妻武木先生も『曰く』が見えている

東雲八雲

第1話 影をなぞる者

土屋つちやタオは、自身の持つ霊感体質を自覚している。



最初に自覚し始めたのは、中学に入学してしばらくの時、数十年前に自殺した幽霊をこの目で見た事だった。



初めはこの体質を受け入れられなかったが、大人しくも優しい幽霊たちと過ごしていく内に、彼らとも馴染めるようになった。



だが唯一、霊感体質に関して、苦手なものがあった。



それは、自身を狙う化物ばけものの存在である。



◆ ◆ ◆ ◆ ◆



タオの通う学校、梅林塚ばいりんづか高校は、百年の歴史を持つ学校だった。


それが理由で、生徒間では校内における噂話が日夜飛び交っていた。学校の七不思議のみならず、自殺した生徒の徘徊、存在しない教室、夜な夜な行われる儀式等々…とにかく、そんな噂話でもちきりだった。



タオはそれらの噂話を、基本的に信用はしていなかった。何故なら、この目でその光景を見ていないからだ。



所詮は生徒たちの噂、あるいはタチの悪い嘘やら悪戯の類いだ。勿論、実際に見ようと学校に忍び込んで、結局何も起こらず朝を迎えたこともある。だから信用していない。



「はい、みんな席に着け」



とある朝のホームルーム、タオが所属するクラスに、新任の教師が入った。



黒板には、その教師の名前四文字が書かれ、教壇にその名前の主が立っている。


少し白みがかった髪に、覇気のない目、背広を羽織らず、白シャツを晒しているスーツ姿、年齢は二十代後半ほどで、両手を教壇の机につけて、静かに生徒たちを見据えていた。



「今日から、産休に入る大嶋おおしま先生の後任として、ここに赴任してきた妻武木聡つまぶきさとしだ。経験不足ゆえ、至らない事もあるだろうが、よろしく頼む」



抑揚のない、淡々と自己紹介する教師、妻武木のクラスにおける第一印象は、とにかくかっこいい。という事だった。



◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「タオ、どう思う?新しく入った担任教師」



昼休み、教室で昼ごはんを食べながら話すクラスメート、麗菜れなは、ニヤニヤと口元を緩ませて、タオに尋ねた。



「……どうって、言われても」



対し、食パンに餡子を乗せて丸かじりしているタオは、返答に困るように咀嚼する。



「新しく来たんだ、って思っただけだよ」


「つまらないね~。あんなかっこいい先生が来たのに、何その反応」



麗菜はがっかりするように言う。思っていたのとなんか違ったようだ。



「かっこいい、かな。わたしには普通に見えるけど」


「男を見る目がないねータオは。幽霊見過ぎて、美的感覚までズレてるのかな?」



霊感体質は、皆には隠しているが、友達である麗菜には明かしていた。最初は信じてくれなかったものの、幽霊を介して彼女の秘密を暴いてやったらすぐに信じた。というより、ほとんど脅迫したような感じだったけど。



「それとこれとは関係ないでしょ……」



たかだか幽霊が見れるくらいで、美的感覚が鈍くなるはずはない。単に彼女自身、見るものを普通に見ているだけだ。



「だってさー、ここに在籍してる先生みんな冴えないじゃん。特に西塔さいとうは論外だしね」



西塔慎二さいとうしんじ、この学校の教師で、数学を担当している。


生徒間ではぶっちぎりで嫌いかつ苦手な教師で有名だった。計算ミスや人の失敗を厭味ったらしくいびり、自身はエリートだと自称するナルシストだ。その上ワックスをかけた七三分けの髪型が地味に鬱陶しい。



「んー、その気持ちはわかるよ。わたしだってあいつ嫌い」


「それが解ればよろしい」



ここまで言われる西塔も可哀想だが、実際慈悲も情けも必要もないくらい性悪なので、当然といえば当然かもしれない。



「そういえばタオ、さ。大丈夫なの?」


「ん?」


「今日でしょ、出るの」


「…………」



今日は金曜日、この日は、あいつが出る日だ。タオは麗菜からそれを指摘され、嫌そうに顔を曇らせた。



「ああごめん、嫌な事思い出した?」


「……うん、すっごくね」



初めて、それに遭遇したのは、一か月前。花の金曜日で浮かれて家に帰る途中の事だった。



日が沈みかけた夕方、住宅地を歩いている時、そいつは現れた。


電柱の影、建物の影にそって、彼女に近づく化物。



タオはその正体は全くわからないし、振り向いても姿は無く、常に影しか見ることが出来ない。


足早に逃げようとすると、奴も足早に追いかけてくる。どんなに距離をとっても自分の足元につけてくる。



姿の見えない、影だけの化物だ。



「今日はわたしも一緒に帰るよ?それなら安心だよね」


「い、いいよ。麗菜に迷惑かけたくないから」



自分でも見えない化物に、友達を巻き込ませるわけにはいかない。



「むぅ、それってわたしがお荷物って意味で?」


「そうじゃないよ」



自分が出会った中では、あれは危険だ。いつも家に帰って逃げ切っているものの、もし追いつかれたらどうなるか、わからない。


追いつかれたら、多分殺される。それだけは確信していた。



「……あっ」



化物の事を、鬱々と考えていると、麗菜がおもむろに、思い出すように声を漏らした。



「?どうしたの?」


「思い出した、次の授業、数学だよ」


「うぅ……」



金曜日の四時限目は数学、忘れていたわけではないが、改めて確認すると、一層うんざりする。


西塔の嫌味を聞いた余韻で、あの化物に追いかけられると思うと、正直精神的にしんどい。



「(……きっついなぁ)」



そんな嘆きも、五分後に現れる西塔に聞こえる事は無かった。



◆ ◆ ◆ ◆ ◆



放課後、麗菜と別れてから、いつもの通学路を歩く。



登校時も下校時も同じで、高校入学時から使っている。馴染みの通学路だ。



「…………」



だけど、この日だけは、


だけは違う。



「……!」



来た。あの化物だ。



振り向かずとも、タオはそいつの存在を感じ取れた。


霊感体質だからこそ、振り向かず、見る事もなく、気配を感じ取る事が出来た。もしこの体質を持たなかったら、恐らく自分は生きていないかもしれない。



実際どうなるかわからないが、少なくとも無事では済まない事はわかる。



今日も、あの化物から逃げ切ってみせる。



「…………」



まずは、振り返る。



姿は無い。


だが、電柱から伸びる影が、生き物のようにわずかにうごめいている。



あれが、タオを追いかけている化物だ。



「(まだあの距離、今のところ良い方だけど……これ以上近づけさせないように……)」



歩くスピードを速め始める。それに比例して、化物も追いかけるスピードを上げてきた。


時折、タオは振り向いてみるものの、姿は一切見えない。影が蠢きながら、こっちにくるだけだ。



「(振り向きながらの移動なら、あいつは近づいてこない。でも振り向かず動けば、あいつはじりじりとやってくる……!)」



四回も追っかけられれば、これくらいの推察くらい簡単に出来た。


どう動けば良いか、どの行動が最適か、観察してみればそれほど難しい事ではない。



「…………」



しかし、今はこうして距離を取れてはいるが、もし、


従来のやり方では通じない方法で近づいてきたとしたら?



間違いなく、自分はあいつに捕らわれる、捕らわれて、何をされるかわからないけど、


捕らわれてしまう事で、大きく失うものがあるのは、タオの中で感じていた。



相手が見たことがない化け物だからこそ、感じていたのだ。



「(日が沈むのも問題……天気が悪ければ尚更……)」



たびたび振り向いてはいるが、影はいつの間にか、二つ先の電柱の影に潜んでいた。今までより早く動いている。



「(今日の天気は良好、晴れ晴れとしてるはず、なのに)」



目を離して、また振り返ると、影は電柱の上にいた。これは初めての事だった。


いつもは電柱の後ろにいるだけだった。今回は違う、登っている。



「(……まさか)」



と思いつつ、タオは走り出した。時折、振り向きながら走る。



そこで、タオは目撃した。



影は電線を伝って、距離を詰めて来た。



そうか。それならば姿を見せずに近づける。というより、



「(あんな細い所なのに、何故姿が見えないの……!?)」



自身の思っていた化け物は、あっという間に予想を外した。


三本しかない電線を伝って行くならば、姿が見えてもおかしくない。だが映るのは影だけだ。何も映らない。影のみが映った。



やばい。と思ったタオは、走り出した。だがそれは失敗だった、振り向かずに走ったのは、彼女の失敗だった。



背を向けてしまった事で、影は更に追いかけるスピードを上げていった。


タオの足では、影を振り切ることは出来ない。



「あっ」



近づいている影を見ようと後ろを振り向こうとした瞬間、足が上がらずもつれてしまい、タオはその場に勢いよく転倒した。


その際に、胸元を打ってしまい、息が詰まってしまう。



「う、あ、」



足を止めたという焦りから、呼吸が途切れた戸惑いから、すぐその場で立ち上がって逃げるという行動に踏み切れなかった。


ひたすら、逃げなきゃいけないという感情に押し流され、どうすればいいかを完全に見失っていた。



その間に、タオの背後には、既に黒い影がのっぺりと立ち上がり、



タオの身体を覆うように、そのまま倒れ込んできたのだ。













「『踏影とかげ』みっけ、影踏んだ」



どことなく、聞いた事があるような声色と共に、タオの背後に立ち上がった影の上から、隕石のように落下してきたかと思うと、突き出した片足を、影に向けて力強く踏みつけた。



『-------』



悲鳴にも聞こえた。声にもならないうめき声と共に、影は抑えつけられるように、そのままゆっくり地面に呑まれていった。



「……?」



何も起きないと思い、タオは呼吸を小さく整えてから、後ろを振り向いた。



自身を追いかけていた影は居ない。その影もない。その代わり、一人の男が立っていた。



背広を羽織らず白シャツを晒しているスーツ姿に、少し白みがかった黒髪、夕陽の影で表情はおろか顔も見えなかったが、数秒してから、その顔を目撃した。



タオの学校に教師として赴任してきた、妻武木聡だ。



「怪我はないか?」


「……は、はひ」



思わぬ人物の登場に、タオはそんな間の抜けた声を上げるほかなかった。

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