第8話 Westerly wind
誰に養われているわけでもないが、彼女はそれなりの暮らしを向こう二十年程度は続けていけるであろう資産を有している。彼女の五十倍ぐらいは真面目に働いてきたのであろう彼女の父親からの生前贈与。それに、彼女自身が大学を卒業して三年間、彼女自身の言い方によるところの〝精神の粉砕骨折〟に至るまでの間に作った貯金。そして、その骨折を修復していく過程で人からの勧めを受けて描いた漫画がマイナーな雑誌ではあるものの掲載に至ったことによって不安定ながらも稿料を得るようにもなった。毎日を会社勤めに支配されている人々からすれば十分に人生の勝利者と言えるだろう。
もっとも、彼女自身にその自覚はなく、彼女は日々、自分自身の事を社会における廃棄物であると再認識し続けながら、病的な量の酒と薬を飲む。そして、気絶と呼んだほうが相応しそうな睡眠に転げ落ち、覚醒と夢想の隙間を漂いながら時々仕事をする。三か月でおおよそ六十枚。今現在の彼女にとって唯一の社会との接点とも言えるその仕事も、彼女を病的な思考や酒から解放することはない。彼女は日々考え、飲み、気を失う。ここ数年の彼女の暮らしはほぼ一定して病的で、それが改善するような兆しは何処にも見当たらない。状況のみを見て判断すれば、彼女の精神は粉砕骨折どころか、〝全身を強く打って死亡〟していると言った方が良さそうな有様だった。
*
「たまには外出したほうが良いですよ」
「してる。お前がいない時に」
「隣のコンビニと角の郵便局以外では?」
「…………」
私が彼女の家を定期的に訪ねるようになったのは二年前からのことで、元々は仕事だった。私はあまり有名とは言えない、大型書店の片隅で一冊だけ棚ざしになっているような雑誌の編集者の一人で、彼女の担当を先輩社員から申し付かった……訂正。押し付けられた。当時の彼女は今よりもひどい酔っぱらいで、年中無休のアル中だった。仕事のペースは極めて緩慢で、人間との交流を嫌い、誰がどれだけ進めても頑なにアシスタントを雇わない。その上、面倒なことに彼女の作品を待っている人の数は決して少なくない。キャリアが浅く、尚且つ一通りの仕事の流れを掴んだ人間に押し付けるにはこれ以上無い好条件だったことだろう。
最初のうち、私と彼女の間には短い会話すら成立しなかった。私が何かを求めても彼女は酔っているのか、それとも遠回しに拒否をしているのか要領を得ない事ばかりを口にした。一方の私は彼女が何を望んで何を拒絶しているのか、それすら分からなかった。
知り合ってから半年ほどして、彼女自身の希望で隔月刊の雑誌から季刊の姉妹誌に連載を移した頃から、いくらかの会話が出来るようになった。何が変わったのかはいまだ持って分からないが、彼女にとっての何かが確かに変わったのだろう。締切に余裕が出来たこと。私が「もうすぐ会社を辞めることになると思う」と彼女に打ち明けた――同時期、私の心もまた、粉砕とまではいかないものの複雑骨折程度のダメージを受けていたのだ――事。目に見える変化はこの程度だ。だから、きっと目には見えない何かの変化によるものなのだろうと思う。
会社を辞めた私は彼女のアシスタントになった。報酬は毎月十万円で週五日、一日四時間。全て彼女の申し出通りの内容で、私はそれをそのまま承諾した。勿論、そのうちに精神的複雑骨折が完治すればきちんとした就職活動をするとは思うが現状では未定だ……もう一年半経っているが、それはどうでも良い。これは彼女の話。私の事なんかどうだって良いのだ。
彼女がどうして私をアシスタントにしようと思ったのかは今でもよく分からない。私は手先が器用でもないし、絵に関する心得もない。だから、アシスタントとは名ばかりで、実体は彼女のかわりに買い出しに行ったり、彼女の荒れ果てた部屋を片付けたりしているだけだ。それでも彼女は何らかの理由で私を必要とした。悪い気はしない。
*
彼女の家に通ううちに、私は彼女の精神的状態は少しずつ快方に向かっているのだと感じていた。アルコールの摂取方法や、見ている方が眩暈を覚えてしまう薬の量など、彼女の生傷を再認識させられるシーンは多々あったけれど、それでも彼女は私の前では笑顔を見せてくれたし、機嫌の良い日や締切前に原稿が仕上がるという奇蹟――彼女にとってそれはまさしく奇蹟的な事なのだ――と巡り会った時には酒と料理を振る舞ってくれた。私は日々を重ねるごとにそんな彼女の事を気に入っていったし、彼女もまた、私の事を気に入ってくれたのだろうと思う。あまり人から好かれないで生きてきた私にとって、それは大きな喜びだった。
きっと、そのうちに彼女は完全な回復を果たすのだろう。そう感じる瞬間は少なくない。その度に私は嬉しくなる。私は出来るだけ彼女を助けたい。彼女の回復のその時、その瞬間に立ち会いたい。何らかの理由の正体は不明でも、彼女は私を必要としてくれた。だから、同時に寂しくなる。
そのうちに彼女は正しいルートで、まっとうな、もっと役に立つアシスタントを雇うかもしれない。そのうちに私は来なくて良いことになるかもしれない。〝今まで迷惑をかけてごめんなさい。もう大丈夫だから〟なんて、そんな言葉がセットで投げ込まれてしまったら、その時、私はどんな顔をすれば良いのだろう。多分、意識的に表情をつくることなんか出来やしない。いびつな、不完全な、けれど多くの精神的負傷者が頻繁に形作る半笑い。そんな表情、出来れば死ぬまでつくりたくもない。つくりたくもなかったのに。
「お前はどうして生きているの?」
それは解雇の話題でもなんでもなく唐突にやってきた。半笑いになるしかなかった。何を尋ねられたのかを理解するのにすら時間がかかったし、適切な回答なんか、そのひとかけらすら見当たらなかった。
「悪い。上手い訊き方ではなかったかも。つまり、要するに、私自身のそれが分からないから。お前はどうやって処理してるかなって」
彼女はそう言って、私の作るそれよりも百倍ぐらい可愛らしい笑顔を浮かべた。いつも通りのアルコール臭い口元。口角が、やさしく持ち上げられている。次第にそれがほどけていって、あとに残ったのは寂しそうな目。眺めまわすだけで首が疲れてしまいそうなほどの不安の気配と、鉄道コンテナの一つや二つならばすぐに埋め尽くしてしまいそうな量の精神的トラブル。快方に向かっていると感じていた私の観察力の不足なのか、或いは何かが彼女を蹴り戻したのか。暗くて、冷たくて、深刻な、彼女の居場所。何故生きている? 私がそんな難問に対する答えを持っているはずがない。それはきっと、世間様で言うところの〝悟り〟とかいうやつだ。そんなもの、私が持っているはずがない。私まで一緒に蹴り落とされそうだった。
*
「それはきっと、誰も知らないと思う……」
私の、かろうじて口から出た安物の回答を彼女は気に入らなかったようだ。当然。私自身、こんなくだらない答えしか導き出せない自分の存在理由が分からなくなりそうだ。暗くて、深刻。私にとってはまだ踏み込んだことのない場所。
「生きていないなら、考えない。生きているせいで、何故とか、どうやって? とか。知ってる。みんな知らないよね。知りたくないのかも」
彼女は顔から表情の一切をひそめ言った。私は言葉を探す。妥当な見解を探す。私の中には、やはり無い。古き時代の偉人の言葉にはあるだろうか。知らない。知りたくもない。あんなの、全部まとめて中古品だ。私のことすら救えない。
「困らせてごめん」
あまりこの季節には似合わない強風が東側の窓をかたかたと揺らしている。蹴り落とされそうな私。吹き飛ばされそうな彼女。穏やかな秋の中腹。平日の、静かな午前中。その言葉の響きとはあまりにもかけ離れたうす暗い空の下、2DKのそれほど綺麗ではないアパートの一室。蛍光灯の白い明かりが、とても現実的な明るさでもって、私達の身体の周りに、うす暗くて不確かな影を幾重か生み出している。この影はどうして生み出されるのだろう。答えは簡単だ。私達がこうして、ここに在るから。それなら、私達はどうしてここにこうして在るのだろう。知らないし、知りたくもない。彼女の言う通り。私も知りたくない。わざわざ、蹴り落とされると分かっていながら崖に立つ趣味はない。それはきっと、彼女だって分かっている筈だ。それでも、分かっていながらも解を求めた彼女は、私にどんな答えを期待したのだろう? 命綱? パラシュート? それとも、ヒーロー的な救出劇? 私は救いになんかなれない。少なくとも、誰かが私を救いだしてくれないと。
*
「例えばね……」
そう言って彼女は幾つかのケースに分けられた大量の錠剤を私の前に広げてみせた。
「今、わたしはとても落ち着いている。変な事を訊いたのも、別におかしくなっちゃったわけじゃない。物凄く冷静。さて、何故だろうか」
「……きちんと薬を飲んでいるから?」
「本当は酒飲みながらなんて駄目なんだけど、まあ、わたしの場合はいくらか慣れもあるからな」
彼女はライトグリーンのプラスティックケースを手に取って揺らす。錠剤の、いくらか病的で乾いた響きが、彼女の掌を中心とした極狭い範囲に広がる。
「平静な状態っていうのは考えることが出来る状態。最初は薬の力だって分かっているけれど、穏やかな凪は、やがて嵐を求める。そして、わたしは考えはじめる。〝こんな薬で生きているわたしって、何だ?〟」
「…………」
「それは生きている理由を求めているようだけど違う。どちらかと言えば死なないでいる必要性の有無を探している。つまり前提に置かれているのは死だ。嵐が近づけば近づくほど、私はそれを拒む必要性を見失う」
「それでも貴方は生きています、私も」
「そう。生きてる。手首を薄く切ったり、オーバードーズしたり、アル中になったりしながら生きている。訂正。生きているんじゃないね。死なないでいる。それがどうしてだか、わたしも分からない」
それから、沈黙が降りてきた。耳に刺さる種類の沈黙。私と彼女はその中でずっと目線を合わせ続けている。彼女がそうしている理由は分からない。私は……目を離したらその瞬間に彼女が液体にでもなって、そのまま流れていってしまいそうな気がしたから。
「天国はね、昇っていくような場所じゃない。アレは、堕ちてくるんだ。ある日突然、拒否する暇もないスピードで」
「地獄に落ちるっていうセンは無いんですか?」
「自分の意思で墜落出来るなら、まだ幸せだと思わないかな?」
分からない。分かりたくない。幸せ? それって、どんな形で、どこからやってくる? 私が此処に在って、彼女がこうして目の前にいるその事が持つ意味とは何だ? 私に分かるはずがない。強風が吹き荒れていた。がたがたと、世界中が音を立てて震えていた。
「〝風が東寄りに吹いてるときは、人にも獣にもいいことがない〟」
「それは?」
「マザー・グース。今描いている話しに引用しようと思って……この間、何冊か資料買ってきてもらっただろう?」
「…………」
「〝風が西寄りに吹いてるときは、誰にとっても万々歳〟」
彼女は寂しそうで、悲しそうで、それでも何処か楽しそうだった。
「風向きは、そのうちに変わる」
「そのうちに?」
「そう、そのうちに、必ず」
つぶやきながら、彼女はひそやかに落涙していた。まるでそれが答えであるかのように。
*
彼女はきっと、これから先もこうして壊れ続ける。私はそんな彼女の助けになりたいと願いながら、同時に自分自身を壊していくことになる。より正しくは、〝彼女によって、破壊されていくことになる〟。
きっと、この日々はもうしばらくの間続く。彼女が望むうちは続く。私が修復不可能なほどに破壊されないうちは、少なくとも。
風向きは変わる。いつか、必ず。けれど私はそれを望んでいるのだろうか。分からない。分からなくて良いのだ、こんな事。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます