第3話 ミセス・シェイク

 大体いつでも物語のきっかけや題材を探している僕に時折、その日の飲食代と引き換えの〝面白そうな話〟を運んできてくれる三浦くん(仮名)がこれから始まるそれほど長くはない話を僕のところに持ってきてくれたのはちょうど梅雨明けが宣言された頃で、七月の頭。雲だって溶けてしまうんじゃないかと思えるぐらいに暑い日だった。

「終わったらまずビール、生、大でね」

 レコーダーのスイッチを入れて僕が「もちろん」と言うと、三浦くんは話し終えた後のビールを思い描いたのかどうか、何処かわざとらしい舌なめずりを一つして、それからゆっくりとした口調、まるで世界の奥深くに隠されている秘密でも告白するかのように話し始めた。



「十五年前で、俺がまだ学生で、バイトだった頃ね」

 三浦くんは当時、昔ながらのスタイルを頑なに守り続ける小規模なファストフードチェーン店で学生ながらアルバイト店長をしていた。

 サンドウィッチやハンバーガーを作るのが誰よりも早くて美しかった三浦くん。見本品のようなフライドポテトを作る三浦くん。指先の感覚だけで仕込むサラダはそのどれもが規定量から誤差二グラム以内の範囲に収める三浦くん。その店が始まって以来の優秀なスタッフだった……と本人は主張しているけれど、実際にその場に居合わせたわけではない僕には何処まで本当なのかは勿論分からない。僕が事実として知っているのは、当時の彼が確かに学生をしながらその店の店長をやっていたことだけだ。同じ大学だった僕は、彼が学食の片隅で原価やら客単価やらを計算しているところによく出くわした。店ではなかなか時間がとれないから、と目を輝かせていた三浦くんの事を、僕はよく覚えている。今では社員としてそのチェーンのエリアマネージャーをしている三浦くんにとって、きっと運命的な職場だったのだろう。

 彼の務めるその店に、〝ミセスシェイク〟と後に呼ばれることになるお客が初めてやってきたのは、三浦くんがアルバイト店長に就任した直後の事だった。勤め始めて五年目、大学三年生。就職も事実上決まっているような状態だった彼は学校の授業の隙間殆ど全部を店に注ぎ込んでいた。客単価の向上とテイクアウト客の増加が彼に課せられた使命だった。

「最初はすげえ鬱陶しかったんだよな。客単価下がるような注文しかしないし長居、居眠りだからさ」

 ミセスシェイク。三浦くんの話からその特徴をまとめると、七十過ぎぐらいの老婆で、小さな身体にくすんだ色合いの服。長い年月を同じ場所で過ごしてきたのであろう小さな結婚指輪。季節に関係なくミルクコーヒー味のシェイクだけを注文する。必ず千円札で支払う。いつも同じ。月曜日と木曜日と土曜日にお店にやってくる。一度来ると二時間きっかりお店に居続けて、その間に四本のショートピースを吸う。喫煙席の一番奥、トイレにもっとも近い席に必ず座る。シェイクを全部食べきるまでに一時間かけ、その後、四十分眠る。煙草を吸って帰る。少なくとも三浦くんが見てきたミセスシェイクはいつでも必ずそうだったらしい。

「俺がつけてやったんだ、ミセスシェイクって。他のスタッフ連中はさ、〝シェイクババア〟とかそんなニックネームばっかりでさすがにあんまりだったからな」

「お前も鬱陶しがってたんだろ?」

「鬱陶しがってたけど、まあお客さんには変わりないからな。百八十九円を笑う店は潰れる直前になってからその重みを知ることになる」



 ミセスシェイクがその行動様式を変更せざるを得なくなったのは、三浦くんが大学を卒業してそのまま無事に就職。社員として働き始めてからすぐの事だった。メニュー改編が行われて、ミルクコーヒー味のシェイクが廃番になってしまったのだ。

 お店では肩書から〝アルバイト〟がとれて正式な店長になった三浦くんを中心に〝今後のミセス〟について様々な予想が飛び交った。三浦くんは〝来なくなる〟に一票を投じ、彼と同じぐらい長くお店に勤めているYさんという女性スタッフは〝バニラに変更〟。普通に思いつくそれら予想でお店の中の意見は占められたが実際は、予想のつくような範囲ではなく、かなりひどかったらしい。

「まずレジの前で大泣きしてな。それからカウンタースタッフに掴みかかって、俺が止めたらそのまま帰ってった。本社にも〝元に戻さないとハンストして餓死する〟なんてクレーム電話が入ったってさ。うちの会社の、今じゃ伝説のクレームだ。新人研修の教材にもなってる」

「どうやって教材になるんだよ、その話が」

「お客様がお好みの商品はその方によって異なります。先入観を持って接客にあたってはいけません、てさ」

「戻してやれば良かったのに。コーヒーのシェイク」

「入社一年目の奴が出来るかって。でも、戻してやりたかったけどな。俺、優しいから」

 当時の三浦くんは優しかったかどうかは分からないけれど今よりも若かった。分かってはいるけれど分かりたくはない事が沢山あったらしい。誰しもがそうだ、なんて僕は言えないけれど、僕もそうだった。社会は思った以上に汚くて、嘘に溢れていて、それでも時々、素敵な事もあって、正しいこととそうでない事にどうやって折り合いをつけていけば良いのかをはかりかねていた。時々やってくる素敵な事だけが生きる価値のようなそんな気さえしていたぐらいだ。だから、メニュー改編後姿を消したミセスシェイクと三浦くんが奇蹟的再会を果たした素敵な偶然を僕は大切に記していきたい。

 メニュー改編三か月後、夏の始まり。一週間半ぶりのオフながら暇を持て余していた三浦くんと、彼の店や当時の三浦くんの家からほど近い坂道を登るミセス。偶然の再会。

 雲一つない晴天の午後。小さくて温かな物語的偶然の始まり。三浦くんがこの話を僕に話そうと思ってくれた直接的な理由。三浦くんはその時を振り返りながら「なんだか嬉しかったんだ」と呟いた。世界には時々、本当に時々だけれど、素敵な、あたたかな偶然が奇蹟的に運ばれてくる瞬間がある。



 汗の一つも流さないでミセスは坂道を登っていく。それを、全身汗まみれの三浦くんが尾行。坂道を登り切ってから更に住宅街をニ十分ぐらい歩いて、三浦くんが〝もし単なる帰宅路だったらどうしよう〟と考え始めたところで、ミセスは立ち止まった。小さな公園。円形をしていて、周囲を道路が一周。そこから放射状に、各路地へと道が延びていた。 

 ベンチが三つに砂場が一つしかない小さすぎる公園で、三浦くんとミセスが訪れたその日、公園には誰もいなかったそうだ。

「そんで、ミセスは静かな公園でベンチに座った。此処から、始まりだ」

「始まり?」

「世の中にはこういう事もあんだなって感じ」

 ミセスは煙草に火を点け、煙を一つ空へ浮かべた。すると、それを合図にするかのように、小さな灰色の猫が一匹、何処からか歩いて来てミセスの隣に腰かけた。一匹が座ると、今度は黒猫。うにゃあと一つ鳴いてミセスの足元に座った。更に、三毛猫、シャム風の、高級そうな見た目のやつ、ぶちの猫に双子みたいにそっくりな白い猫二匹。全部で七匹がミセスを取り囲んだ。

 三浦くんが様子を見続けていると、ミセスと七匹の猫たちはそれぞれに食事を始めた。ミセスは傍らに置いていたビニール袋から猫用のドライフードを取り出して、地面にそれをばら撒いた。猫たちはミセスの声がかかるまで見向きもしない。「いいよ」と擦れた声が周囲に小さく広がると、猫たちは慌てたり奪い合ったりする様子もなく、ドライフードに群がっていき、ミセスはそれを見ながら自分は菓子パンをちぎって食べ始めた。

「声出そうでさ、こらえるの大変だった。なんだかさ、なんだかよく分からないんだけどすげえモノ見ているみたいな気がしてたんだな。だって、七匹と一人、完璧に分かり合ってるんだ。すげえよ」

 僕にその時の様子を説明してくれている三浦くんは、その時の感動がよみがえったのか、少し目を潤ませていた。きっと僕もそんな光景に遭遇したら上手く説明出来ないような感動にぶつかって、同じように涙ぐむと思う。僕たちは、自分の創造を上回る出来事と遭遇すると、説明なんか真面目にするのが馬鹿馬鹿しいような、けれど何とかして誰かに伝えたくなる。そんな難しくて素敵な気持ちと対面することになる。多分それは、その大小こそあれ、誰だって。



 一人と七匹の食事会は静かに進み、全員が食べ終えると今度は盛大な昼寝会が始まった、ミセスも、猫たちも全員での昼寝。穏やかで、幸せそうな、望んでもそう簡単には手に入らないような温もりに包まれたベンチと、その周り。ミセスと、七匹の猫たち。三浦くんは、それがまるで一つの仕事であるかのように、それから一時間近くその場で七匹と一人を見続けていた。

「猫が寝返りうったり、ミセスが何か寝言っぽいの言ったりさ、見どころ沢山で飽きなかったな。もちろん、それが見続けた理由じゃないけど」

「そんなの、言われなくても分かるよ」

「大事なのは、猫たちとミセスが飼い主とペットじゃない事なんだ。与える側と与えられる側って感じじゃなかった。互いにリスペクトしあってて、本当の友人関係で、お互いに守り合ってる……って俺は何を言ってるんだか」

 お互いを尊重しあう猫と老婦人を僕は想像してみた。僕の中でそれは一枚の油絵のような光景だ。柔らかい笑顔を足元に向ける老婦人と、思い思いの方向を見ながらその傍に身を寄せるな七匹の猫。お互いに思いやりあって、優しさを寄せ合う風景。

「その後はどうしたんだ?」

「見て、そのまま帰ったよ。声かけるわけにもいかないし、起きて何か幻滅するようなシーン見ちゃったら嫌だしな」

 それで話は終わりだった。だから、その後のミセスと猫については何も分からない。

「時間経つとどんどん嘘くさくなるんだよね、こういう話ってさ」

 恥ずかしそうな三浦くんと、録音しながらメモをとって話を聞く僕。取材場所として設定したのは、ミセスと三浦くんが出会った店で、今は地域のディレクターになった三浦くんの担当店舗の一つだ。

 テーブルの上には僕の手帳と、アイスコーヒーが二つ。小さなレコーダー。それと、このお店のテイクアウト用の袋。中には、社内で少しだけ意見を言えるようになった三浦くんの尽力で復活したミルクコーヒー味のシェイクが三つ。勿論、会える可能性なんかほぼ無い。それでもとにかくその場所が見たかった。だから、僕は三浦くんに「つれて行け」と頼んだのだ。報酬はビールに加えて刺身盛り合わせ二人前。決して高くはない。

 七月、良く晴れた午後。三浦くんは丸一日のオフ。店のロゴマークが入った紙袋を携えて、僕達は店を出た。〝物語的〟な出会い、或いは再会……もしくは、それによく似た何か。条件はそれほど悪くない。少なくとも僕はそう感じていた。

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