第終話 Souvenir

 黒一色で統一されたその場にはもう誰もいない。喋っていた男もいないし、それを見守っていた人々も。椅子はそのまま残されている。張りつめた空気がその場を支配している。

 椅子の奥の暗幕にライトが当てられ、白く文字が浮かび上がった。

〝Banquet is over〟

 文字はかすかに動いていた。まだ何も終わっていない、とでも言いたげに。そして、それに応えるかのように、男の声が誰もいないその場に響いた。

「世界は美しく、それと同じくらい醜い。信じるべきものは確かにあるかもしれない。けれど、疑ってかからなければいけないものが多すぎて、結局、我々の生涯は疑い続けているうちに終わってしまう。そうは思いませんか? 多くの人は、自分が自分である意味を、或いは、誰かと出会ったその理由を誤魔化して生きています。あたかも全てが素晴らしい事であるかのように、人に、自分に嘘をついて、かろうじて生き永らえています。そうでなくては、つらいから。考えても分からないから。認めたくないから。知りたくないから。怖いから。長くもあり短くもある道のりを、我々が耐えるためには、そんな、根本的な部分ですら誤魔化さなければならない。我々は、悲しい生き物です。〝自分〟なんていう面倒くさいものを持っているせいで、それを守らなければならない。そのために、裏切りや争いを肯定しなければならない時もある。この世界は、そうして運ばれています。だから僕は皆さんに言いました。世界は、嘘で溢れている、と」

 文字が、彼の声が聞こえてくる前よりも大きく動き、そして消えた。残された、揺れる暗幕が何処か寂しそうに見える。彼はそれを無視し、更に言葉を続ける。

「いつか、僕はいなくなります。僕だけではない。貴方も、貴方も、貴方も。誰も彼もがいなくなります。そしてその後には、やはり似たような顔つきの似たような人々が、何の進歩もない醜い世界を運んでいく。未来の事は分からない、と言う人がいます。しかし、過去の歴史がそれを証明しているとは思いませんか? 我々の過去は、戦いと、苦悩と、嘘偽りの集合です。世界の、ほんの僅かな美しさの側面だけを見て繁栄をうたい、信じるべき未来があるのだと偽り続けてきたのが、我々、人間と呼ばれる種族です。これは、悲しい事……僕はそう主張します」

 誰もそれに答える者はいない。その場にはもう、誰もいない。彼だって、それは理解している筈だ。だから多分、彼が言葉を一度切ったのは、単なる約束事に過ぎないのだろう。

「もう一度、貴方の声を聞かせて下さい……言い換えましょう。貴方の、返事を聞かせて下さい。貴方は、この世界を愛せますか?」

 数秒の沈黙。カチリ、という音が場に響き、再び、暗幕に文字が投影された。

〝Banquet is not over〟

 暗幕の上に踊っていたのは、そんなフレーズだった。相変わらず姿の見えない彼だったけれど、口の端に笑みを浮かべたのが気配で分かる。

「僕が見ている世界とはまた別のものを見ている人も大勢いる。大丈夫です、分かっていますよ。僕は、貴方の答えを尊重します。貴方の行動を束縛したりするつもりはありません。貴方が貴方である限り、全ては貴方の自由です。僕はそこに、一つの足場を提供する存在に過ぎません。その役目を終えた今、僕に何が出来るのか……そうですね、世界のある側面の一員として、貴方を歓迎するくらいの事ならば、僕にも出来るかもしれませんね」

 再び、カチリ。文字が消え、すぐに、別の言葉が投影される。彼の声がその文字に合わせ、これまでで一番高らかに響く。

〝World is beautiful〟


――この嘘だらけの世界へ、ようこそ。


 

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