第6話 コーヒースタンド

 コーヒーショップと名乗って良いのかどうか。駅の一角、しょぼい壁で覆われていて、入り口から二列、縦に長いテーブルがある。椅子は無い。奥にレジが一台。コーヒーの種類だけはそこらへんのチェーン店並にある。あとは、毎朝運ばれてくる既製品のサンドイッチやベーグル。主な客層は朝、手早く朝食を済ませたい勤め人たち。名前はシンプルだ。その名もコーヒースタンド。安くて早くて、決しておいしくはない。グランドオープンからこちら五年勤めているわたしがそう言うのだから間違ってはいないと思う。それほど良い豆を使っているわけでもないし、温度や蒸らしにこだわっているわけでもない。普通だ。値段相応とも言う。百五十円で顔がほころぶようなコーヒーが飲めるわけがないのだ。その証拠に、これまで〝おいしくない〟というクレームをつけられたことはない。〝ぬるい〟と〝遅い〟は何度か。その程度のお店。コーヒーショップ……やはり、名乗ってはいけないと思う。ここはコーヒースタンドだ。それ以上でもそれ以下でもない。



 大学二年生の時に家の最寄り駅にグランドオープンして、オープニングスタッフとして勤め始めた。人並みに就職活動もしたけれど、入りたかった会社の試験に軒並み落ちて、やる気をなくしたまま卒業した。もし男だったら非常事態だったかもしれないけれど、幸い女で彼氏もいる。彼はまっとうな会社にまっとうに就職した。そのうち結婚すると思う。完全に養えとは言わない。パートぐらいには出る。そう考えれば、まともにわたしが就職して仕事に夢中になってしまうよりはフリーターで〝待機〟していた方が後々楽だ。そう自分に言い訳している。分かっている。これは言い訳。周りが必死にがんばっているのを横目に見ながらちんたら過ごして大学を卒業した自分を慰めるためには、言い訳の一つや二つ必要なのだ。彼は呆れた顔をしながらも、それでも「すぐに迎えにいくよ」なんて気取っていた。良いのだ。何かが上手くいっていないわけではない。わたしの日常は、わたしがフリーターであることを問題とせず、だいたい上手くいっている。

 学校卒業によってフリーター化してからは週五回、平日毎朝出勤している。朝一番、五時半から午後二時まで。風景は毎朝殆ど同じだ。常連客が多くてみんな忙しない。ブレンド、と乱暴にオーダーが飛んでくる。

 わたしはデカンタからカップに注ぎ、蓋をする。百五十円を受け取る。「ありがとうございました」と言う。大体のお客は無言。会釈をくれる人二割、「ありがとね」とお礼を返してくれる人数人。駅の中にある地元密着店だから、一見さんは殆ど来ない。毎朝、毎朝、同じ。お客さん側にはいろいろあるのだろうけれど、わたしにとっては月曜日も火曜日も同じで、つまり平日と土日の二種類だけ。そんな毎日。きっと、うちのお客さんをはじめとした忙しない人々からすれば、すごく幸せそうに見えることだろう。申し訳なさを感じたりはしないけれど、彼が時々、冗談なのだろうけれど「おまえはいいよなあ」なんて言ってくるから、そういう時はグーで殴ることにしている。わたしなりに気にするところではあるのだ。



 ここ一年、趣味にしていることがある。お金もかからないし、その上仕事中の退屈をまぎらわせることが出来る。とても簡単な趣味だ。

 朝のピークタイムを過ぎて、一通りの片付けが終わると、お店の一日で一番退屈な時間帯がやってくる。そのうち一時間あまりが趣味の時間。

 レジカウンターから、駅の構内を歩く人々を眺める。ラッシュアワーを終えた駅を歩く人は、皆、何処か特徴的だ。わたしはそれを、ただ黙って観察する。

 例えば、いつも午前九時半過ぎに出口方面へ消えていくサラリーマン氏。夜中に働いているのかもしれないけれど、いつも足の運びはしっかりとしていて、背筋を伸ばし、前を見据えて歩いていく。わたしは想像する。彼は、上場はしていないものの地域でまずまずの規模の人材派遣会社に勤めているサラリーマンで三十五歳。この駅に隣接している駅ビルのテナントに登録スタッフをもっと使ってくれるよう営業で回っている。年下の奥さんがいて犬を一匹飼っている。子供はいない。奥さんは自分が不妊なんじゃないかと心配しているが、サラリーマン氏の反対で病院には行っていない。サラリーマン氏は、もし本当に奥さんが病気だった場合に今の暮らしを構成しているいろいろなものが破滅するんじゃないかと心配しているのだ。子供が出来るかどうかなんてそんな重要なことじゃないよ。君がいてくれるだけでいいんだ、なんて言って奥さんをなだめすかしている。そのせいで、奥さんとは最近ぎくしゃくとしている――言うまでもなく全部わたしの妄想だ。

 趣味。想像して、ストーリーをつけていく。フィクションにまみれた世界を切り取る。同僚たちは悪趣味だと言うけれど、良いのだ。誰に迷惑がかかるわけでもない。仮にサラリーマン氏がテレビで特集されるような大家族の主だったとしても、わたしを含めて誰も困らない。害のない、平和で穏やかな日々をただやり過ごす貧乏なフリーターにはうってつけの趣味だとわたしは思っている。

 今日もサラリーマン氏は歩いて行く。今日は隣にわたしと同じくらいの年に見える女の子をつれている。派遣スタッフ? それとも、奥さんとのぎくしゃくに耐えかねて、ついに不倫開始? もしそうだとしたら新展開だ。想像は羽根をひろげ、何処までも飛んでいく。最終回はどんなことになるのだろう。誰もいない荒野で奥さんと泣きながら抱き合うとか……いったい、どんなおもしろい経緯があればそんなことになるのやら。時々、あまりにも飛躍し過ぎて自分でもバカバカしくなるのがこの趣味唯一の欠点だ。



 百科事典嬢とホストくんは、ここ数ヶ月で一番のお気に入りの観察対象だ。彼女はいつも重そうな、分厚い何かの入っている鞄を提げている。わたしがそれを勝手に百科事典だと決めた。別に意味は無い。百科事典嬢という響きが気に入っただけ。

 無造作な黒い髪に薄い化粧、あまり飾り気のない格好で、週に二回か三回、決まって十時過ぎにホストくんと手をつないで改札から出てくる。ホストくんは、いかにもホストだ。高そうなスーツ、靴、時計。紅茶みたいな色の髪を入念に動かしている。夜の繁華街の片隅に生息しているに違いない。

 百科事典嬢は学生だ。まだ二年生だけれど、自分はこれからどうすべきかを延々と悩み続けている。そう遠くない未来に自分も突入する就職活動に漠然とした不安を抱いている。

 ホストくんはもともと彼女と同じ学部の学生だったけれど、夜の街頭でたまに見かけるホストのスカウトを真に受けて大学を辞めた。それでも彼女との交流は途絶えず、なんだか少女マンガの登場人物のような恋愛が微妙に成立している。私はそう決めつけて、二人が通るたびに観察の目をこらし続けている。

 百科事典嬢は時々怪我をする。手や足に包帯を巻いて登場する。きっとホストくんは暴力を振るう男なのだ。別れれば良いのに、とわたしは思うけれど、この手の問題がこじれやすく解決しづらいことぐらいは知っている。友達に似たようなのがいた。暴力を振るう側も振るわれる側も互いに歪んで、ぎざぎざになっていて、その凹凸が残念なぐらいにぴったりと噛み合っているのだ。そういう時、暴力も一つの日常になる。無くなると禁断症状になる。だから、戻る。そして残念な日常を再開する。ちなみに今でも、その二人は付き合っていたりする。まあ、好きにすれば良いんだけど。

 ホストくんと百科事典嬢の話しに戻ろう。

 二人は、三回に一回ぐらいの割合で喧嘩しながら改札を出て通り過ぎていく。何を口論しているのかまでは聞き取れない。駅という場所は、アイドルタイムであってもざわめきが収まらない場所なのだ。遠目で見て、何かをやりあっているのは分かる。百科事典嬢が、その重そうな手提げでホストくんに殴りかかっているのもみたことがある。逆だったら通報すべきなんだろうなあ、なんて思いながら眺めていたら数分後には抱き合ってキスしていた。意味不明だ。

 わたしが彼と殴りあうような喧嘩をしたら――したことないけど――少なくとも二週間はひきずるはずだ。よく喧嘩をし、よく愛し合う? わたしとは違う世界の住人であることは確かだ。ぴったりと噛み合っている。はずれない。壊れた歯車のようにぎしり、ぎしり、と音をたてながら、それでもその噛み合いは絶対に外れない。だからわたしは、レジカウンターから二人を見るたびに、冗談半分で言葉を贈ることにしている。

「どうぞ、末永くお幸せに」

 見ている分にはとても面白いのでどうぞ定期的にやりあってください、なんて。同僚の言うとおり、確かに少し悪趣味かもしれない。この二人を観察している時に限っては少しそう思う。



「結婚してくれないか」

 転機は、わたしがフリーターと化して一年半目にやって来た。ずっと待っていた言葉。わたしを現状から逃がす、たった一つのキーワード。ずっと待っていたのに、妙に心にずしりと響いた。

 目に涙を浮かべて「はい……」なんて感動的な返事は出来なかった。場所もタイミングも良くない――彼のアパートで、二人でのんびりとDVDを見たその後――のだと、一応クレームをつけておく。

「いやさ、こういう、ちょっとした日常っぽいのをおまえとずっと一緒にやっていきたいんだっていう趣旨なんだよ」

 なんだか後付けっぽい言い訳がついてきた。吹き出しながら承諾した。それが、今日から一週間前の日曜日のことだ。

 わたしとしては、この話しはこれで終わりのつもりだった。あとは、結婚式のこととか、新婚旅行の行き先、二人で住む場所を見に行ったり、その場所にあわせて新しいバイト先探し……そういう、楽しくて面倒くさいあれこれを終えて少しずつ主婦になっていく、そのつもりだった。それで良いという覚悟も出来ていた。結婚というフレーズはちゃんとわたしの中に落ち着く先を見つけ、わたしの一部になろうとしていたのだ。なのに、そんなわたしの気持ちなんか関係なく、もらったばかりの婚約指輪をうっかりぶん投げたくなるような展開が、二日前にやってきた。


〝転勤だそうです。一応事情も報告したのにな。間の悪さ、最悪だよ。場所は北京です。どうしようか〟


 そんなメールが携帯にやってきたのがお昼の休憩中のことで、どうしようかって何だよって感じだった。結婚延期? 中止? 彼が何に対して”どうしよう”なのか分からなかったから、”別に、わたしは何処でもいいよ”と送ってやった。”そうか、良かったよ”だって。きっと、すごく気持ちの入った”良かった”なのだろうけれど、不思議と、届いたメールの冷ややかな文字の並びからは少しもそれが感じ取れなかった。所詮デジタルなんてこんなものだ、なんて開き直ったところで何の解決にもならない。心がずうんと重くなった。

 想像してみる。北京で兼業主婦。頭に浮かんだのは、すさまじい数の自転車と、同じ服を着た人々が往来する、たぶんかなり昔の中国像。我ながら想像力が無いなあとは思うけれど仕方ない。だって、行ったことがないのだ。北京? 何があって、何が無いのだろう。わたしの父や母はどんな顔をするだろう。彼の勤め先の会社に泣きつく? それとも彼に、やっぱり絶対行きたくない、なんてだだをこねる? 彼はどうするだろう。単身赴任していくだろうか。それも嫌なんだけど。考えすぎて気持ち悪くなったから、週末まで保留にした。メールや電話じゃなく、直接彼と、事の重大さをゆっくりと話し合いたかった。



 金曜日。今日一日が終われば、明日は休み。彼と会う。話す。なんだか気が重かった。きっと彼は謝るだろう。そして、今会社を辞めることは出来ない理由を特盛りで説明してくる。私はそれを最後まで聞き、それから、大丈夫だよ、と彼を安心させる。彼はおそらくそれを望んでいる。心配性で、わたしがへそを曲げることを何より嫌がるのだ。その分、ものすごく優しい。わたしがより好む人間になろうと努力をする。つきあい出した当初からずっとそうだ。わたしも、その彼の努力に応えるために最大限、彼の前では優しくあろうとした。彼の投げてくるボール全てを受け止めるべくがんばってきたつもり。時々、とんでもない大暴投を放られた時にはケンカもあったけれど、まあまあ、波の穏やかな恋だったと思う。これからもそうであるはずだった。たぶん、次に会うとき、お互いに上手くやり過ごす努力をしないと、わたしたち二人とも波に飲み込まれて戻ってこれなくなる。そんなの嫌だ。けれど、北京? 全てを後逸せずに受け止める自信は正直なところ、無い。気が重くて仕方がなかった。

 今日もサラリーマン氏がいつものように通り過ぎていった。やけに客数の多い日で、いつも通りの分量を用意していたブレンドが途中で足りなくなって作り足した。

 午後一時過ぎ、勤務完了まであと数十分のところでホストくんと百科事典嬢が通り過ぎていった。何か、これまでとはひと味違うトラブルが起こったらしい。百科事典嬢は車椅子に乗っていて、それをホストくんが押していた。遠くからでも分かるぐらい、二人とも顔色が悪かった。何かがあったのだ。あまり良くないことなのかもしれないけれど、そのせいなのか、それともその〝おかげ〟なのか、二人のギザギザはこれまで以上にがっちりと噛み合っているようにも見えた。だからいつもとは少し変えて、「頑張れ、お幸せに」と言葉を贈った。

 二人からすればきっと心外なのだろうけれど、少しだけ、気持ちが前を向くのを感じた。




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