第1話 If I could fly

 片側三車線の大きな通りに出るとすぐに、大雑把で優しい風。夏から秋へと移り変わる時期。暦の上では明確に秋でも、暑さはまだしぶとく残っている。

 夜中の三時半。車はあまりいない。時速三十キロ,わざとらしくルールを守って走らせる原付が、そんな夜の世界の一部であるかのような気がしてくる。大切に、誰にも見つからないように、丁寧に、緻密に、目的地まで約十分。張り裂けそうなエンジン音が、はっきりとしたその輪郭を寝ぼけた町に彫り込んでいく。

 たまにやってくる、眠れない夜だった。引き延ばされたかのような時間がどっと押し寄せてきて、特にやるべき事も見当たらなくて、わたしは思い付いて家を出た。昔ながらの本によくありそうな話だと思う。夜明けが見たかった。見られたら、何かしら変わるような気がした。多分、気の所為だけれど、それでも、ベッドの上で退屈を持て余しているよりは数段有意義だと思ったから。

 ポロシャツ一枚にジーンズ、スニーカー。耳にヘッドフォンをつっこんで、MP3プレイヤーはランダム再生。その上からハーフのヘルメットをかぶれば準備完了。家の前の小さな路地から見上げた空はまだ暗くて、夜で、明けの気配は何処にも見当たらなかった。



 夜明けを見るなら何処がいいだろう、と数分考えて近所の河川敷にした。大きな土手がある。そこからなら、遠くの夜明けを気持ちよく見渡す事が出来る。

 小さい頃は、正月や長い休みの時に連れてきてもらった場所だ。凧揚げとか、ボール遊びとか、その他色々。中学生の半ばくらいから来る事もなくなって、今はもう大学二年だから、かれこれ六年ぶり。当時のわたしが、“次に此処に来るのは六年後で、夜明けを見るため”と聞いたらどんな顔をするだろう。ちょっと想像。多分、どうして夜明けを見なければいけないのかが分からなくて混乱に陥る。どうして夜明けを見なければいけないのか。そんなの、今のわたしにだって分からない。いや、そもそも、そこに理由なんか必要無い。



 川の手前の信号を左折して、小路を少し直進して、今度は右。土手の手前に自転車を止めるスペースがあるから、そこに原付を突っ込む。エンジンを切って、ついでにヘッドフォンを耳から引き抜くと、周囲に本来の静けさが還ってくる。

 土手の階段を上がると、真横にすぐ私鉄の鉄橋がある。まだ始発まではいくらか時間があって、そこには何の存在も感じられない。小さな赤い光が幾つか明滅している。鉄橋のパーツが、夜の暗闇の中で一際黒い影となって佇んでいる。耳を澄ましてみると、少し離れた位置にある国道の橋をトラックが駆け抜けていく音が聞こえた。

 河原には誰もいないように見えた。鉄橋につけられた灯りも消されていて、ほぼ完全な真っ暗だ。対岸にあるマンション群の放つ光と、ほんの少し、朝に移行し始めた空。夜が少しずつ、確実に後退していく。あたしは土手の斜面に座り、静かに夜明けを待つ事にした。



 いつか もし 明けない夜が来たとしたら

 その時 何が出来るのだろう

 何処にも行けなくて 何も始まらなくて

 信じる事なんかきっと 出来なくなるだろう

 

 “守ってあげる”と言った君は、今は何処にもいなくて

 守られる事を認めたままで わたしは一人、ただ空を仰いでいる

 優しさの無い風が吹く その時に もしわたしが飛べるなら

 ……



 もし、わたしが、飛べるなら。携帯電話の液晶画面上、黒いカーソルが点滅し、次に何かが入力されるのを待っていた。終了ボタンを連打する。保存するかどうかを確認されたから、“いいえ”。こんなもの、残しておいたところで何にもならない。いかにもありきたりで、退屈な言葉の羅列。上手く書けない日はとことん駄目だ。

 歌詞めいた言葉の連なりを作るようになったのは、高校に入学してすぐの事だった。不意に思いついたひとかたまりの言葉が妙に上手く出来ているような気になって、ノートに書き連ねてみてそこから趣味になった。誰かが歌う事を前提にしているわけではないから、これは歌詞では無い。しかし、詩でもない。言葉の羅列。何人かの友達は感心してくれた。多くの知り合い以上友達以下の連中は、ちょっとヒイていた。それでもわたしは、こうやって言葉を探すのが好きだったし、この作業は誰かに気に入ってもらったり認めてもらったりするような種類のものではない。言葉は、求めていない時に限ってやってくる。探し求めている時は、まるで誰かが妨害でもしているかのようにその姿を隠す。わたしはその隠された言葉をありとあらゆる手段でもって探し出す。欠片を見つけてはそれをメモする。集まった欠片を色々な形で組み合わせてみる。ジグソーパズルみたいなものだ。時々、“どうやっても絶対に組み合わせることのできない”ピースがあるのは、多分、わたしの力不足。

 携帯電話を閉じてポケットに戻し、そのまま斜面に転がった。星なんか殆ど見えない。大都会のど真ん中ではないけれど決して田舎でもない町。いわゆるベッドタウンで、マンション、団地と大きなスーパー以外には特色なんかなにも無い。住んでいる人が多い分だけ車も多くて、空も汚れている。月は見えた。西の空の端。帰っていこうとしている。もうすぐ朝だ。始発の時間が来たらしい。静けさを切り開く発車ベル。それから、鈍い動きで電車が橋を抜けて行った。何に向けてのものなのかは分からないけれど、警笛が一つ鳴らされた。



もしわたしが飛べるなら きっと 探し物をしに行くよ

遠い昔に 見失った君と、それにまつわる幾つか

諦める理由なんか 何処にも無いよ

まだ、わたしは、わたしでいられる



 中学生の頃、大切な友達の死にぶつかった事がある。お通夜があって、葬式があって、学校の机に花瓶が置かれた。テレビなんかでよく見るそれが自分の身近に現れた時、吐きそうな気持ちに襲われた。

 学校の集会では交通事故と告げられ、公道を歩く際の不注意がいかに危険かが切々と説かれた後で黙祷があった。わたしは、笑っちゃいそうなくらにがっかりしていた。その友達が残していったメールはあれから何回か携帯を機種交換した今でもちゃんと残っている。

 件名は、“友へ”。本文は、たったの一行。“逝ってきます。またね”。悪い冗談だ、と思った。何か、マンガとかアニメの影響を受けてふざけているだけだと思ったから、特に返信もしなかった。普通の日で、普通の夜で、わたしは普通に寝て、翌朝起きて学校へ行った。訃報でクラス中が沈んでいた。泣いている子もいた。泣くに泣けなかった。何か、これまでの自分の領域が大きくずれてしまったような、そんな感覚。もう元の場所には戻れなくて、目の前には見たくもなかった風景が広がっていて、振り返った背後は夜よりも悲しい真っ暗。身近な死は、竜巻みたいにわたしの周囲の世界を巻き込んで、消し飛ばした。

 はっきりしていて、何でも自分の力で出来ると信じているような子だった。怖いものなんか殆ど無くて、迷う事も少なくて、言いたい事は誰にでも言っていた。勿論、本当にそうだったのかどうかなんて分からない。少なくともあたしにはそう見えていた。その彼女に、人に言えない事があって、悩んで、“逝ってきます”だなんて言いだすまでになったその事が、ずっと、わたしの中から消えなかった。彼女の事をすごい、と思って、見習おう、だなんて思って、よく一緒に遊んでいて、他愛もない話で一緒に笑っていたのにわたしは何も知らなかった。何も気づかなかった。何もしてあげる事が出来なかった。理解していなかった。考えようともしなかった。周囲に溢れる“当たり前”に誤魔化され続けていた。許されていた。本当に開くべき扉は閉ざされていた。そもそも、そんな扉がある事すら気が付かなかった。ありがちな自己嫌悪だって笑ってくれてもいい。多分、もうしばらくの間わたしはこのままのわたしだ。言葉を探して、書いて、迷って、ほんの少しでも前に進みたいと思い続ける。多分それは、あの日から、少しでも遠ざかりたいから。あの日を眺め下せる場所まで、早く行きたいから。“逝ってきます”を、確かな決意を持って削除できる日に、出来るだけ早くわたしは辿り着かなければいけないのだ。



 夜明けの瞬間はそれほど面白いものでも無かった。朝日がのっそりと姿を現して、黄金色の朝焼けを周囲一帯にばらまいて、それから少しずつ明るくなっていっただけ。対岸のマンション群の灯りがいつの間にか目立たなくなっていた。もう少し感動するものだと思っていたのに。多分、余計な事を考え過ぎたせいだ。わたしの意識は途中から、夜明けどころじゃなくなっていた。昔の事を思い出し過ぎると、いつもこうだ。引っ張られる。それを面倒がる権利はわたしに無い。だから、無理に抵抗しないでそれに従う。従って、言葉を探し続ける。それがここ最近のわたしで、これからしばらくのわたし。

 夜の勢力はほぼ追い払われて、頭上の空は白っぽさを経由して、今はもう青い。朝だ。何処かの家の給湯器の音が聞こえる。電車が短い間隔で橋を通り過ぎて行く。風の無い、蒸し暑い朝だった。無作為に千切られたような雲が幾つか漂っていた。家に帰って、言葉を探そう。そう決めて、土手下、原付の場所へ。夏は簡単にエンジンがかかるから好き。冬だとこうはいかない。

家に向かいながら、とてもシンプルな言葉が繋がった。

 “もし、わたしが飛べるなら、きっと君に会いに行く”

 出来そこないのポップソングみたいだけれど、多分、わたしがこれまで探してきたどんな言葉よりも正直でまっすぐに前を向いている。



 もし、わたしが飛べるなら、きっと君に会いに行く。会えなくても、諦めない。何処か、高い空の下で。いつか、夢よりも遠い場所で、きっと会える。信じているから、歩ける。きっと、いつか、また、どこかで。

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