。立派な庭師として」


 ああ、成程。


「そうなの? 装果」

 私の言葉に装果は控えめにこくりと頷いた。こういう仕草はまだまだ可愛らしい子供だ。

 宗谷さんもそんな装果を見て微笑んでいる。そっか、宗谷さんは本当に怒っていたわけじゃなく、きっと何かアドバイスをしていたのね。


 装果の見守り方に関しては、ちょっと悔しいけれど宗谷さんの方が私よりよく分かっているようだ。


「ダキニ、あんたもよく見てるじゃない」

「私はマスターに習っただけです」

 そうして不敵に澄まして笑うダキニ。ふうん、何、ちょっとかっこいいじゃない。


「……よし!」


 私もここは、気合を入れてみよう。


「宗谷さん。こんな風に虫に食べられちゃった時って、どう対処するの?」

「え、ああ。まずは木の皮をはがして、針金などを使って虫を取ります。それでとれないような場合は木を多少削って穴を大きくしたり、薬剤を注入して中の幼虫を殺したりします」

「成程ね。それって当然、木にもダメージがあるのよね」

「はい。木を削ったり薬剤を使えば当然木も弱ります。それに幼虫は木の芯に向かって食い荒らしていく傾向がありますから、うかつに取り出そうとすれば木そのものをダメにすることもあります」


 うむ、思ったよりも深刻だ。


 さっきダキニがちらりといったように、この虫は木の中が安全と考えているからここに卵を産むのだろう。手が出しづらいという事はよく分かった。


「じゃあ、装果。こんな時、私達ならどうするかしら?」

「え?」

 装果が俯き加減だった顔をあげて私を見る。私はにこっと笑って答えると、装果ははっと目を見開く。私が言わんとしていることが理解できたようだ。


「モノを動かす魔法」

「そういうことっ!」

 私は杖を取り出し、穴の中に感覚を集中させる。穴の空洞部分を魔力でたどって、ぶつかったところで、動く物体を掴んだ。


「今は私が責任者らしいしね。ここはきっちり私が何とかするから」

「お嬢様……」

「覚えておきなさい。普通にやったらダメな時にこそ、私達魔法使いの出番なんだから!」


 そう、困ったときは魔法に頼ればいいじゃない。


「宗谷さん。これって、このまま取り出しちゃってもいいのよね?」

「は、はい。お願いします」

 宗谷さんも期待に胸を膨らませるように目を輝かせている。そういえば宗谷さんの前で魔法を使うのも久しぶりだっけ。


「じゃあ、いくわよっ!」

 私は少しずつ力を入れ、幼虫が潰れないよう加減してその体を引っ張っていく。中で潰れちゃったら、それはそれで嫌だものね。


「この魔法はモノを動かす魔法でも、見えない場所にあるものを掴んで動かす魔法よ。今装果が使える魔法の、もうちょっと上のレベルのやつね」

 ゆっくり、ゆっくりと引っ張っていく。抵抗はされているが、所詮は虫の力。たいした問題じゃない。


「ゆくゆくは装果にも教えてあげるわ。そうすれば、農業で困った時にきっと助けにもなるでしょう? 宗谷さんには出来ない、あなただけの利点よ」

 そう言われた装果の顔が徐々に明るくなっていく。


「ま、穴の見つけ方は宗谷さんに教わりなさい。私が教えてあげられるのはこのくらいだから。いや、実際に教えるのはまだ先の話になるけれども」

「は、はいっ! その時はよろしくお願いします!」

 装果の元気のいい返事に応えるように、私は最後の力を込める。


「さあ、仕上げよっ!」

 虫一匹を引きずり出すのに少々大げさな声をあげる。宗谷さんや装果のワクワクとした雰囲気と視線を感じて、私の気分も盛り上がる。


「さあっ! 出てき……」


 私は威勢よく言葉を紡ごうとしたが、びくりと固まってしまう。


「え? お、お嬢様?」

「ど、どうしました?」

 装果と宗谷さんの言葉がどこか遠く聞こえる。私は凍り付いてしまった心で、現状を理解しようとゆっくりと頭を働かせる。


 穴から半分ほど体を出した芋虫が、うねうねと体を動かしている。


 最後の抵抗なのか、そのぶよぶよの体をひっきりなしに暴れさせ魔法の力に抗っている。私の手にはその感触が伝わってきている。魔法で掴んだモノからの振動や動きなどを感知するのは、繊細な魔法には必須の感覚だ。柔らかく、そしてプルプルと震えるその芋虫が、まるで自分の掌で踊っているように感じるのだ。


 そう、私はようやく理解した。

 自分が何も考えずに、一体何を掴んでいたのか。


「あ、あひ……」

 その事を理解した瞬間、体中から冷汗が噴き出る。

 穴の先から覗く体が、まるでこちらにアピールをするように振られている。


 今、あの芋虫を私が掴んでいる。


「ひいいいいいっ!?」

「お、お嬢様っ!?」

「どっ、どうしました!?」

 私は魔法で掴んでいた芋虫を離してしまう。いやもう、無理でしょう。


「だっ、ダメっ!! やっぱダメっ!!」

「えっ、あの……」

「虫はやっぱりダメっ! つ、掴んでらんないっ! ムリっ! 絶対ムリっ!!」

 私は冷汗の出た体を自分で抱きしめ後ずさる。そして木の方を直視する事も出来ずにその場で蹲った。


「はあ、やれやれです」

 困惑する装果と宗谷さんを他所に、ダキニがため息をつくのが聞こえる。

「マスター、あれだけ格好をつけておきながら流石にそれは無いのでは?」

「だっ、だってぶよぶよしててっ! も、もう掴んでられないっ!」

 ダキニの呆れた視線と、装果と宗谷さんのあっけにとられた顔に囲まれながら私は叫んだ。情けなくても格好悪くても、もう我慢できるレベルではない。


「だっ、ダキニっ! 代わりにやってっ!!」

「はあ……マスター、虫嫌いくらい克服しなくては、農作業など務まりませんよ? それに私も繊細な魔法は苦手ですから、下手をすると木を傷つけてしまうかも……」

「いっ、いいからっ! や、やってくれたらエッチなご褒美あげるからっ!」

「お任せ下さい、我がマスター」

 なかなか首を縦に振ってくれないダキニに前々から考えていたとっておきの殺し文句で誘惑する。これで何とか……。


「って、え?」

「さあ装果さん、残りの木もどこか教えてください。一匹残らず木の中から出ていって頂きましょう」

 スタスタと歩いていくダキニ。既に穴の入り口にいた芋虫も取り去ってくれたようだ。

「えっ!? あっ、はい……お嬢様、良かったんですか?」

 装果の驚いた顔に、私は大丈夫だとこくこくと頷いて見せる。というか本当に効果てきめんだったわね。


 装果は口元に手を当てて目を見開くが、ダキニがさっさと歩いていってしまうのですぐに追いかけていく。


「は、はああー……よ、よかったー」

 私は心底ほっとしてため息をついた。あの芋虫をこれ以上相手にしなくて済むと考えただけで途方も無い安心感に包まれる。

「後はダキニが、全部やってくれるわよね?」

「ぷっ、くくっ……」

 私がそうやって心穏やかな気分を満喫していると、どこかから小さく押し殺したような笑い声が聞こえた。


 あまり聞き慣れないその笑い声に、私はふと目を向ける。


 そこには、可笑しさに今にも笑い転げてしまいそうな珍しい彼の姿が。


「そ、宗谷さん?」

 私がそう呟くと、宗谷さんははっとしたように笑いを引っ込めた。


「も、申し訳ありませんっ! いえ、その……」

「え、その、いや、いいんだけれども。今の私格好悪いし」

「いっ! いえっ! 決してそのようなことで笑ったのではっ!」

 さっきとはうって変わって肝を冷やしたように慌てる宗谷さん。彼があんな風に笑ったのを、ひょっとしたら初めて見たかもしれない。


「ふふっ、慌てなくてもいいわよ。宗谷さんでも、そんな風に笑う事があるのね」

 私は何だか可笑しくてつられるように笑う。それを見て宗谷さんも落ち着きを取り戻した。


「も、申し訳ありませんでした。その、お嬢様が虫が苦手なのを笑ったわけではないんです」

 宗谷さんはばつが悪そうに頭を下げる。確かに私は宗谷さんの雇い主の娘だけれど、そんなにかしこまらなくてもいいのに。


 こう、そういうのを見ていると苛めたくなってこない?


「じゃあ、どうして笑っていたの?」

「え、あ、それは……」

「やっぱり、私の醜態を見て笑ったのね? 酷いわ宗谷さん」

「いっ! いいえっ! ご、誤解ですお嬢様っ!!」

 私の芝居がかった台詞にも律儀にあたふたとしている宗谷さん。ううむ、ちょっと可愛い。


 装果には悪いけれど、もうちょっとこのレアな宗谷さんを堪能してみたいなんて思ってしまう。


「ふーん、じゃあ何? 何で笑ったの? ん?」

 私がにこにこしてそう言うと、宗谷さんは目線を逸らし、少し照れたように頬をかいた。

「お嬢様、誰にも言わないでいてもらえますか?」

「え? うん、いいわよ」

「その……実は、お嬢様のお母様の事を思い出してしまいまして」


 宗谷さんの話の意外な切り出しに、私は一瞬虚を突かれる。


「え? お、お母様?」

「はい、栃豊めぐみ様のことです」

 そう言って宗谷さんは少し遠慮気味に、私の隣に座った。私もちょっと服が汚れるのが嫌だなと思いつつも、宗谷さんに習って雑草の生えた地面に腰を下ろす。


「めぐみ様も、大の虫嫌いでした」

「お母様も虫が苦手だったの?」

「はい、それはもう。よく菜園に顔を出されては、その度に虫を見つけて悲鳴をあげていたものです」

 宗谷さんは昔を懐かしむように、三白眼を細めながら私を見つめた。


「お嬢様も、そういう所はそっくりだなと思いまして」

「そう……なんだ」

 不思議な感じだった。お母様は私が物心つく前に亡くなったから、私はお母様の事を何一つ知らない。時々誰かが語ってくれるお母様の話を聞いても、どうにもピンと来ない事ばかりだった。


 けれど今宗谷さんが語ってくれたことは、誰の口から聞くよりもすとんと私の胸の中に納まった。宗谷さんの語り口に実感が籠っていたからだろうか。それとも、今の私と似ていると言われたからだろうか。


「その、お母様は、よく菜園に顔を出していたの?」

「ええ。というよりこの菜園は元々めぐみ様のものですから」

 そう、この菜園の持ち主はお母様。それ以前は菜園ではなく農園だったという。


「虫が苦手で、でも足蹴くここに通っては、毎日私に果実の様子を聞いたり、花などを愛でておりました」

「……虫が苦手なのに?」

「はい、そこはどうしても慣れることはありませんでしたね」

 宗谷さんは苦笑いをする。


「不思議な方でした。虫が嫌いでしょうがないのに、どうしてもここの様子が気になるようで。一度だけどうしてそんな熱心に通われるのですかと尋ねましたら、お前は知らなくていいことだ、と怒られてしまいました。ですから、私は本当の理由を知らないのです」

 そう言って空を見上げて、その遥か彼方、遠く、遠くを見つめる。恐らくはそうやって昔に思いを馳せているであろう宗谷さん。


 私はそんな宗谷さんをまじまじと見つめる。


 いや、その……今の話って、どう考えてもアレよね?


 虫嫌いなお母様が足蹴く菜園に通い、毎日宗谷さんに声をかけていた理由。


「ねえ宗谷さん、朴念仁だって言われたことない?」

「え!? いえ、あの……昔めぐみ様にも同じことを言われましたが」

「ああ、うん、やっぱり?」

 私は複雑な気持ちではあ、とため息をつく。


 そう、お母様ってば宗谷さんに……。


「あの、やはり私はその、どこか抜けているのでしょうか?」

「ん、うん。まあ、色々とね」

 今度は私が苦笑しながら、装果もこれは苦労するかもね、と同情した。


 結局お母様はお父様と結婚して私を産んだのだから、これはもう過去の事なのだろう。宗谷さんがどう思っていたか、お母様の本当の気持ちはどうだったのか、とか気にならないでもないけれど、それは、考えても仕方のない事なのだろう。


 なんだかちょっぴり、感傷に浸ってしまった。


「宗谷さん。装果のこと泣かせたら許さないからね?」

「え? お嬢様……それはどういう?」

「お嬢様ー!」

 噂をすれば、装果が声をあげてこちらを呼んでいる。後ろにはダキニを付き従えて。


「お、帰ってきた帰ってきた」

 装果は御機嫌な様子で小走りにこちらに駆け寄ってくる。ダキニは相変わらずクールにマイペースな歩調だったけれど。


「お嬢様、宗谷さん。只今戻りました」

「おかえり装果。で、肝心の虫は追い出せた?」

「はい、流石はダキニさんです。カミキリの幼虫どころか、葉裏のダニや隠れていたカイガラムシまで摘み取ってくれました」


 おお、どうやら予想以上の戦果をもたらしてくれたらしい。何か知らない名前の虫もいるみたいだけれど、聞かないでおこう。


「マスター、御指示通りマスターの代わりとして働いてまいりました。それと宗谷さん、どこまで駆除していいのか分からず一通り目についたものだけ対処してきましたが」

「いえ、ありがとうございます。特にダニやカイガラは場所によっては駆除が難しいのでこちらとしては大助かりです」

 宗谷さんも喜んでいる。よほど対処が難しい虫だったのだろうか? それも魔法の力があれば駆除できると証明できたわけだ。


 私はやっぱり何もしていないのだけれど。


「マスター、その、私から催促するようでいささかはしたないかも知れませんが、今夜は身を清めて参りますので……」

 ダキニはそう言って目を細めて頬を染める。恥じらう乙女のような仕草に、装果や宗谷さんはダキニを見た後、そろって私の方を見る。


「ああはいはい、ご褒美でしょ? 心配しなくてもちゃんとあげるわ。今夜なんて言わずに今ここでいいわよね?」

 そんな私の言葉に、装果と宗谷さんはともかく、ダキニまでもが口をぽかんと開けてあっけにとられたような表情を浮かべる。


「え……あっ!? えっ!? お、お嬢様っ!?」

「何よ装果、そんな声あげて」

 ああ、いや、そうか。ダキニや装果、宗谷さんには『エッチなご褒美』としか言ってないんだっけ。


「さあ、ダキニ……」

「わっ! だ、ダメですっ! そ、宗谷さんっ! 見ちゃダメっ!!」

 装果があたふたと慌てふためくのが可愛い。宗谷さんも顔を赤く染めて目を背けている。


 私の正面に立っているダキニは、ほんのりとバラ色に頬を染めて、きょとんとした表情のまま、私の事を真っ直ぐに見つめている。唇が震えて、整った顔をちょっとだけ怯えたようにして佇むさまは、まさしくときめく乙女、と言った感じだ。


 ふうん、こういう顔も出来るのね。可愛い。


 じゃあ、その可愛さにとっておきのご褒美。


「んー……」


 私は自分の唇に手を当て、ちゅっ、とダキニに向かって投げキッスをした。


「……え?」

「……は?」

 ダキニと装果から同時に声が上がる。


「ん? どうしたの? ご褒美の投げキッスよ」

 私は得意そうに、かつちょっと意地悪くそう言った。


「何? エッチなご褒美ってもっと凄いの想像してた? 私の想いの籠った投げキッスなんだから、ありがたく受け取りなさいね」

 ふふふ、とダキニのように腹黒く笑う。ついでにウインクでもつけようか?

「エッチなご褒美って言ったけれど、特に内容は言ってないわよね? ほら、投げキッスでも十分エッチじゃない。どう? ダキニ嬉しい?」

 私の言葉に唖然とするダキニ。しばらくそのまま呆然としていたが、にこりと笑ったかと思うとこちらに近づいてきた。


「まああんたも頑張ってくれたみたいだし、出血大サービスね。これ以上はちょっと同性相手には危険だから、我慢してぶぎぃっ!?」

「マスター、私を舐めてるんですか?」


 ダキニは顔に笑顔をはりつけ、青筋を立てながら私の頬をつかんで引っ張った。


「何ですか今のは? お子様のお遊びですか? それとも何かの冗談ですか? 笑えませんけれどねえ」

「ふぎっ! いっ、いひゃいいひゃいっ! ふぁ、ふぁふけてっ!」

「はぁ、お嬢様……」

 私の助けを求める声に、装果の呆れかえった声が返される。


「全く、マスターはまだまだ子供ですね。期待した私が馬鹿みたいじゃないですか」

「ふっ、ふぁってっ! ふぁたしもあんふぁもおんふぁのふぉどうふぃでふぃおっ!!」

「あー、聞こえませんね。同性だろうとそんな事は愛の前では些細な事ですよ、マスター」

 聞こえているじゃないの。と叫びたくても叫べない。


「まあいいでしょう。そんな甘ったるくて子供な所も、マスターの魅力ですから」

 不意に手が離されて、その手がそのまま頬を包み込むように優しく添えられて。


「では、ご褒美とやらを頂きましょうか」


「え……んむ」


 唇に乗る柔らかい感触。


 目の前にあるダキニの顔。目を閉じ、静かで、一瞬時が止まったかのようだった。


 そうして優しく、唇を軽く一舐めするように動いたダキニの舌。


「あ……」

「マスター。今のマスターの顔は、とても魅力的ですよ」

 唇を離してそう言われ、私は意味を理解するのに数秒かかった。


 理解した途端、顔から火が出るくらい熱くなる。


「だっ、だっ! ダキニっ!?」

「そういえばマスター、こちらが今回の戦果になります」

「えっ?」

 口を挟む間もなく、ダキニはどこに持っていたのか、ビニール袋を広げて中を見せた。


 今回の戦果、と言われて気付くべきだった。


「うげえっ!? こ、これっ!?」

「はい、今回取ったカミキリの幼虫とダニ、そしてカイガラムシですよ」


 そこには、まだ生きて動いている虫がうようよとしていた。


「あ……あ、あああっ!?」

「これでも私、宗教上の理由でむやみやたらに殺生が出来ないのですよ。ですからこちらの虫たちは遠くに放してこようと思うのですが、マスターが望むのでしたら、カミキリの幼虫は本日のおやつにどうです? 焼いて食べるとこれがまたなかなか美味しいんですよ」


 私は冷汗どころか全身に鳥肌を立てて震え上がる。何? この虫を食べる?


「あ……い、いいっ!! いいっ!!」

「そうですか、では薫さんに頼んできましょう」

 にこりとダキニは悪意しか感じられない笑みを浮かべてその場を去ろうとする。いや、要らないって意味で言ったのよ。


「ああそうです。もう一つ言い忘れていました」


 ダキニはこちらを振り返り、満面の笑みを浮かべてこう言った。


「マスター……ご馳走様でした」


 頬を染め、ちょっぴり肩をすくめて茶目っ気を出すようなそんな言い方に、私はようやく虫の呪縛を解かれてダキニの名を思いっきり叫んだ。


 ダキニを中途半端にからかうと、後が怖いのだと骨の髄まで思い知った日であった。

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