第9話 惑星

 昔からあまり形の変わっていない街らしい。殆どの道が狭くて、沢山坂道、時々階段。小高い山が三つ連なっている街で、家々はその斜面に揃ってへばりついている。人間の巣? 下から見上げる我が町は、ちょっと気持ち悪い。

 目隠し代わりに各家が好き勝手に植えている木々の緑が深くなったらシーズン到来。その店は冬の間はずっとお休みなのだ。気難しい店主は日本が寒くなると南半球に逃げる。そして、春の終わりに戻って来る。わたしがその店を知った十年前からそういう事になっていて、それは今でも変わらない。多分、店が有り続ける限り、ずっと変わらないと思う。何せ、気難しいのだ。やりたい事をやっている店で、やりたくないことは一切やらない店。売れなくても良いらしい。店主の言い分を借りるなら、「そういう次元の店ではない」。とても、とても気難しいのだ。

 店の名前を、惑星堂と言った。



 惑星堂は地球儀の専門店。見るからに骨の太そうな、古くて大きな木のような、ソウさん、と呼ばれているおじいさんが一人でやっている。

 付近の人は殆ど近づかない。店の照明は蝋燭だし、道から見えるショウ・ウインドウにはずらりと地球儀。大きいものもあれば小さいものもある。セピア色のもの、濃紺を基調としたもの、シンプルな、地図帳みたいな配色の奴もある。色々なところで売っている地球儀を買い集めて、それを並べているらしい。わたしが惑星堂に引きつけられたのは、その地球儀のおかげ。何処かへ行きたかったし、此処からいなくなりたかった。そういう子供だったから、地球儀の中の小さな世界の広がりがたまらなく素敵に見えて、通い始めて、いつの間にか惑星堂はわたしにとっての世界になった。



「学校」

「嫌」

「勝手にすれば良い」

 ソウさんとわたしの朝の挨拶におはようは無い。中学を卒業して以来のわたしは毎日を惑星堂で過ごしている。地球儀の掃除を手伝ったり、店番。一応レジがあってわずかばかりのお金が入っているけれど、きちんと使ったことは一度も無い。お客なんかまず来ないのだ。まるで、この店だけが違う世界に属しているみたいに惑星堂は町中から無視されている。

 一日の終わりにソウさんが千円くれる。いらない、と言うと怒られるから貰う。帰り際に「学校」と言われる。あたしは「嫌」と答える。

「勝手にすれば良い」

 ソウさんがそう言って扉を閉める。鍵をかける。わたしは帰る。家に帰って、貰った千円を貯金箱にねじ込む。どうやっても入らないぐらいに千円札が貯まったら、旅に出る。小さな地球儀を片手に、大陸を指先でなぞりながら。

 どうしてこうなった? なんて、他の人は皆して首をかしげる。わたしにだって分からない。中学を出れば毎日惑星堂で過ごそう、と勝手に自分で決めていた。そして事実、そうなった。中学三年生の頃には両親に受験の事でさんざん詰め寄られたけれど、あたしは無視した。中学に入った時にソウさんがお祝いとしてくれた、小さなガラスの地球儀を掌の上で転がして、大陸を指でなぞって旅をした。両親はいつの間にか諦めていた。多分、家を継がせれば良いという事にしたのだと思う。家は、昔からのせんべい屋。今のところ、継ぐ気は無い。なら、将来はどうする? 未定。狭くて小さな世界の何処かで、何かする。生きて行く。わたしにはそれがそんなに難しい事だとはどうしても思えない。



 昨日十七になった。五月二十日。毎日惑星堂で過ごしているあたしに友達と呼べる人はいない。中学時代の〝知り合い〟なら数人。一人だけ、前は友達だったかも、と言える人からは「おめでとう」とメールが来た。ユリちゃんという、誰にでも分け隔てなく優しい子。今は確か、県内で一番の進学校に通っているはず。わたしとは違う世界に住んでいる子。ユリちゃんの誕生日はいつだっけ。思い出せなかった。ソウさんがお祝いに、羊皮紙製の世界地図をくれた。「地球儀の方が好きか?」と聞かれた。十分嬉しかったから首はどちらにも振らずにお礼を言ったけれど本当は地球儀の方が好き。世界地図は、わたしにとっては偽物の世界なのだ。指でなぞっても、あまり旅が出来ない。こんなの、誰に説明したって分かってもらえないような事だ。わたしの世界は狭くて、球状で、誰にも理解されない。何処かで、誰かが掌の上で転がしていてくれないかな、と不意に思った。自分でも意味が分からなかったけれど、世界がもしそういう形なら、それはきっと、素敵な事。



 その日は、雨が降っていた。

「我々は何処へも行けない」

 ソウさんがそう呟いた。わたしは反論の代わりに、店先の地球儀の一つを回した。くるりん、と縦に半回転。ジャイロマティック構造とか言うらしい。北半球が世界の裏側へと駆けて行った。

「何処へでも行ける」

 そう言うと、ソウさんはつまらなそうにかぶりを振り、もう一度「行けない」と呟いた。

「世界の何処へ行こうとも、我々は〝此処〟から出られない」

 ソウさんがとても無念そうな顔でそう言うと、雨脚が少し強まった。わたしは回した地球儀を元の形に戻した。世界は元通り。ソウさんも、もう残念そうな顔をしていなかった。わたしが気に入ったと思ったのか、回した地球儀をプレゼントしてくれた。

 何処にだって行ける。そう信じてあたしは、中心を南極にして部屋に飾った。



 わたしが学校に行きたくない理由は簡単だ。学校の世界は、わたしの知っている世界よりも小さい。音楽の話と服の話ばかり。男の話? わたしは、ソウさんみたいな人が良い。ちゃんと、世界と自分がある人。世界がどんな形をしていて、自分がどんな形をしているか知っている人。そんな人、ソウさん以外に見た事が無い。それはきっと、わたしの属している世界はわたしが嫌っている学校よりも、更に、うんと小さいから。

「高校はまた違うよ、きっと」

 わたしに優しく教えてくれたのは、ユリちゃん。信じなかったわけじゃないけれど、わたしが行く学校とユリちゃんが行く学校は違うから、わたしはその意見を却下した。ユリちゃんが悪いわけじゃなくて、これはわたしの問題。



 冬場は、つらい。ソウさんはいなくて、惑星堂は開かない。十六歳の冬に、試しに手首を薄く切ってみた。血が少し出た。それだけ。心臓は高鳴っていたけれど、何かが変わったわけでもない。世界は相変わらずで、空気は冷え切っていた。切り傷にばんそうこうを貼って、あたしは地球儀を回し続けた。此処ではない、何処かへ。

 十七歳の冬は惑星堂が閉まっている間中ずっと、家のせんべい屋で働いた。ゴミ出しをしたり、材料の仕込みを手伝ったり。少しだったけれどお金を貰えた。貯金箱の中身を取り出す日は近い。回し過ぎたせいなのか、地球儀は壊れた。棄てるのは嫌だったから、家の庭に穴を掘って、埋めた。線香を立てた。

「また会おうね」

 きっとまた会える。だって、わたしは何処へでも行けるから。



 十八になった朝、家を出る事にした。目的地は特に無い。何処へでも行ける事を証明する旅。ソウさんに話したら「学校」と言われた。「嫌」と答えた。

「勝手にすれば良い」

「ソウさん、ありがとう」

「地球儀、持っていくのか?」

「これ」

 ポケットの中に、ガラスの地球儀。何度もなぞった大陸の縁。繰り返し横断し続けた太平洋。アメリカを東から西へ渡って、大西洋。ビスケー湾からフランスへ上陸。スイスやルーマニアを経由して、南東へ進む。トルコ、シリア、イラク、クウェート、そこからずっとペルシャ湾に沿って南下して、アラビア海から、島々を経由、オーストラリア上陸。指先は海洋を彷徨い、そして南極に到達する。南緯九十度。近くに、南極条約に入っている国の旗が立っているらしい。

「何処へも行けない。何処へ行こうとも、此処からは出られんさ。生きている限りは」

「何処へでも行ける。生きていれば、必ず」

「勝手にすれば良い」

「ソウさん、またね」

「会えるかね」

「会えるよ、絶対」


 だって、わたしは何処へでも行けるから。

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