第5話 Runaway to midnight

 目の前の壁を越えるためには、やるしかない。そう決めた。勿論、決めるまでには時間がかかった。ぼくはどちらかと言うと慎重なのだ。

 目標を定めるまでに約十日。手段選びに一週間。決行場所、時間の選定にも三日を費やした。合計二十日。しくじる理由なんかもう何処にも見当たらない。ぼくは、壁を越えられる。

 結果にはそこに至るまでの過程があり、始点には全ての根本として原因が君臨している。結果はまた一つの原因となり、過程となり、次なる結果目指して連鎖的に広がっていく。ぼくが今、巨大で冷酷な壁に直面しているのはひとつの結果だ。ぼくはこれを原因とし、次なる行動に出る。壁を打ち破り、これまで全てのくだらない結果達を笑い飛ばすために。敗北者候補でしかないぼくを、勝利者への道へと乗せる最初の起点とするために。自分が勝ったつもりでいる愚者を粛清し、真の敗北者が誰なのかを世に知らしめるために。勝つための方策は十分に施した。昔のぼくとは違う。今のぼくは勝てる戦いしかしない。そのぼくが動くのだ。負ける理由なんか、何処にも、あるわけがないじゃないか。



「久しぶりじゃねえか、裕也……つっても、俺、お前のこと殆ど名前で呼んでなかったけどな」

 笑いやがった。ぼくの目の前で。ぼくはいつでも行動に出られる。こいつはそのことを知らないから笑っていられる。愚者には、やはり粛清が必要なのだ。

 昔通っていた中学の校庭、午後十一時。警備員なんかいないし、宿直の教師なんか殆ど仕事をしない。ちゃんと下見をした。何度か侵入した。何も起こらなかった。通報もされなかった。ここでなら何でも出来ると思った。それに、壁を越える最初の場所としてはこれ以上無いロケーションだったのだ。ぼくはこの場所で奴隷になった。そして、今日まで続くくだらない日々が始まったのだ。



 ぼくは奴隷だった。中学生になってすぐの頃から、県外の高校に行くまでの間ずっと、こいつを中心とするグループの奴隷だった。最初はごっこ遊びで、だんだん虐待。ぼくが壊れていく過程の、入口。

  コーヒーを買いに行かされて、買って戻ると「やっぱりコーラ」と言われた。〝いらなくなった〟コーヒーを頭からかけられた。万引きごっこ、とやらでトップバッターを無理矢理に勤めさせられた。ぼくがこいつの指示通りにスニッカーズをポケットに入れたら、その瞬間こいつはぼくの腕を掴んで「万引き犯がいるぞ」と大声出しやがった。

 奴隷。玩具。使い捨て。ヒューマノイドストレス発散機。たくさん、たくさん、くだらない呼称がついた。当時のぼくは、何処まで行っても、何をされても、何も出来なかった。しなかったんじゃない。出来なかったのだ。手段を知らなかったし、思考を筋道立ててまとめることも出来なかった。今は、違う。

「お前、根性あったからな。もし俺がお前の側だったら逃げてた」

「そんなことない……」

 高校に入って、確かに奴隷ではなくなった。直接的にぼくのことをモノ扱いする人間はいなくなった。けれど、そんなの、救いでもなければ解放でもなかった。ぼくはもう、完璧に壊されていたのだ。何も出来なくなっていた。何処かで誰かが見ているといつでも思っていた。何か一つでもしくじれば、終わり。ずっと、ずっとそう思って生きてきた。

 誰からも理解なんかされなかった。今だってそうだ。誰からも理解されない。許されない。認められない。社会はいつでもぼくを拒む。今年二十三歳だから、十周年だ。ぼくが世界から隔絶されて、十年。大学を出た。就職出来なかった。浪人した。何も変わらなかった。ぼくは今でもあの頃のまま、奴隷のままだ。

「大学出たんだろ、良いじゃねえか。俺なんか高校中退だぜ?」

「出たって、就職出来てないんだから変わらないよ」

「どっかで拾ってくれるだろ、お前真面目だし。根性もあって健康なんだろ? 俺の真逆じゃん」

「ヨシザキくんだって、みんなの中心で、体育でも美術でもなんでも出来てたじゃないか……」

 そうだろう? 謙遜するなよ、ヨシザキショウゴ。お前は昔から何だって出来る、選ばれた人間だったじゃないか。だから、唯一奴隷としてしか選ばれなかったぼくを、きちんとその支配下におさめていたじゃないか。昔みたいに、ぼくの心をへし折る力のある、最悪のツラを見せてみろ。そうすればすぐに終わらせてやるから。

「お前、HAMって知ってる?」

「……HAM? ごめん、知らない、ごめん」

「HTLV―1関連脊髄症。まあ、そういう病気だよ」

「…………」

「さて、来年の俺は、再来年の俺はどうなってるでしょうって感じか。誰から感染したんだかも分からねえのがムカつくんだよな。変な女とヤるなってことか? メキシコ人とかよ。すげえ良い感じだったんだけどな。ふざけやがって」

 再会してこちら、ヨシザキくんは笑いっぱなしだ。一つも、ただの一つも面白い話なんかしていないのに。HAM? そんな話をしにわざわざ再会の約束を取り付けたわけじゃない。

「放っておくと歩けなくなる。その上、インポになるんだとよ。冗談じゃねえ。タネも残さず死ねってか」

「……治るの?」

「薬はあるけど、どうなんだろうな。副作用もガッツリあるし、その上、なんだっけ、タイショウリョウホウ? そういうのだしな。まあ……インポにならなきゃいいや。あーもー、マジ、逃げてえ。何処にかは知らねえけど」

「……大丈夫だよ。ヨシザキくん、強いから……」

「で、何の用事なんだよ。急に会おうなんて。なんかの勧誘なら断るぞ? 金ねえし」

「なんでもないんだ。ただ、どうしてるかなって思っただけだから」

 冬のうちに決行しようと思ったのはコートがあったほうが便利だったからだ。内ポケットにサバイバルナイフ。袖口に五十センチで切ったビニール紐。夏場ではこうはいかない。けれど、もうそんなもの必要なかった。





 校庭にいつでも置き去りにされている朝礼台に並んで座って、ぼくは缶コーヒー、ヨシザキくんは、水。彼が言うには、これ以上変な化学物質を身体にいれたくねえ、らしい。彼が、わざわざ鞄に入れて持ってきてくれていた。

「お前がこんな何も無いところ指定するからよ……まあ、思い出っぽくて良いけど。覚えてるか、かくれんぼ。こんぐらいの時間で十五人ぐらいでさ」

「隠れてたぼくを置き去りにして全員帰った」

「そうそう、だってお前、本気で見つからねえんだもん」

「季節も今ぐらいで、すごく寒かった」

「だから、普通の奴だったら馬鹿馬鹿しくなって帰るんだって。お前、根性あるんだよ。あん時、すげえ見直したもんお前のこと」

 また笑いやがった。これじゃあ、何も終わらないじゃないか。




 西に向けて走った。ずっと、ずっと、西。夜の、一番深い方角だ。月が逃げて行く方角。ぼくも逃げる。走って、走って、逃げ続けた。止まりたくなかった。

 何も変わらなかったし、何も終わらなかった。何も出来なかった。壁は今でも厳然として存在している。ぼくは今でも、あの頃のぼくのままだ。逃げたい? ヨシザキショウゴ。お前は、ぼくに向かって「逃げたい」と言ったのか? 逃げたいのはぼくのほうだ。何処に逃げるのかなんてぼくも知らない。少しでも暗い方角、少しでも静かな場所。

 走って、走って、限界を迎えて立ち止まる。冷たい空気が肺に痛かった。道端に倒れ込んで夜空を眺めた。澄んだ空気の遥か上、星たちが退屈そうにきらめいていた。月が静けさの海に身を横たえていた。夜中、誰も通らない道のまんなか。ぼくは、とても〝一人〟だ。

「お前らに何がわかる」

 声に出すと少し救われた気がした。

「お前らに何が分かる!」

 良いんだ、誰にも分かってもらえなくても。



 やがて、朝に追いつかれた。夜は遠い地平の果てに去ろうとしていた。空の色が緩やかに混じり合って行く。深く暗いブルー。ぼくが追いかけ続けた暗がりの色、そして、広がる白。月はその姿を寝所へと隠し、冷気の向こう側から顔をのぞかせつつある太陽は、呆れた顔をしてぼくのことを眺めおろしている。ぼくは、何も持っていない。そう思った。何も出来ない。何も終わらない。何処へも、逃げられなんかしない。

 明日、ぼくは何を手にするだろう。ふと、思った。

 何を思う? きっと、そんなに面白いことじゃない。

 何処へ向かう? その答えは簡単だ。何も無い此処から、何かがあるかもしれない何処かへ。太陽って奴は、朝って奴は、望んでもいないのに無理矢理ぼくを前に向かせる。お前らに、何が分かる。もう、大きな声を出す体力なんか何処にも残っていなかった。

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