第4話 箱の中の彼女とコーラと煙草と世界の終わりのような大雨

 漸く雨も上がり、黒っぽい雲の隙間から夕暮れ空が見え始めていた。僕は退屈で平穏な片側一車線の県道を自分の車で走っている。平成七年式スターレット。緑色のボディはクリア塗装がはげ始めていていかにもみすぼらしい。町外れに路上駐車するだけで廃車に見える。我が物ながら悲しいけれどまだ走る以上、捨てようかという気にもならない。せっかく、後二万キロ乗れば二十万キロの大台なのだ。どうせいずれは解体するのならせめて天寿を全うさせてあげたいと僕は思うのだけれど、なかなか分かってくれる人は少ない。

 傷と油膜にまみれたフロントガラス、煙草穴だらけのシート、動かないエアコン、感度の悪いラジオ。たまに何かが引っかかって動かなくなるワイパー。ラジオからはいつだって最新の情報が流れてきているのだろうけれど、僕の耳に飛び込んでくるのは、断末魔めいた雑音が八割、その隙間でかろうじて生きのびているDJの声が二割。そもそもよく聞き取れないのだから、それが最新の情報だろうと何だろうと全く関係がない。百年前のニュースが流れていたとしても、たぶん僕は気づかないだろう。それでも僕はラジオをつけたままにしている。何のことはない。スイッチが馬鹿になってしまって、上手くオン・オフができない。それだけの話だ。

 もはや手遅れ状態の車だから、せめてと思い車内だけは綺麗にしている。十個目の焦げ痕を作ったとき――二年半くらい前だ――車内禁煙にしたし、コーラを一リットル近くぶちまけた時――五年前。あれは厳しかった――緑茶以外の飲食も禁止にした。シートの上にもモノは置かない。荷物はすべてまとめてリアハッチへ。僕は自分の決めたルールをかなり厳格に守るほうだから、ボロ車の車内はいつも清潔だ。ただ、今日についてのみは、例外に位置付けたい。それは、今後の僕がつまらない自己嫌悪に陥らないために。大体二時間前から始まって三十分前までの例外。僕は助手席のシートに荷物を置いたし、車内でコーラを飲んだ。しかもそのコーラの缶に灰を落としながら煙草まで吸った。ついでに、シートに新たな焦げ穴まで作った。ちょっと、いろいろあったのだ。



 休日の暇つぶしに買い物でも行こうかと思い車庫の自分の車に乗り込もうとした時、僕は自分の車の下に覚えの無い何かがあることに気がついた。黒くて、小さくて、複雑な形をしたもの。嫌な想像を振り払いながら軍手をはめてそれをゆっくり引きずり出すと、ちゃんと想像通り。猫が一匹。僕の車の下で死んでいた。ちょっと見てすぐに、よく家の周りを歩き回っていた野良猫であることが分かった。僕が引っ張り出した時に、つい見てしまった猫の目。死んでしまっている、と自己主張しているかのように、その目には光が無くて、僕は思わず顔を背けた。冷たくて、硬い。死を全身で表現していた。

 両親も、祖父母も健在、ペットを飼ったこともなかった僕にとって、“死”というのは曖昧なイメージでしかなかった。生物的な“死”がどういうものかは理解しているつもりだったけれど、実際のところは何一つとして分かっていなかったのだろう。本物の死の重みや冷たさは、僕の想像を凌駕して余りあるものだったし、光を失った目が、その影の中に僕を追い落とすのはとても簡単なことだった。重くて、冷たくて、悲しくて、痛ましかったし、それらの言葉を頭の中に順番に並べてみてもまだ足りないほどに、それは衝撃に満ちていた。

 いつからか近所に住み着いたメスの野良猫。僕は勝手に“リリー”と名付けていた。ただ名付けただけで特別なエピソードが生まれるような事は一切無く完全に放っていたのだけれど、リリーの方はどういうわけか家の付近が気に入っていたらしく、特にガレージは彼女にとって最適の棲家だったらしい。おかげで、周辺はいつでも彼女の排泄物の臭いに満ちていたし、僕のみすぼらしい車は爪あとだらけだった。タイヤをパンクさせられたこともある。生贄に捧げたかのような鼠の死体を置き捨てられたこともあった。つまり、僕は彼女に嫌がらせをされていたようなものだ。そうであるにも関わらず、死んでくれたおかげでせいせいしているかと言えばそういうわけでもない。寂しさを感じる理由も、悲しみに暮れる理由も何処にも無いのに、それでも僕の心の中を何度も蠢き回っていたのは”リリーが死んでしまった”という言葉。少なくとも嬉しくなんかまるで無かった。

 手近にあった段ボール箱の中に何処かで貰ったきり放置していた新品のタオルを三枚入れて、僕はその中にリリーを入れた。ガムテープで蓋を閉じて、そのまま車の助手席に箱を置いた。どうしてもリアハッチに置く気になれなかったのだ。想像出来ようとどうだろうと、ほんの何時間前かまで生きていたものを荷物扱いする気にはなれなかった。それは多分、僕がそもそものところで“死”というリアリティに慣れていなかったせいなのだろうけど。



 国道を東に五キロほど行ったところにある川原を目指して僕は車を走らせた。それが、動物の死に対しての正しい手続きでないことは知っていたけれど、とりあえず電話をした保健所に「燃えるごみで出して」と言われた時点で、もう僕は正当な手続きを踏む気など無くしてしまった。自分勝手と言われようと、何と言われようと、死に結びつくイメージは燃えるごみではなかったのだ。不法投棄で訴えるのなら、人権侵害で逆に訴えてやろうじゃないか。それくらいの気持ちだった。

 道は殆ど車どおりがなく、順調に流れていた。信号もオービスも無い、片田舎の小さな国道。僕は、アクセルを出来る限り強く踏んだ。速度はすぐに制限速度を越し、ボロ車が悲鳴をあげはじめたのが分かった。少しでも早く川原に行きたかった。そこには筋の通る理由なんか存在しない。死が、力強く僕の背中を押していたのだ。



 川原の、草むらが一際生い茂っている辺りに僕は穴を掘り、その中にリリーを入れた。彼女のこわばった体に土をかけていくと、土で隠れた分だけ、僕の日常から死の色が遠ざかっていくのがよく分かった。それはどこか儀式めいてさえいた。せめてと思い手を合わせ、冥福を祈り、声に出して“さようなら”を言った。

「さようなら。また、どこかで」

 僕と彼女との間に生まれたひと時の沈黙。その隙間からかすかに“嫌なこった”という言葉が聞こえてきた気がした。



 川原からの帰り道、僕は缶のコーラと煙草を買った。車に戻ってコーラを一息に飲み干し、それから煙草を吸った。窓なんか一センチだって開ける気にならなかった。灰皿なんか一ミリだって開く気にならなかった。ドリンクホルダーに置いたコーラの空き缶に、灰も吸殻も落とした。すぐに二本目に火を点けて、助手席のシートに十一個目の焦げ痕を作った。炎の先端を押し付けると、くすぶったまま少し煙が上がった。シート表面はすぐに穴になって、中の黄色いスポンジが顔を出した。僕はその煙草をそのままシートでもみ消して、コーラの缶の中に再び落とした。

 色々なことが嫌になった。感傷めいたことを言いたくはないけれど、自分の決めたルールがいかに馬鹿馬鹿しいか、という事に僕は気づかざるを得なかったのだ。誰かの死、というやつは気がつかないうちにこちら側の生を作り変えるのだ。それが、例えば縁もゆかりもない野良猫の死だったとしても。平等にやってくる死は、平等に、誰かに何かを残していく。残された僕が自分自身の馬鹿馬鹿しさに気が付いた事だって決して不自然なことではない。あらかじめ決められていたかのように自然に、そして唐突に、それはやってくる。僕は今更ながら気づいてしまったのだ。何が正しいとか正しくないとかそんなものどうでもいい。僕という存在がどんなものであろうと、何を成し遂げようと、何をしくじろうと、何も変わらない。例えば僕が一流のミュージシャンだか俳優だかだったとしても、やはり同じようにリリーと出会い、死に立会い、こうして埋めに出かけたのだと思う。僕の家のガレージに停まっている車がオンボロのスターレットなんかじゃなく、BMWのスポーツセダンだったとしても、きっと。

 国道の長い直線。僕の思考はどこまでも連なり、終わりの気配すら見せなかった。煙草の残り香、コーラのべたつきと、死の気配。油断していると今にも追いつかれそうだった。

 逃げ出すかのようにアクセルを目いっぱい踏み込むと、リアハッチから空のダンボールが転がる音が聞こえた。ラジオが遥か彼方の渋滞を報告してきた。思考の中で暴れるリリーの影ごと、力いっぱいラジオのスイッチを殴りつけた。ラジオは断末魔を残して受信を中止し、それを合図にして、世界の終わりのような雨が降ってきた。ワイパーのスイッチをいれたけれど、動く気配すらなかった。

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