第2話 Jamshade

 駅から歩いて十分程度、小さな一方通行路にあるダイニングバー。ジャンクな居酒屋やカラオケ店、それにいかがわしい店がひしめきあっていて、周辺一帯はキャッチや酔客が発する騒々しいわめき声が埋め尽くされている。毎週金曜日、午後七時。わたし達の待ち合わせはいつでも同じ場所、同じ時間。理由は簡単だ。彼が「いつも通りが良いんですよ。それ、とても大事なことです」と頑なに変化を嫌うから。別にわたしは、約束された場所と時間にきちんと来てくれさえすれば何でも良かった。

 わたしが金曜日のそこしか見たことがないせいも多分にあるのだろうけれど、バーの風景はいつだって、大体同じだ。

 座席はいつでも七割がたが埋まっている。殆どの客がわたしよりも年上で、ほぼ例外なく男女のペアだ。深刻そうな顔つきをしている人なんか、一人だっていない。天井には橙色の薄暗いランプが四つと、のったりと回るインテリア扇風機が一つ取り付けられている。BGMはいつでも大編成のスウィングジャズ。遠慮のないボリュームで流れる音楽を、巨大扇風機がその控えめな攪拌でもって騒がしさやアルコール臭い停滞感で埋め尽くされている店内に強引に混ぜ込んでいく。ランプの光を受ける傷だらけの床が鈍く輝く。誰かが椅子を引くと、床のこすれる音が斜めに耳に刺さる。壁には、何処かのジャズバンドがにこやかに楽器を構えているポスターや、いつでも矢が三本刺さっているダーツの的。テーブル席が四セットにカウンターが一列五席。ずらりと並ぶ酒瓶。三人いる店員のうち、飲み物を担当しているらしい男――丸坊主にして髭だけを仙人のように長く伸ばしている――が振るシェイカー。カウンター奥には厨房。時々良い匂いがする。全部まとめて計算尽くのように見えてくる、繁華街に良く似合うバー。もともとは彼の行きつけだった。今では、わたしにとっても。

「あとからもう一人来ます」 

 待ち合わせには必ず先に、なんてこだわりを持っているわけではない。基本的に彼は遅刻して現れる。待ち合わせに対する認識のズレは、もう付き合ってしばらくになるけれど一向に改善されていない。これまでにもそれが原因で何度となく喧嘩をした。最近ではもう諦めているから、一々文句をつけたりはしないけれど、出来るならば「後からもう一人」と毎回言わされるわたしの身にもなってほしい。店員も覚えていてくれるらしくて、ウエイターを担当している金髪を長く伸ばしているスタッフは特に文句を言うこともなく、自然な動作で二席空いているところに案内してくれた。今日はカウンター席。彼が前回「カウンターの方がすぐ飲み物もらえて良いデショ?」と言ったのを聞かれていたのかもしれない。



 注文を待ってもらって大体十五分。カラリン、というドアベルの音が一つ。ようやくやってきた彼はいつも通りのにこやかな表情で、いつも通り、つるりとしたジャケットにスラックス。臭いのきつすぎる香水。遅れてごめん、なんて気持ちは一つも無いのだろう。口では「お待たせ」なんて言っているけれど、気持ちなんか一つだってこもっていない。彼の口から出る「お待たせ」は多分、「こんばんは」と同じ程度の意味でしかないのだ。そもそも、彼の国では〝人を待たせてはいけない〟という概念をあまり重要視していないのかもしれない。よく知らないけれど。

 パキスタンから日本に語学習得目的で留学して来てまもなく二年になろうとしている彼。きつすぎる香水と、ジャケットにスラックス。金曜日の午後七時、ダイニングバー。わたしと彼の〝いつも通り〟が始まる場所。

「遅いよ」

「すみません、慌てました。時計、止まってたのですよ」

「見せてよ。アンタのことだから変なボタンでも押したんじゃない?」

 少しだけむくれた顔をつくりながら彼はわたしの隣に腰かけ、腕時計を外した。ずっしりとしたクォーツ時計で、金属製のベルトに〝Jamshade〟と刻印してある。来日一周年記念にわたしがプレゼントした時計だ。

 Jamshadeというのは、彼の名前。本名はもっとずらずらと長いのだけれど、わたしが一番格好良く思えた部分を愛称として採用し、時計にそれを刻んでもらった。呼ぶときはもっと短く〝ジャム〟とだけ。彼は当初、それをおおいに嫌がって、仕返しとばかりにわたしのことを〝ナカ〟と呼ぶようになった。わたしの名字、竹中のナカ。わたしが「それは違うと思う。変だよ」と文句をつけると、「貴方が呼ぶジャムもすげえ変なんですよ」だって。今では互いに、もう慣れていた。

「電池切れ……かな」

「ほら、ワタシ悪くなかったでしょ」

「後で交換しに行けば良いでしょ。まだ開いているお店もあるし」

「いいですよ、ワタシお給料日まだ先だから」

「電池代ぐらい奢るよ」



 彼は中古自動車を海外に輸出する在日パキスタン人の事務所で雑用担当のアルバイトをしていた。日本では廃車にしてしまうような中古車を買い集めて、輸入規制のない国に送ってどうの、と小難しい仕組みがあるらしくて、ジャムの担当はその書類づくりのお手伝い。どうにかやっていける程度のアルバイト料をもらえているらしかった。将来的には自分の事務所を持って、世界中を旅しながら仕事をしたいらしい。初対面の時にそう自己紹介された。わたしはそれを学生アルバイト日本語教師として受け、今に至る。実際のところは教師なんていう立派なものではなく、年齢の近い話し相手。日給二千円。拘束時間も短い、悪くないバイトだった。

 それで一年間が過ぎた。契約期間は終わったけれど、こうして毎週金曜日に会うようになった。お互い十分過ぎるほどに慣れてしまっていた。会いたかったし、話がしたかった。〝個人授業〟なんて名目をつけてはいたけれど、そんなの殆ど必要なかった。そこからさらにもう一年。この日、もう十月の半ばだ。残暑はとうにその姿を隠してしまい、わたし達も含めた街中が装いを冬のそれへと移行させ始める時期にさしかかっていた。終わっていく感覚。手元にあったものが遠くへ。少しずつ、指先も届かないような距離になっていく。寂しさと、自己嫌悪。勿論、冬が好きな人も多いのだろうけれど、わたしは嫌い。きっと、今年の冬を境に今後死ぬまでわたしは冬を嫌悪する。そんな気分。

「あの、注文。そろそろもらいたいんですけど」

 金髪ウエイターに催促されて、わたしは〝ティファナコーヒー〟とかいうカクテル、ジャムはアイリッシュウイスキーのロックを注文した。変なモノは飲みたくない、と言っていつもアイリッシュウイスキーのロックしか頼まないジャムと、毎回適当に『今週のオススメ』から選ぶわたし。そんなわたしの方を見てジャムが苦笑いを浮かべるのは、わたしが大体三回に一回の割合でハズレを引いて、残したまま帰るから。良いのだ、別に。ジャムの苦笑いをしている時の顔つき、割と好きだから。



「ティファナコーヒーって、これ?」

「そうですけど?」

 特に説明をしてくれるつもりは無いらしいウエイターがさっさと他のテーブルに行ってしまうと、すぐにジャムの笑い声が聞こえた。見ると、わたしの顔を見てニヤニヤ、わたしの前に運ばれたカップを見てニヤニヤ。わたしのお気に入りの苦笑いとは大違い。最悪。

「知ってたの? 湯気出てるよ、これ」

「ティファナは温かいですよ。コーヒーのリキュールにホットコーヒーを入れて生クリームを上に乗せるのがティファナね」

「先に言ってよ。日本酒じゃあるまいし、ホットなんて……なんだか変な感じ」

「世界中あちこちにホットのお酒ありますよって詳しく書いてありましたよ、昔読んだ本」

「別に詳しく語ってもらわなくてもいいけどさ」

 わたしもジャムも同じ二十三歳だったけれど、ジャンル問わず読書好きだと自分で言うジャムは実際、博学だった。くだらない雑学からアカデミックな内容まで。読書好きの部分よりも、記憶力に優れているのかも。ジャムと話していると「十年ぐらい前に読んだ本なんですけどね」なんてくだりがよく出てくる。十年前どころか、三年前の思い出にすら多少の創作が混ざるわたしからすれば驚愕に値することだ。

「冷めないうちに飲んだ方が良いよ。案外うめえですから」

 いつもならば、一杯ひっかけた後で何処かに遊びに行く。ジャムのアルバイトは土日定休だったし、わたしは学生で、四年生。就職も、小さな学習塾が拾ってくれていた。スケジュールなんて、いつだって〝大体〟だった。適当に何処かをふらついて、泊まって、翌日もまた〝大体〟。それで何の問題も無かったし、ジャムが変化を嫌うように、わたしもまたこの〝いつも通り〟を愛している。出来ればずっとこのままで。そんな気持ち。出来れば今日もいつも通りで。目の前に見たことのない飲み物が出てきたぐらいではこの気持ちは揺るがない。

 この日、わたし達にしては珍しく話さなければならない事があった。可能な限り早く終わらせたい。終わらせて、少しでも時間のロスを軽減したい。目の前の飲み物がホットだとかコールドだとか、そんな事で時間を費やしている場合ではないのだ。

「で、ジャムさ、いつ頃帰るの?」

「まだ本当に決まったわけではないけど今月に帰らなければなりません」

「……結構急だよね」

「ワタシの親が向こうで会社始めますからそれ手伝わないといけません。それに前から話してたじゃねーですか。急じゃないよ」

 ジャムが言う通り、実際には二か月ぐらい前から聞いていた。ジャムはこの話をする時いつも、物凄く嬉しそうな顔。「忙しくなりそうだからワタシも帰らなければになるかもです」なんて言って。聞きたくなかったから、毎回聞き流してきた。ジャムの言葉から〝かも〟が消えて、聞き流していられなくなった。そう、つまり全然急じゃない。けれど、そんなの何の足しにもならない。

「それにね、ワタシ子供の頃は結構、国同士の揉め事みたいな事沢山ありました。今でもありますけど、それでも結構マシになったんよ。帰れるうちに帰らないとね」

「でも、今だって危ないんでしょ? ネットで調べたけど……渡航延期をお勧めしますって」

「ちゃんと飛行機も飛んでいるんだったら大丈夫。もっと危ない、もっと大変な、だけどニュースにもならないような事もワタシタチ見てきました。だから心配大丈夫です」



 十月の終わり、三十一日。ジャムが帰国する日。授業はあったけれど、優先すべきがどちらなのかは明らかだった。

 午後一時の飛行機で、余裕を見て空港には十時集合。ジャムがそう決めて連絡してきたからわたしはてっきり他にも見送りの人間がいるのかと思っていたのだけれど、予想に反して、ジャムのために空港までやってきていたのはわたし一人だけだった。

「他の人って……ワタシがこちらで知り合った人、みんな平日は忙しいんだよ。でも、ナカさんは大丈夫でしょ?」

「わたしが暇ってこと?」

「どんなに忙しいな時でも来てくれます、ナカさんは」

「せめてさ、二人だけでお別れが良かった、ぐらい気の利いた事は言えないのかな?」

「難しくて、面白いね」

 ジャムがチェックインを終えるのを待って、空港内の喫茶店に入った。手荷物だけになった身軽なジャムを見ながら、いつから授業だとか勉強だとか、そういった面倒くさい前置きがなくなったのかを少し想起してみた。まるで思い出せなかった。わたしはそれを言葉にしなかったし、彼だってしなかった。それでも、多分それはわたし達二人の共通した希望だった。だから、〝いつからか、自然と〟。

 メニューの中から、ジャムもわたしもアメリカンを注文した。おかわり自由、と記載されていたのがブレンドかアメリカンだけだったからだ。二択の中からジャムが決めた。

「アメリカン、量が多いからお得です」

「だって、お湯で薄めてるだけでしょう? と言うか、おかわり自由なんだからどっちでも変わらない気が……」

「本来のアメリカン、それ間違いなんですけどね。でも、これはこれで、沢山飲んでもお腹あまり痛くなりません。良いものです」

 喋って、喋った。ジャムと知り合ってから今日までの事。一緒に過ごした時間、一緒に体験した物事。ジャムとわたし、これまでのお話。今朝、家を出る前まではもっと色々、言うべき言葉や贈るべき言葉を考えていた。実際にジャムを前にして全部、何処かに消えてなくなった。気楽で、何も壊れない。何も生み出さないかもしれないけれど、それでも良い。むしろ、それが良かった。

 パキスタンがどういう国なのか。チャーイの正しい楽しみ方。パキスタン風バーベキューの食べ方やヨーグルトソースの作り方。物価がどのくらいなのか。ラマダンって何? わたしはそういう話を聞くのが好きだったし、ジャムは、誰かに何かを教えるのが好きらしい。順番におさらい。まるで、ドラマの総集編みたいだ。

 初めてジャムの家に行った時にチャーイを淹れてもらった。甘くて口が壊れそうだったけれど、しばらく経つとまた飲みたくなるような、不思議な飲み物だった。

 昨年の夏にはジャムのアルバイト先の人やその友達も交えてのバーベキューパーティに参加した。強い下味のついた鶏肉を焦げ目がつくまで焼いて、そのまま食べても良いし、酸味の強いヨーグルトソースにつけて食べても良し。どちらの食べ方にしてもあまり得意な味ではなくて、わたしはそれっきり二度とバーベキューには参加しなかったけれど、思い出すと懐かしくなる。もう一度ぐらい食べてみたいような、そんな気持ち。その機会があることを願おう。

「ナカさん、仕事、先生になるんですよね」

「うん。小さな塾だけど、頑張ってみるつもり」

「ワタシも次に来る時は自分の事務所作ります。その時には立派なナカ先生になってますね」

「次って……いつ?」

「分かりませんけどきっとワタシは来ますよ」

「その時はさ、なんかお土産持って来てね。パキスタンにしか無いようなの」

「ワタシのオススメ考えておきますよ」

 何処かへと発つ飛行機の音が喫茶店の窓越しに聞こえた。それに続けて、アナウンス。ジャムの乗る予定の便、集合時間。わたし達は喫茶店を出た。何だと言うほどの事でもない、単なるお別れ。また、すぐに会える。何だと言うほどの事ではないのだ。

 仮にジャムがしばらく戻って来なかった場合は、わたしからパキスタンに行くつもりだった。遅くとも大学の卒業が確定次第、卒業旅行として。だから、寂しさを感じる必要なんか、何処にも無い。電車で三十分だろうと飛行機で十時間だろうか変わらない。二人ともが生きている限り、お別れは単なるお別れであり続ける。会いたいと願い、会いに行けば、それで全てが解決するのだ。単なるお別れ。だから、大丈夫。

 自分に言い聞かせながら歩いて、エスカレーターに乗って、また歩いて、すぐ到着。ボディチェックを待つ人の列はそれほど長くなかった。見送りが出来るのは此処まで。空港が大きいなんて、誰か、余程慌ただしい人の妄言だと思う。つまらない涙だけは流さないようにと一生懸命だった。わたしは、これでもジャムの先生だったのだ。涙でぐしゃぐしゃになった顔を晒して、ジャムが優しい声で「泣かないで」……そんなの、たまらない。

「じゃあ、マタ会いましょう」

「うん……また」

 荷物を地面に置いて、ジャムはわたしのことを抱きしめてくれた。香水が臭い。口から、何かの食べ物のような臭いまでした。そういうのも含めて全部、ジャムの匂い。こんなのとも当分の間、お別れ。

「そう言えば、ナカさんに直してもらった時計、ちゃんと動いてます」

「壊さないで、ちゃんと持っててよ」

「多分絶対失くさねえから大丈夫ですよ、オソラク」

「その言い方、変だよ」 

「日本語だってもっとずっと勉強したいですから宜しく、ナカ先生」

 ジャムと別れてそのままの足で、わたしは喫茶店に戻った。メニューなんかどうでもよかった。店員がお冷を持ってくるなり、「アメリカン」とだけ。感じが悪かったかもしれない。オーダーを復唱しながら厨房へと戻っていく店員の顔は幾分不機嫌そうに見えた。別に、知ったことではないけれど。

 飛行機が一台飛び立っていく音。ジャムの乗る便じゃない。まだ、少し時間があった。アメリカンが出てきた。こんなもの、別に飲みたくもない。

 十月末とは思えないほどに、空は寒そうな色をしていた。風が強い。気温が低い。お別れのためにあつらえられた、特別な舞台みたいな午前中。もう、今のわたしに出来ることなんか、無事を祈ることだけだ。灰色の空が、冷たい風が、ジャムを無事に故郷まで送り届けてくれることを、ただ祈ろう。

 時間になった。飛行機の飛び立つ音ははっきりとは聞こえなかった。遠い滑走路だったのかもしれない。何のアナウンスも無かったから、遅延なく飛び立って行ったはずだ。着いたら電話をくれる約束になっている。まずはそれを待つ。ジャム曰く、「ワタシの電話、日本でしか使えないよ」だそうだ。何処かの電話を使って、コレクトコールでかけてくるらしい。許可済み。問題無し。もう声が聞きたくなっていた。

 また、いつか……訂正。〝いつか〟じゃない。また必ず、近いうちに。カップになみなみと注がれたアメリカンは冷め始めていた。一口だけ飲むと、薄く伸ばされたような苦み。もう一口。そろそろジャムはわたしの声を聞きたくなってくれているだろうか。わたしはジャムの臭いすら恋しくなっている。まだしばらくは席を立つ気になれそうもない。

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