第10話 夏の野分と君の瞳に映る世界(前編)
休みが明けて学校が始まると、農業に取り組む前の、学生としての日常が戻ってきた。
流石に学校を休んで農業をやれとはお父様も言わなかったし、菜園の世話は元々宗谷さんがやってくれていたのだ。装果や他のメイド達が手伝ったりすることもあるけれど、装果も含め平日は学業、もとい魔法業に専念するという事で私はしばしお役御免となった。
変わったことと言えば……。
「マスター、そこは計算違いでは?」
「……分かってたわよ、それくらい」
部屋で数学の宿題をやっていると、ダキニが横から口を挟む。
そう、平日であっても休日であっても、私と行動を共にしようとする私の使い魔、ダキニ。
学校以外は四六時中ついて回る彼女との生活に、最初の方こそ辟易したり貞操の危機を感じたりもしたが、そんな暮らしにもだんだんと慣れてきた。
「というかあんた、関数が分かるの?」
「ええ、マスターが宿題をやるのを見て覚えました。ここの公式を使うんですよ」
机に座る私の隣に立ち、参考書の解き方の例の部分を指さして言う。これじゃあ使い魔というよりまるで家庭教師だ。
「ああはいはい、優秀な使い魔を持って鼻が高いわ私は」
そう言ってダキニを邪険に扱うが、彼女はそんな事ではびくともしない。
「お褒めいただき光栄ですマスター。まあ、向き不向きは誰にでもあります。例えこんな簡単な数学の問題が解けなくても、マスターの魅力は損なわれませんとも」
うふふあははとお互い笑いあうが、私の頬は引きつっていた。
「しかしこの程度の問題に苦戦するようでは、マスターの通う『学校』ではさぞ苦労されているでしょう? 私を連れていっていただけるなら、きっとお役に立て……」
「だーめ! あんたは学校には連れていけないわ。悪目立ちする上に厄介なことになるのが目に見えてるもの」
私はダキニの言葉を遮ってそう告げる。私とダキニはここ暫くしつこいくらいにこのやりとりを繰り返していた。
私が学校に行っている間、ダキニは家で留守番をしている。ダキニは私の世話をするだの身の危険から守るだのと言ってついてこようとしたが、私はそれを断固拒否した。
使い魔を学校に連れていかない、なんていうのは当たり前のように思うかもしれないが、私の通う学校は魔法学校。使い魔を連れていくこと自体は、許可さえ取れば実は問題ないのだ。
では何故私が頑なにダキニを連れていきたがらないかといえば、理由は簡単だ。
その『許可』が問題なのだ。
使い魔、特にヒト型の使い魔を正式に連れ歩くには、役所できちんと届け出と審査を受け、登録しなければならない。モンスターのような外見ならいざ知らず、ダキニのような完全なヒト型にもなれば人権やら色々と面倒なこともあるから。
そこでは当然、その使い魔が何者か、という所も問題になってくる。
「神格を持った使い魔なんて、本当はおいそれと呼び出しちゃいけないんだから。まあ、本物は呼ぼうと思っても呼べるものじゃないんだけれど。『本物』は……ね」
そう、問題なのはこいつが神格を持った使い魔か、それとも神格を持った使い魔の『フリ』をしている何かなのかがはっきりしないことだ。
「またその話ですか。私が何者かなど、それこそ私とマスターだけの問題でしょう?」
「世間はそう思ってくれないわよ」
前者なら注目を浴びることは間違いないが、記憶喪失などというのを見るに、召喚は不完全な形で成立してしまった可能性が高い。
「仮にあんたが本物だとしても、公に告知せずに神格を持った使い魔を劣化コピーの状態で呼び出してしまいました、なんてことが知れたらどれだけ非難されるか分かったものじゃないわ」
これは召喚術を扱う魔法使いの間では常識なのだが、こういう感覚は改めて考えてみると説明しづらい。まあ、神格を持った使い魔とは言い換えれば伝説や神話の登場人物でもあるのだ。
大切にされ、敬われるのが当然の存在。それを記憶も定かでない様な劣化した状態で呼び出したなど、公表できるはずもない。
「それにあんたがダキニだって、私だってまだ完全に信じてないんだから」
「やれやれ、マスターにも困ったものですね」
ダキニは苦笑しながらため息を漏らす。やはりここまできても自分の素性を語りたくないのか、それとも私が信じてくれないのに呆れたのか、ダキニはそれ以上何も言わなかった。
私だって本当は分かっている。こいつがただモノじゃないことくらい。
使い魔を呼びだした私だから分かる、確かな手ごたえがある。この間の薫さんとの戦いだってそうだ。あの薫さん相手にあれだけ戦える使い魔が、普通の使い魔であるはずがない。
けれど、それを他の誰かに証明する手立てもない。
「あんたの事はいずれちゃんとするから。それまではうちで大人しくしてて」
「今の待遇に不満があるという事ではありませんよ。私はただ、マスターのお傍にお仕えさせていただきたいだけですから」
そう言われてしまうとこっちとしては返す言葉が無い。何だか私が悪いみたいな気分になる。
確かに自分の使い魔の素性を証明してやれないというのは、主人としては格好がつかない。
「……分かったわ、お父様に頼んでみるから。と言ってもあんまり期待しないでね。普通は記憶を持たない使い魔を登録なんて出来ないんだから」
――
「亜琳。お前のあの使い魔だが、一応登録を済ませておいた」
登録の許可は、あっさりと下りた。
「あ、ありがとうございます……お父様」
私はお父様の書斎で複雑な心境に浸りながら、ダキニの使い魔としての登録について話を聞いていた。
自分でも予想していなかった。こんなにあっさりと上手くいくなんて。
使い魔の登録は問題の山積みだ。時間がかかるのは当たり前だし、使い魔の性格から素性、はては人間と体の作りが同じかどうかなど細かいところまでしっかりとチェックされる。勿論今回ダキニがそうした検査に駆り出されることは一切なかった。
お父様が魔法業界のお偉いさんで本当に良かったと思う。
「お前の言うように、本当に神格を持った使い魔かどうかは流石に判断する材料が足りん。しばらく様子を見て、はっきりした証拠が見つかれば改めて神格持ちとして登録を申請しなおせばいい。今回は使い魔の中でも第一級のヒト型不特定類として登録した。日常生活の範囲では普通の人間とほぼ同じ権利を持っていると思えばいい」
お父様はそう言って書斎を歩き回る。喋りながら歩くのは、お父様の癖のようなものだ。
「しかしもし本物だとすれば、準備も無しに神格持ちが呼べるほどお前の腕が確かなものになっているという事だ。嬉しいぞ」
「そんなお父様。まだ本物かどうか分かりませんから」
そう言いつつもお父様に褒められたことが嬉しくて、私はつい頬を緩めてしまう。魔法についてお父様が褒めるという事は、それは確かに私が魔法使いとして一流に近づいているという事だ。
当然、魔法少女としても。
「それに、違ったとしてもそれなりに格の高い使い魔であることは間違いない。あの容姿、態度、品格。どれもお前の傍に置くのに相応しいだろう。本人もお前に仕えたがっている様子なのだし、しばらくは装果と同様にお前付きのメイドとして仕事をさせるといい」
お父様は上機嫌でそう言うが、流石にそこは同意しかねる。お父様はあいつが実は腹黒性悪変態使い魔であることを知らないからそんな事が言えるのだろう。
私に仕えようという姿勢だけは買うんだけれども。
「それで、どうだ亜琳。菜園の方は」
「ええと、そうですね」
実は魔力で果実の瞬間育成に成功したので、もう農業なんてやらなくていいですか? という台詞が口から出かかったが、流石にアレを成功と呼ぶのはおこがましい。
何より詳しい事情を話せば、私が何もしていないのがばれてしまうと思って口をつぐむ。
「まだ、始めたばかりですし。あまり上手くはいっていません」
「そうだろうな。何か思いつくことがあったら、魔法で応用できないか試してみなさい。何事も試してから、だ」
お父様の言葉で、私は果実の瞬間育成を試した時の事を思い出した。
あれは失敗だったが、失敗は失敗なりに得るものがあった。植物が果実を作ろうとする働きを、人間が代わりにこなすことは出来ないと分かった。例え魔法をもってしても。
出来るのは、その働きを妨害しないよう、植物の助けとなることだけ。
それが分かっただけでも、十分な収穫だったのだ。
――
「と、いうわけで! 今日は防鳥ネットを張る手伝いをするわ!」
休日の朝。私は梨園の前で元気よくそう言うと、目の前のダキニにびしっと指を突きつける。
「さあ、頑張ってねダキニ。こういう時のためにあんたを呼び出したようなもんなんだから」
「はあ、別に構いませんが」
ダキニは私の言葉を受けて気だるそうにため息をついた。
「何よ。いつも私に仕えたい仕えたい言ってるくせに仕事するのは嫌なの?」
「いえ、マスターのお役に立てるのはとても光栄なのですが……こんな事を手伝わせるために私を呼び出したのかと改めて思うと、いささか……」
「まー! こんな事とは失礼ね! さあ装果、今回の作業内容を説明してっ!」
「お、お嬢様、テンション高いですね」
装果は苦笑交じりにそう言う。今日もエプロン姿が可愛い。見慣れた庭作業時の装果だ。
「だって、冷静に考えたら初めてのまともな作業じゃない。そう考えたらなんだか楽しくなっちゃって」
「ふふ、そうですね。しばらくは梨に関してはやることがありませんでしたからね」
「梨に関してやること無しっ! 梨だけに!」
「マスター、そろそろ鬱陶しいです」
ダキニは私に呆れた視線を送るが、私はそんなものどこ吹く風と受け流す。装果も同じ視線を送っているのに気付いた時は流石に少しへこんだけれど。
気を取り直すようにして、装果は私とダキニに向き合って説明を始める。
「今日は梨園に防鳥ネットを張ります。これは、成長した梨の実を鳥についばまれないようにするための措置です。梨園全体に張り巡らせるので、結構な重労働になると思います」
成程、鳥に実をついばまれないように網で梨園を覆う、か。物理的に鳥の侵入を防ぐわけだから、動物避けに柵を設けるのと同じ感覚かしら。
「重労働って、装果とダキニの二人でやるの?」
「……マスター、本当に手を出さないつもりなのですか?」
「いえ、あの、私とダキニさんだけだと大変なので、宗谷さんや他のメイド達にも手伝ってもらう予定です」
ふむ、やっぱり大人数で取り組むような作業なのね。
「重労働っていうからには、やっぱり網も重たいのよね。鳥の侵入を防ぐってことは金属製?」
私がそう言うと、ダキニも装果もきょとんとした目でこちらを見てきた。その視線にちょっとたじろぐ。
「な、何? 二人して」
「い、いえ。お嬢様、鳥は何も網を破って入ろうとして来るわけじゃないですよ」
「え? じゃあ何? 網は普通に柔らかい材質でもいいの?」
私は驚いてそう言うが、二人にとってはそれが常識だったようで、それはそうだみたいな顔をされる。
「うちでは確かポリエチレンのを使っていますね。あそこに掛かっている網がそうですよ」
装果が指さした先、梨園の端の方にネットがまとめてあるのが見て取れた。
「上に掛かっているあのネットを広げて、梨園に立ててある細い柱に結び付けていくんです。そうやって上を網で覆ってしまえば、賢い鳥は足に絡まることを恐れて、最初から近づこうとしません」
ははあ、成程。鳥って頭いいのね。
「なんだ。じゃあ、あんまり柵って感じじゃないのね」
「あくまで鳥と住み分けを図るような措置ですから。たわまない様にしておけば、間違って網に降りてきても足にひっかけることなく抜けるようになっています」
鳥にも優しい網、か。まあ確かに梨を齧られるのは嫌だけれど、別に鳥が憎いってわけでもないのだから当然かも。私はもっと硬くてとげとげしたのがついているのを想像していたのだけれど。
「ん? じゃあ逆に分からないんだけれど。それなら網を敷くのはそんなに重労働じゃないんじゃないの?」
「お、お嬢様。この梨園すべてを覆う広さを持つ網ですから、結構重いんですよ?」
装果はなおも呆れたようにそう言うが、今度は私が正しいと思う。
「何言ってるのよ、そのくらい。装果とダキニの二人で……ああいや、装果だけだと流石に無理か」
私は改めて自分の認識が間違っていないか思い直してみるが、別に問題も見つからない。うん、大丈夫なはずだ。
「私と装果とダキニ、三人で十分じゃない」
「え!?」
私の言葉に驚く装果。ダキニは特に驚いた様子は無い。どうやらこいつは私が言わんとしていることが分かったらしい。
「こらこら、私もダキニも、それに装果だって、魔法使いでしょうが」
「あ……モノを動かす魔法ですか?」
装果ははっとしたように眼を見開いてこちらを見る。私はそうよと短く答えて、折角だからこの機会を利用しようと思いつく。
「そうね、装果。久しぶりにあなたの魔法も見せてもらおうかしら」
「あ、はっ、はいっ」
装果は少し緊張気味に返事をする。こういう所で生真面目な装果の性格が出る。
「そういえば装果さんは、マスターの魔法の弟子とおっしゃっていましたが」
「そうよ。といっても付きっきりで教えてるわけじゃないし、たまに魔法の使い方を見てあげる程度だけれどね。毎日の自主練習は装果が一人でやっているわ」
私のメイドとしての仕事と庭師としての修業、さらに魔法使いとしての訓練までしている装果。あとついでに学校の勉強も。
こうして考えると本当にいつ過労で倒れてもおかしくない頑張りっぷりである。やっぱりもう少し休みをあげよう。
「じゃあさっそく始めましょう。私たちは網のこっち側。反対側はダキニがお願い。って、一応確認だけれど、あなたモノを動かす魔法って使える?」
ダキニは私の言葉を受けて、にこりと微笑んだ。
「はい、問題ありません」
爽やかで何らイヤミの無い笑み。こいつの整った顔立ちでそれをやられると、それだけで絵になる。本当に非の打ちどころがないくらいの美人だなあと思う。いつもこういう笑顔を浮かべていたのなら、もっとこいつを好きになれるんだけれど。
「じゃあ、反対側をお願い。私と装果はこっち側から網を広げていくから」
私たちは網の両側に分かれて、梨園の端と端に陣取った。網は梨園に立てられた柱に丸めて載せてある。それをそのまま広げていけばいいだけだ。
「いい、装果。まずは網を魔法で掴んで、そのまま転がすように広げていきましょう。ゆっくりでいいから」
「は、はい」
「ダキニー! 装果に合わせて、ゆっくりと動かしてねー!」
私は反対側にいるダキニに叫びかける。ダキニは手をあげ、了解のポーズ。
「よし、始めて。装果」
「はいっ!」
装果は緊張気味にそう答えると、両手を網に突き出すように向けて、魔力を込め始めた。
網が一瞬歪む。装果が魔力で網を掴んだのだろう。
「そうよ。そのままゆっくりと、転がすようにして網を広げましょう」
私の指示通り、装果は網を転がしながらゆっくりと広げていく。慎重に、ゆっくり、たゆまないように。几帳面な装果の性格をそのまま表しているような作業だった。
「くっ、ふぅ……」
装果が辛そうに息を吐く。まだきちんと網の重さを制御できていないのだろう。
「ほら、装果。肩の力を抜いて」
「は、はい」
装果が少し力を抜くようにすると、さっきよりもスムーズに進む。魔力の通りが良くなったのだろう。
魔法を使ってモノを動かすというのは、魔法使いにとっては初歩中の初歩の作業になる。が、より正確に、より速く、より重いものを動かすという事を追及していくと、これがなかなか奥が深い。単純に魔力を込めればいいというものでもないのだ。
例えば装果の魔力の総量はとても少ない。本来なら魔法使いと名乗れないほどごく僅かな魔法しか扱えない。
だが、モノの動きをしっかりと理解し、頭の中で確かなイメージとして作り上げられれば、このように重い網でも工夫しながら動かすことが出来るのだ。
つまり魔力のような持って生まれた資質ではなく、魔法使いの魔力を使う『腕』が問われるのが、この『モノを動かす魔法』というわけだ。
「はあ……はあっ」
「いいわよ装果。もう少し、もう少し頑張りましょう」
「はい……」
装果の額には玉のような汗が浮かぶ。七月の気候のせいだけではないだろう。魔力を集中して運用しようとすれば、それだけ体も疲れるし、運動した時のように火照りもする。
「はっ……あっ」
「……よし、そこまでよ」
私が止めると、装果はぐったりとしたようにその場にへたりこんだ。網はだいたい五メートルくらいは広げられただろうか。
「はあー、はー」
装果は座り込みながら荒く息をつく。細い腕と小さな背中が呼吸に応じて大きく上下している。装果の魔力量にしては、まあ頑張ったほうだろう。
「良かったわよ、装果。もう少し力を抜いて、優しく撫でるように、力に逆らわず動かすようにイメージするといいわ」
「は、はい……」
装果の肩に手を乗せ、いたわるように撫でる。火照った体の熱が掌を通して伝わってくる。装果は私の方を向き、やっぱり難しいですね、とぽつりと言った。
「よくやった方よ。装果の魔力量ならこれくらいできれば十分」
私がそんな風に太鼓判を押すと、装果も少しだけ頬を緩めるのだった。
と、そこで突如私の視界が二重になる。ああ、この感覚は……。
「マスター、装果さんはどうですか?」
「大丈夫。って、予告なしにそれ使うのやめなさいよ。突然あんたの視界が映るんだからちょっと驚くじゃない」
ダキニはまたあの感覚を共有する魔法を使ったのだろう。相変わらずどんな風にして視覚や聴覚を繋いでいるのか分からないが。今度ちゃんと聞いてみよう。
「あの……ど、どうしたんですか、お嬢様?」
装果は目を見開いて私を見ている。ああ、装果からすればいきなり私が誰もいない所に向かって話しているように見えるのだろう。
「あ、うん。ダキニと今感覚が繋がってるの。ダキニが装果は大丈夫かって聞いてきたから」
「……え? 感覚が繋がっている?」
「ああうん、詳しい説明は後ね」
きょとんとしている装果はとりあえず置いておくとして、まずは作業を終わらせてしまわないと。私はポケットから愛用の杖を取り出す。
「ダキニ、あんたはまだ大丈夫? 疲れたりしてない?」
「このくらいどうという事はありません、マスター」
流石は薫さんと渡り合っただけはある。まあ私もこの程度であいつが疲れるなんて思っていなかったけれど。
「じゃあ作業再開するわよ。私に合わせてね」
そう言って今度は私が装果に代わって網を広げる役に回る。作業を手伝う気は無かったのだが、疲れきっている装果にさせるわけにもいかないだろう。
何よりこの程度なら朝飯前だ。
「じゃあ、それっ」
私は一気に網を回して広げていく。成程、ちょっと重いがどうという事は無い。
「あっ、ま、マスター!?」
「あ、ちょっとたわんじゃったわね、いけないいけない」
私はすぐに網を戻す。たわんだ箇所の手前までくるくるとまた網を巻き、たわんだところを引っ張りぴんと張らせる。そしてそのまままた巻いた網を広げていく。
「ま、マスター! 止まってっ!」
「ん? 何よダキニ。またたわんでた?」
何かさっきも突然止めるから、たわんでいたのを指摘されたのかと思ったが、ちょっと違うようだ。
ひょっとして遅すぎただろうか? ダキニにとってはこれくらいどうという事は無いだろうし。それとも、どうせなら一回ぴんと全て網を広げてから、上から被せるようにしたほうがいいとか提案する気なのだろうか?
「あ、あの、マスター……」
「どうしたの? さっきから」
私の目には、こちらを向くダキニの姿。ダキニの視線からは、ダキニを見つめる私の姿が映る。
「その、大変、申し上げにくいのですが」
なんだなんだ改まって。あれ、もしかしてどこか引っかけて切れちゃったとか?
「その……速いです」
「え?」
本当に申し訳なさそうに、ぽつりとダキニは呟いた。
「も、もう少し、ゆっくりでお願いします」
初めて聞くような、弱気な私の使い魔の声。私は突然のその態度に驚きながらも、ダキニの要望通りスピードを遅くして作業を再開する。
そうして網を梨園全体に張り巡らせた後、ダキニはこちらに戻ってきた。
「……マスター、あの、お尋ねしたいんですが」
「え……何?」
何故か妙によそよそしい態度を見せるダキニ。私の方もどう受け取っていいか分からず困惑する。
「本気でやれば、もっと早く網を敷けましたか?」
「そりゃあ、別にそんな時間かかる作業じゃないし。初めから網は持ち上げてあったし、巻いてあったのを転がして解いただけじゃないの」
私がそう言うと、ダキニだけではなく、装果まではー、と息を吐いて顔を見合わせあっていた。
「いえ、流石は私のマスターです。改めて感服しました」
「お嬢様、流石です」
「ええっ!? ちょっと、そんな大それたことしてないわよ」
二人の妙に感心した態度に思わず照れてしまう。何よ。急にダキニの口調がかしこまったと思ったら、私の才能に驚いてたわけ?
あはは、なんかいい気分。
「ちょっとコツを掴めばこのくらいどうってこと無い無い。余裕よ余裕」
そうやってすぐ調子に乗るのもいつもの私だ。
「はあ、全く。全身無防備この上ないかと思いきや、変な所では大魔法使いのような卓越した力を持っているとは。相変わらずちぐはぐですね」
「魔法に関しては本当に天才ですけれど、学校の勉強はいまいちだったり、得意な所と苦手な所がはっきりしていますよねお嬢様は」
二人は何故か意気投合したように話し続ける。
「この間は魔力切れしただけで吐き戻したりする等、体力はからっきしですし」
「たまに朝寝ぼけて服の前後を着間違えたりもします」
「ちょっと二人とも、私のこと褒めてたんじゃないの?」
私はどんどん悪化する私の評価に待ったをかける。というか普通に本人の前で悪口言わないでよ。
そんなわけで予定されていた重労働、もとい防鳥ネット敷きはあっという間に終わってしまった。宗谷さんもそれを聞いて驚いていたけれど……魔法で農業の役に立てって、こういう事を言うんじゃないわよね?
予定よりずっと早くに作業を済ませてしまったので、私はそれからの時間を魔法少女試験の訓練のために使う事にした。菜園の端、周りに迷惑が掛からない所で魔法を使う。
「マスター、本当に細かい作業と言いますか、繊細な魔法の扱いに関しては飛び抜けていますね」
「そ、そう? なんかあんたに褒められるのって、やっぱり変な気分」
私はそう言いつつ、用意したバレーボールに魔力を込めて浮き上がらせる。そのボールを、30メートル先に置いたかごに向かって魔法で投げる。かごには敷き詰められた様々な種類のボール。
「あれだけ薫さんと戦える実力があるんだから、あんたもあれくらい慣れれば余裕よ」
ほい、っと私は空中のボールに魔力を再度込めて、空中で輪を作るように一回転させる。ジェットコースターのくるっと回るやつと同じだ。
そのままかごの上に落とすように持ってきて、かごの上でピタッと止める。そしてゆっくりと積み重なったボールの上に落ちないようにそっと乗せる。
「よし、1セット終わり」
私はかごのボールを全て魔法で持ち上げると、またこっちに持ってくる。ボールを全て地面に落として、またかごに向かって一球ずつ投げる。今度はバスケットボールからだ。
「気づいていないかもしれませんが、マスターのそれは、常人が逆立ちしてもたどり着けない境地だと思われます。私とて一体どれだけ修行すればマスターと同じことが出来るようになるか」
「え、そう? まあ私昔からちまちました作業とか、自由にモノを動かす系の魔法って得意だったし」
「それだけ繊細な魔法の扱いが要求される試験なのですか? 魔法少女試験というのは」
ダキニの言葉に、私はうーんと唸る。
「何て言えばいいのかな。モノを動かす魔法の試験も項目にあるんだけれど、別にここまでやれば合格っていうのが決まっていないのよ。だから私みたいにモノを動かす魔法が得意な場合は、とにかくこの分野で自分が凄いことが出来るってアピールして、出来るだけ点数伸ばしていかなきゃいけないの。どうせ私戦闘の試験では散々な結果になることが分かってるんだし」
「つまり、様々な魔法の錬度を見て、総合点で判断する試験、という事ですね」
私が説明に困っていた事を、あっさり短い言葉でまとめてくれるダキニ。
「そういう事。だからどこまでやったらいい、っていうのは無いの。磨ける技術はどこまでも磨いていけば得点になるんだから、っと!」
私はボール3個に同時に魔力を込めて飛ばす。空高く上がった三つのボールをぐるぐると回し、一つずつストンストンストンとかごに入れていく。去年の試験で高得点がとれた技だ。
お見事、とダキニから拍手が上がる。
「問題は戦闘試験なんだけれど……ダキニ、やっぱあんたが代わりに戦ってくれない?」
私がダキニの方を向くと、ダキニは困った顔をしつつ答えた。
「勿論それは構わないのですが……マスター、流石に試験中に粗相をされては、あまり良い印象を与えられないのでは?」
「はあー、そうよねーやっぱり」
私は脱力したようにため息をつく。ダキニが戦えば私の魔力が使われ、魔力が切れれば私は体調に異変をきたして倒れる。結局、そこが改善されない限りダキニを試験に使うことなど到底できない。
「魔力を使わないで闘うとかは?」
「武道の試合になってしまいますが、それでよろしければ」
いいわけない。これはあくまで『魔法少女試験』だ。
こいつが魔法を使う薫さんに素手に近い状態で挑めるほど強いのは分かっているが、やっぱり魔法を使って戦える所を見せないと。
だが魔法を使えば……。
「あー、私がやるしかないのよねー」
「苦手なのでしたら、私が教えますよ。手とり足とり、体を全て私に委ねてくだされば、必ずやマスターを立派な戦士にしてご覧にいれます」
体を委ねる、のくだりでちょっとダキニの頬が紅潮したのを私は見逃さなかった。何というか非常に頼みづらい。あと私は戦士じゃなくて魔法少女になりたいの。
「ああー、どうしよう」
「あの、マスター、ですから私に」
「ん? 何かしらあれ?」
私は食い下がろうとするダキニを無視して菜園の方を見る。宗谷さんが棒を持って、何やら地面に刺して回っている。棒にはひもがつけられていて、丁度柵のように植物の周りを囲っている。
「あれも防鳥ネット? いや、そんな訳ないわよね。あれの上にまたネットを被せるのかしら」
「いえマスター。あれは恐らくネギが倒れないようにするためのものかと」
ダキニの言葉で初めてあの緑の植物の正体がネギだと分かる。ネギってあんな感じで生えているのね。
「倒れないようにって、ネギってそんな弱い植物なの? もっと硬いイメージあったけれど」
「勝手には倒れませんよ。あれは野分を考慮しての事前の対策なのでしょう」
はて、ノワキ? また知らない農業単語だろうか。
「ノワキって何よ」
「え……ああ、今は呼び名が違うのでしたね。確か、テレビの中のモノが言うには」
ダキニは、少し考えるようにして間を置いて、説明してくれた。
「台風、と呼べばいいのですか」
そう、これが私の農業奮闘記、最初の壁となる出来事だった。
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