第13話 夏の野分と君の瞳に映る世界(後編2)
ロビーで椅子に座って服を乾かしながら、私は静かに息を吐いた。
まだあの風の感触が残っている。私の体を持ち上げるほど強く、そして容赦なかった。
あの風は私が作り出してしまったものだ。風を操作していなければ、あそこまで強くはならなかっただろう。だが、それでも知ってしまった。あの風の強さを。
ようやく理解出来た気がする。ダキニが散々私を止めようとした訳が。
「お嬢様、お茶です。温かいですよ」
「……ありがと」
装果がもってきてくれたお茶を受け取り、一口すする。体の中にお茶の温かさがしみ込むような感触。思ったよりも体は冷えていたのだろう。
「ごめんね、装果」
ぽろりと、そんな言葉が口をついて出た。
「私、役に立てなかった」
私は、自分で自分が情けないと思いながらも、言うのを止めることが出来なかった。
「本当は、もっとちゃんと出来るはずだったのに」
「いいえ、お嬢様。お嬢様は一生懸命やってくれたじゃないですか」
装果はふっと微笑むと、座っている私に目線を合わせるようにしゃがんだ。
「菜園を守ろうとして危ない目にまであったのに。それに、私や宗谷さん、今は誰一人何も出来ずに指を咥えて見ている事しか出来ないんです。ですから、気を落とさないでください」
装果はそう言って再び立ち上がる。ダキニにも同じように持ってきたお茶を渡そうとしたが、ダキニがそれを断ると、ぺこりとお辞儀をしてその場を去った。
「……あんたも、何か言っていいのよ」
「マスター……」
私は私の隣に立っているダキニに、ぼそりと言った。
「あれだけ私を止めようとしてたものね。なのにこんな結果で……馬鹿にしてくれて、いいのよ」
「……いいえ、マスター。馬鹿になどしません」
ダキニも、装果と同じように穏やかな口調で語る。
「マスターは装果さんや宗谷さん、皆の想いを背負ってあの場に立たれたのです。結果がどうあれ、誰もマスターを責めたりなどしません」
「何よ、それ」
私は沈んでいく気持ちを止められず、愚痴をこぼすように言った。
「装果も、あんたも、どうして怒ったりしないのよ。出来なかったじゃないの。魔法で台風を凌ぐなんてこと。うちの菜園はもろにあの風の被害を受けるし、あんたは私の代わりに泥まみれになるし。綺麗ごと言ったって、それが事実でしょ?」
私は思い出して悔しくなる。
そうだ。私は菜園を守ろうと息巻いていたくせに、結局何の役にも立たなかった。大丈夫だと思っていたのに、無様に風にあおられ、挙句ダキニに身代わりをさせてしまった。
皆に責められて、当然のはずなのだ。
「確かにそれは事実ですが、真実ではありません」
「え?」
ダキニの変わった言い回しに、私はふと顔をあげさせられた。
「マスターに菜園を守ることを期待していたのなら、成程、皆結果を残せなかったマスターを糾弾するでしょう」
「……私、期待もされてなかったってこと?」
「そうではありません。マスターには、それ以上の事を期待しているのです」
ダキニの言葉をよく理解出来ず、私は首を傾げる。
「どういうこと? それ?」
「ここの者は皆、マスターを慕い、敬うものばかりです。マスターの、下々の者を下々の者と思わず、家族と言い切るほどの姿勢。その度量と深い愛に、皆が応えているのでしょう」
ダキニは私の方を向き、柔らかい笑みを浮かべた。さっき私を衝撃から守ってくれた時のような、無償の愛で包んでくれるような、そんな温かい笑み。
「ですからマスターはここの者達にとって、単なる野分除けの便利な魔法使いではないのです。そんな小さな役目より、もっともっと大きな役目を任されているのです」
「もっと、大きな役目?」
「皆の中心となり、支える者としての役目。一族の柱となるような、皆がその者のために働きたいと思える人物。そうなることが、マスター、皆が貴方に期待している事です」
ダキニはそう言って、私の前にかしづいた。厳格な姿勢と態度なはずなのに、ついさっきまでの、台風に立ち向かう前までのぎくしゃくした感じじゃない。
「だから堂々と胸を張ってください。マスターは愛されているのですから。皆、自信に溢れたマスターの笑顔が見たいのです」
どことなく気さくで、とっつきやすいような。軽薄なんじゃなくて、快活、って例えればいいのかな?
何にせよ、気持ちのいい笑顔だ。
「無論、世界で一番貴方の笑顔を望んでいるのは私ですが」
「なっ!?」
突然不意打ちのようにそう言われ、私はぽっと自分の顔が赤くなるのを感じた。心臓をいきなりとんっ、って押されたみたいで、誤魔化すように目線を逸らした。
今の流れ、まるで告白されたみたいじゃない。
「……は、恥ずかしい台詞をべらべらと。私、そんなに皆から崇められるような愛されキャラだったかしら?」
「愛されきゃら? が何かは分かりませんが、少なくとも私は、マスターにこの上ない愛情と希望を抱いていることを、お忘れ無く」
ためらいなくそう宣言するダキニに、私の心臓はさらに早鐘を打つ。
「またそういう事をさらりと言う。言っておくけれど、私にそっちのケは無いからね?」
私が照れくささを誤魔化すようにそう言うと、ダキニはふふ、と軽く笑った。
たったそれだけの仕草が、妙に絵になる。
何だか少し、嬉しくなる。
……私が男だったら、ダキニに恋したりしたのかな?
「さて、ではマスター。そろそろ休憩は宜しいですか?」
「え?」
ダキニはすっくと立ち上がり、玄関の方を向く。
「まさかマスター、あれしきりでもう諦めてしまわれたのですか?」
「いや……どういう風の吹き回し? あんた私には台風の中に立ってほしくないんじゃなかったの?」
「それは今でも変わりません。野分……いえ、台風の中に立つなど、わざわざそんな危険なことをマスターにはさせたくありませんから」
ですが、と言って振り返る。
「私のマスターが台風ごときにうち負けた、などと他の者に思われたくありませんし、何より」
先ほどまでの優しく、慈悲深く、美しいと思わせる表情がなりを潜め……。
「マスターに辛酸を舐めさせたまま黙って見ているなど、神の名が廃ります」
いかにも腹黒そうで、そして大胆不敵なあのダキニがそこにいた。
「……何? あんた、そこまで言うからにはいい作戦でもあるの?」
私もつられて笑う。不敵な笑み、というやつだ。
ああそうだ。確かに負けっぱなしじゃ、失敗したままじゃ悔しい。あれだけ練習したのに、みんなの期待に応えたいのに、私も菜園を守りたい、力になりたいのに。
そうだ。
このままじゃ終われない。
「一計あります。ですがこの方法、少々危険を伴うのですが」
何よ、まるで漫画みたいな熱い展開じゃない。私の使い魔もなかなかよく分かっている。
そんなもの、答えはこうに決まっている。
「構わないわ……今度こそ、絶対に成功させるわよ! ダキニッ!」
「はい、マスター。仰せのままに」
――
皆が驚く中、私とダキニは再び台風に挑むため外へと出る。風はさっきよりはやや弱まったかのように思えた。
「で、ダキニ。どうするわけ?」
「マスター、風の動きは、今の状態で掴めますか?」
ダキニは私に問いかける。その間も、びゅうびゅうと吹く風が私達を煽り立てている。
「……うん、私の周りだけなら問題ないんだけれど、遠くまでいくと、ちょっと難しい」
自分の目の届く範囲くらいは、いかに風が強かろうと制御できる。逆に、遠くて距離が離れていると、視界も悪いせいかちょっと把握が難しくなる。
先ほどはそのちょっとで風が乱れ、失敗したのだ。
「では、私の視界を貸します。それで試してみてください」
「え? あんたの視界って……うわ、くっきり」
私の視界が二重になる。もうこの感覚にもだいぶ慣れてきた。
「すごい、遠くまではっきり見渡せる。なんか、その気になれば雨粒だって動かせそう」
ダキニの視界は、何もかもが鮮明に見える。風の一吹き、雨の一粒一粒、舞う木の枝の動き、全てが。
「マスター。この状態では、私はマスターの目となるために風に目を向け続けなければなりません。マスターに及ぶ害を、見逃してしまうかもしれません」
ダキニは目を風に向けたまま、私に聞かせるために声をあげる。
「ここからは本当に命綱無しです。吹き飛ばされて地面に叩きつけられるような事があっても、私は反応することが出来ません。一瞬の油断が、本当に命取りになりかねません」
ダキニは緊迫した声でそう告げる。確かにダキニの言う通り、さっきみたいなことになったら、今度はダキニは助けてくれない。泥まみれになって、衝撃で打ちひしがれることになるのは私だ。
上等だ。やってやろうじゃない。
「大丈夫! 風さえしっかり掴めれば、もうあんなヘマしない! それに、あんたにここまでさせたんだものっ! 必ずやり遂げてみせるからっ!!」
私は風を掴み、操作を開始する。風向を逸らす魔法を、今度は前方20メートル先、幅をダキニの視界に合わせてかける。
風の操作は驚くほどスムーズに出来た。これまでとは違う。まるでそよ風を撫でるように、思った方向に自由に動かせた。
風の動きが手に取るように分かる。いや、見える。無色透明なはずの風の姿を、周りの雨粒や飛んでくる木の枝がどんなものか教えてくれる。
ひとつひとつに風の力が加わって、方向が変わっているのだ。どの雨粒も同じ動きなどしない。微妙な風の変化で、全て違った方向に飛ぶのだ。
そうか、これがダキニの見ている世界なんだ。
まるでこの世界の全てが違って見える。見慣れたはずの光景も、知っている物も、色も、何もかもが。私と同じ景色を眺めていても、こんな風にダキニの目からは違って見えているのだろう。
いや、それはきっと、私とダキニに限らない。
菜園を愛おしそうに眺める宗谷さん。その中でいつも楽しそうに、私と一緒に植物の世話をする装果。お母様の大好きだった菜園に、きっと色々な思いを乗せているお父様。
皆、それぞれがそれぞれの違う視点で世界を見ている。同じものを見ても、今の私の見つめる世界と同じように、見え方はきっと違っている。
ああそうか。なんか、そう考えると視界を共有するというこの魔法も、もっと深い意味で理解したくなってきた。
これが、ダキニの瞳に映る世界なのね。
私は台風が過ぎ去るまで、ダキニと同じものを見て、そんな事を思っていたのだった。
――
「さっきまでの強風が嘘みたいね」
遠くまで晴れ渡る空。戻ってきた初夏の日差しの中で、私はそう呟いた。
「すごい。こういう日の空こそ、快晴っていうのよね」
「ええ。昔から何度見てもこの光景は『快い晴れ』と形容するに足るものかと思います」
明るく、空がどこまでも透明で澄んでいる。世界が全てキラキラと輝いているかのような光景に、私とダキニはしばし見とれた。
ダキニの視界を借りていないにも関わらず、芝生に乗る雨露や草木の影が鮮明に見える。テレビで高解像度カメラの映像を見ているような気分で、自然と飽きない。見慣れた自分の家の庭だというのに変な感じだ。さっきまで台風の中に立っていたからそう見えるのかしら。
宗谷さんもこんな思いで菜園を見つめているのかな。
「けどまあ、うん……風向操作の魔法は成功したけれど、結果的には失敗よね」
私は菜園の方を向く。
土は散らばり、野菜の蔦はいくつかはほつれ、倒れていたりしている。ビニールハウスなどの大掛かりな設備にはそれほどダメージは無いように思われるが、小さな野菜には明らかに被害が出ている。
「お嬢様ー! ダキニさーん!」
遠くから私達を呼ぶ声が聞こえる。タタタ、とこちらに駆けてくるエプロン姿の装果。
「お疲れ様です! 大丈夫ですか?」
「うん、私は大丈夫」
多少は疲れていたが、私とダキニの立っていた所はほとんど風を避けたのだ。大したことは無い。
私の答えに、装果は笑顔を返す。
「大変でしたね。風向操作の魔法は上手くいったのですか?」
「二回目は結構いい感じだったかな。ちゃんと風を思うように動かせたし。ただ、ちょっと遅かったみたいだけれど」
私たちが二度目の風向操作に挑戦した時には既に菜園の方に被害が出ていたのだろう。台風の爪痕はそこかしこに見られる。元々私の魔力も集中して一時間程度しかもたないので、休憩していた時間を考えれば、どの道菜園を守り切ることは不可能だったのだ。
「いいえ、それでも例年と比べて被害の規模は小さいですよ。後片付けをすればまたいつものお庭に戻ると思います」
「ああ、これから片付けもあるのね」
菜園を見渡すと、庭で働いているうちのメイド達が出てきて既に作業を始めている様だった。考えてみれば当たり前だ。散らばった土や枝は誰かが片づけなければ無くならないのだから。
普段見慣れた我が家の美しい菜園は、装果達のおかげで維持されているのだ。
「よし、じゃあ私も手伝おうかな」
「えっ、いえ、お嬢様とダキニさんはお疲れでしょうから休んでいても」
「平気よ平気。この私がこういうめんどくさそうな事でやる気出すなんて珍しいんだから、手伝わせなきゃ損よ」
私がそう言うと、装果はぷっと噴き出して笑った。
「お嬢様、自分で言うセリフじゃないですよそれ」
「そういう時はそんなことないですって否定するのよ装果」
「ふふ、すいません。ではお手伝いをお願いします。散らばった枝等を拾って集めましょう」
私は装果と一緒にゴミ拾いをすればいいみたいだ。
「そう、じゃあ……」
「では、私は何か入れるための袋をもらってきましょう」
ダキニは唐突にそう言って、その場を離れようとした。
私は、かすかに違和感を覚えた。
「あ、ダキニさん。宗谷さんにビニール袋をもらってきて下さい」
「びにーるぶくろ、ですか。分かりました」
ビニール袋も知らないであろうダキニだが、宗谷さんの元に行けば袋をもらえるだろう。しっかり者のこいつには特に何の心配も要らない。
……はず、なんだけれど、何かが引っかかった。
「お嬢様、私達は向こうで先に拾い集めていましょうか」
「あ、うん」
私は装果の言葉に頷いて、ダキニを見た。
相変わらずの綺麗な白髪を尻尾のようになびかせて颯爽とした足取りで歩いている。その後ろ姿も別におかしくない筈なのに、ついて回る違和感。
私は結局納得の出来ないまま、装果の言う通り菜園の端の方に移動する。
「ねえ、装果」
「はい、何ですか?」
私が歩きながら質問したので、先を進む装果も振り返りつつ歩みを止めず応える。
「何かさっきのダキニ、違和感なかった?」
「ダキニさんが、ですか?」
装果ははて、と呟いて一度ダキニの歩いていった方を向く。もうだいぶ小さくなったその背中を見て言った。
「いえ、特にこれといった違和感は感じませんでしたが」
「そう。なら、いいんだけれど」
私は腑に落ちない感じで前を見る。どうにも気持ちが悪い。
「どうかしたのですか?」
「うーん、何だろう? なんか変な感じなんだけれど……あら?」
私が装果に何と説明したものかと思っていると、目の前の防風林の中を、何かが横ぎった。
「あら、何かしらあれ?」
赤い模様と黄色い線。カラフルな何かがちらちらと見えている。
「え? あ、何でしょう。さっきの台風でどこかからゴミが飛ばされてきたのでしょうか?」
遠くて見えないが、ビニールのような、シートのような質感の何かが動いている。
「ゴミ第一号ね。風で揺れてるみたいだから、飛ばないうちに回収しちゃいましょう」
「でもお嬢様、変ですよ? 風なんて吹いてないじゃないですか」
装果の言葉にあ、そうかと相槌を打つ。台風が過ぎ去ったばかりで、風なんて吹いていないのだ。
「でも揺れてるじゃない? 風じゃなきゃ何……」
そこで私と装果は歩みを止めた。
防風林の中で蠢いていた何かと、目が合ったのだ。
「……え?」
私と装果が状況を把握出来ないまま、それは姿を現した。
赤と黄色のカラフルな警戒色を湛えた肌。抜けるような青空の下、ぬめっとした質感を感じさせる照り輝く鱗。私の掌くらいあるかもしれない、ぎょろりとした爬虫類の目玉。
隣で装果が震え上がる。私も息をのむしか出来ない。冷汗が滲み、体が勝手に竦む。
背丈は私よりも大きい。ちょっと細長い首と尻尾に、鋭い爪のついた手足。いかにも肉食ですと言わんばかりの、閉じた口からも見える牙。
恐竜のような、ドラゴンのような。二足歩行の巨大なトカゲ。恐らくは魔法使いが呼び出した、獰猛な使い魔。
そんなこの場に似つかわしくない怪物が、私達の目の前に現れたのだ。
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