メグリくくる

ここは、餌のない匣の中

「佐倉くん。今年の海外研修のメンバーに、君が選ばれたよ」

「本当ですか、部長!」

 僕は身を乗り出すように、部長に詰め寄った。

 僕が務めているのは小さな会社だが運搬業を営んでおり、海外に顧客を抱えていることから海外にも支店を持っている。

 会社としては今後のビジネス拡大のため毎年その支店へ研修メンバーを送り込んでおり、僕は今年見事そのメンバーに選ばれたのだ。

 実はこの海外研修、公然とは言われていないが、このメンバーに選ばれた人が重要な役職に就くことが多いため、事実上の出世街道だと社内では言われている。

 そしてめでたく、僕は今この瞬間、その出世街道に乗ったというわけだ。

「おめでとう、佐倉くん」

「ありがとうございます、部長!」

 抱きつかんばかりに部長の手を握りしめ、僕は満面の笑みを浮かべた。今までの僕の努力が、認めてもらえた瞬間だった。

「最後の選考に大分悩んだそうだが、君の熱意を買った。一年間、向こうでしっかりと学んできてくれ」

「もちろんです! しっかり社のために貢献します!」

「はははっ! 言うじゃないか、頼もしい」

 部長と笑いあいながら、僕は別のことを考えていた。

 僕が海外研修のメンバーに選ばれたということは、同時にメンバーに選ばれなかった人がいるということだ。

 その最後の選考に僕と誰が比較されたのか、僕には検討が付いていた。

 後でこの件についてその人から何か言われるだろうなと思ったが、それも今は脇に置いておけばいい。

 もっと大事な懸念が、僕の中で渦巻いていた。


「なぁ、蟲毒って知ってるかぁ?」

 その言葉に、僕は露骨に顔をしかめた。

 そう聞いてきたのは向かいの席に座っている会社の藤木先輩で、僕の顔を見て嬉しそうにニタニタ笑っている。

 僕は、虫が苦手だ。

 というか、嫌いだ。

 死ぬほど、嫌いだ。

 大っっっっ嫌いだ。

 あの節足動物特有のうねるような関節の動きが気持ち悪いし、動く時鼓膜を突くようなカソコソと立てる足音を聞くと鳥肌が立つ。終いには、羽をはやしてこっちに向かって飛んでくるような奴までもいるときた。

 視覚的にも聴覚的にも、奴らの全てが僕には気に入らないし、受け入れられない。

 奴らが近くにいるだけで、奴らのことを聞くだけで僕の全身に虫酸が走り、生理的嫌悪感に、嘔吐しそうになる。それぐらい僕は、虫が大っ嫌いなのだ。

 そしてそのことを知っているにも関わらず、僕の前で平然と虫の話をする藤木先輩のことも、同じように僕は嫌っていた。

 五つ年上の藤木先輩は、何が気に入らないのか僕が入社した時から度々嫌がらせをしてくる。一度昔嫌いだった奴の顔と僕の顔が似ていると言われたが、とばっちりもいいところだ。

 そうした嫌がらせは、最近、海外研修のメンバーが決定した時期から確実に悪化していた。恐らく今度の海外研修のメンバーに僕が選ばれ、自分が選ばれなかったのが悔しいのだろう。

 蟲毒の話だって、僕が嫌っている虫の話を僕に披露するために、わざわざ何処かから聞きつけてきたに違いない。

 何かしら言われるだろうとは予想していたが、まさか虫の話をし始めるだなんて、本当に最悪だ。

 しかも今は昼休みで、僕たちは昼食を取っている真っ最中。どう考えても、藤木先輩の嫌がらせとしか考えられない。いっそ藤木先輩目掛けて、今食べている親子丼を吐き出してやろうかと、本気で思ったぐらいだ。

「蟲毒? 何っすか? それ」

 そんな僕の胸中なんて知りようもなく、僕の隣の席に座っている、今年入ってきた新人の丸尾くんが、かつ丼を書き込みながら藤木先輩の話に食いついた。僕は勘弁してくれよ、と思いながら丸尾くんの顔に視線を送る。

 そんな僕とは裏腹に、丸尾くんの反応に気を良くした藤木先輩は得意そうに牛丼の器をテーブルに置くと、手に持った割り箸を丸尾くんに向けて、偉そうに口を開いた。

「蟲毒ってのはなぁ。一つの匣にたくさん虫を詰め込んでぇ、閉じ込めてぇ、最後の一匹になるまで、共食いをさせるのさぁ」

「それで、その一匹をどうするんっすか?」

 その丸尾くんの問に、藤木先輩は喜色を必死に隠しながら、秘密をこっそりと打ち明けるように、分厚い唇を動かす。

「その一匹を使って、誰かを呪い殺すのさぁ。呪術に使うんだよぉ」

「じゃあ、誰も呪わないのに蟲毒を作ったら、どうなるんっすか?」

 丸尾くんの素朴な疑問に、一瞬藤木先輩の目が丸くなる。その質問は想定していなかったのだろう。先輩は左眉毛を気難しそうにぴくりと動かし、どうにか答えを捻り出した。

「……作った本人が、虫に呪い殺されるんじゃないのかぁ? 多分だけどよぉ。呪詛返しって言葉もあるぐらいだしなぁ」

「あの、やめませんか? その話。食事中ですし」

 僕はこれ以上話を聞くことが出来ず、思わず口を挟んだ。

 藤木先輩の様子からすると、そこまで蟲毒について詳しいわけではなさそうなので、放っておいてもすぐにこの話、虫の話は終わっただろう。

 でも、僕にはもう限界だった。もう虫の話なんて、一秒たりとも聞きたくない。

 憂鬱そうな顔を浮かべているに違いない僕を見て、藤木先輩は待ってましたと言わんばかりに、嫌らしい笑顔をこっちに向けてくる。

「あぁ、佐倉は虫がダメなんだったなぁ。悪かったぁ悪かったぁ」

 口ではそう言っているが、藤木先輩の顔は明らかに僕を嘲弄していた。大方、新人に僕の欠点を晒して、自分の方が力関係が上だとでも思わせたいのだろう。どう考えたら虫嫌いなのが力関係に影響を及ぼすのか、僕にはさっぱりわからない。

 そういう所が海外研修のメンバーに選ばれなかった理由なんだ、と僕は内心毒づいた。

 そんな僕に、食べ終わったかつ丼の丼をテーブルに置いた丸尾くんが、こちらに向き直って問いかける。

「へぇ、佐倉先輩。虫、ダメなんっすか?」

 流石にそこまでストレートに言われると思っていなかった僕は、若干口を引き攣らせながら答えた。

「あ、ああ。どうしても、ダメでね」

「情けないと思わないかぁ? なぁ、丸尾。男のくせにぃ」

 僕の返事に食い気味で、藤木先輩が言葉を挟んだ。先輩は、何かを期待するような目で、丸尾くんに視線を送る。

 だがその期待は、丸尾くんには届かなかった。

「でも、そもそも虫が好きな人って、そんなにいないっすよね? 自分も、進んで触ろうとは思わないっす」

 期待していた内容ではなかったのか、淡白な丸尾くんの言葉に、藤木先輩が鼻白んだ。先輩の頭の中では丸尾くんと一緒になって、僕を意気地なしだとでも罵る計画だったのだろうが、そうはならなかったようだ。ざまぁみろ。

「でもよぉ、佐倉の虫嫌いは病気的なんだよぉ!」

 それでも藤木先輩はまだ引き下がろうとせずに、丸尾くんに向かって唾を飛ばしながら口を開いた。

「こいつの家、部屋に虫が入ろうとしたら殺虫剤が出るようにぃ、センサー付けてやがるんだぜぇ? 頭おかしいだろぉ? もう病気だろぉ? これぇ」

「え、マジっすか? 佐倉先輩」

 さり気なくテーブルに飛び散った藤木先輩の唾をおしぼりで拭いながら、大げさに驚いた丸尾くんは、僕の顔を凝視した。

 僕も彼に習いテーブルを拭きながら、丸尾くんに答える。

「センサーって言っても、別に何処に大したものじゃないよ。人が近づくと、ライトが付いたりするセンサーライトがあるだろ? あれを少し改良をしただけだよ」

 吹き終わったおしぼりをたたんでいると、尚も丸尾くんが疑問を口にする。

「え、でもあれって、人間の熱とかに反応するんじゃないんっすか? 虫みたいな小さい動物にまで反応するセンサーなんて、誤動作で殺虫剤吹きまくりになっちゃいませんか?」

 的を得た丸尾くんの指摘に、僕は素直に感心した。

 丸尾くんの指摘通りで、僕は誤動作しないように四苦八苦しながら、部屋にセンサーを取り付けたのだ。

「驚いた。丸尾くん、結構詳しいんだね。確かに丸尾くんの言う通り、虫まで感知出来る敏感なセンサーだと、埃にまで反応してしまう可能性がある。だから『一秒前の画像データ』と『今の画像データ』を比較して、その差分を取って虫が画像に写っているのか、いないのかを判別してるんだよ。判別と言っても、虫よりも大きいか、それ以下っていう、かなり大雑把なくくりだけどね」

 僕の話を聞いて、丸尾くんは納得したように頷いた。

「画像処理と連動させてるんっすね。でも、それだと人が部屋に入る時はどうするんっすか? 虫より大きいと、人間にもセンサーが反応しちゃいますよね? 佐倉先輩、帰宅するたびに殺虫剤を浴びてるんっすか?」

 その言葉に、僕は思わず吹き出してしまう。

「いや、流石にそんなことにはならないようにしているよ。事前に自分のスマホの情報を登録しておくんだ。後はスマホのGPS機能をオンにして、登録してあるスマホが通るなら、殺虫剤をかけないようにしてあるのさ」

「逆に登録してないスマホを持った人が勝手に部屋に入ろうとすると、殺虫剤が出るってわけっすね」

「その通り」

「防犯にも役立って、カッコいいじゃないっすかっ!」

「ありがとう。あ、もちろん郵便物が届く時は、センサーは切っているよ」

「なるほど!」

 思いがけず話が弾んでしまい、そこから丸尾くんと昼休みが終わるまで話し込んでしまった。その様子を、思惑が外れた藤木先輩が舌打ちをして、不機嫌そうに僕らを見つめていた。

 

 ある晩。

 僕は額から汗を流し、荒い息を吐きながら、体を前後に動かしていた。やがてある瞬間を向かえ、一時痙攣した後、僕はベッドに横になる。

 深く息を吸い、気怠げな快楽を味わっていると、僕の右手が引き寄せられた。

「いよいよ、明日だね」

 そう言って僕の隣で微笑んだのは、恋人の良子だ。僕は彼女を抱き寄せながら、良子に微笑みかける。

「ああ。明日の今頃、僕は飛行機で空の上さ」

「寂しくなるわね……」

 そう言った良子を愛おしく感じ、僕は彼女をより強く抱きしめた。

「僕だって、良子に会えないのは寂しいよ。でも、『たった』一年間だろ?」

「違うわ! 一年『も』よっ!」

 ヒステリックな、それでいて拗ねているような良子が、僕の腕をつねる。

 痛みに悶えながら、僕は何とか彼女をなだめる言葉を口にした。

「海外って言っても、今では電話も出来るし、ビデオチャットを使えば、毎日互いの顔も見えるじゃないか」

 海外研修が決まった時、僕が一番気にしていたのが、良子の説得だった。

 彼女とは大学からの付き合いで、その頃から遠距離恋愛は絶対無理だと、耳にタコが出来るほど言われてきた。

 今僕が働いている会社も、彼女の意見に左右されて就職したようなものだ。

 こういうのは惚れた方が負けなのか、良子にべた惚れの僕は彼女の意見に逆らえなかった。

 しかし、もうすぐ付き合って六年経つ。そろそろ、今後のことについて考えなければならない。

 だからこそ僕は必死になって彼女を説得し、何とか海外研修の了承を得たのだ。

 だが、やはりというべきか、前日になって彼女は再度渋り始めた。もちろんこの段階で、やっぱり研修には行けません、とはとても会社には言えない。それは良子もわかっているはずだ。

 僕は良子に言い聞かせるように、ゆっくりと、今まで何度も繰り返してきた言葉を紡いでいく。

「いいかい、良子。これは僕の昇進がかかっているんだ。それは何度も話し合って、良子も納得してくれただろ?」

「それは、そうだけど……」

 額を僕の肩に擦り寄せ、唇を尖らせる彼女の頭を、僕はゆっくりと撫で上げる。寂しがり屋のお姫様は、全く納得してくれていないご様子だ。

 それを見た僕は意を決したように、彼女に向かって口を開いた。この気持を伝えれば、きっと彼女は頷いてくれるはず。

「……研修が終わって昇進が決まったら、僕と結婚してくれ。良子」

 僕の言葉を聞いた良子は、呆けた顔をして僕の顔を見つめた。だがその顔は、徐々に喜びの色が広がっていく。

「ホント!」

「ああ、本当さ。ずっと考えてたんだ」

 それが答えだとでも言うかのように、良子は僕の首に両手をまわす。

 そんな彼女の頭を、僕は優しく撫でた。

「でも、何で昇進後なの? 今すぐじゃダメなの?」

 まだ文句を言われると思わなかった僕は、流石に苦笑いを浮かべるしかない。

「二人分の人生も背負っていくことになるからね。今は不景気だし、なるべく金銭面で良子に負担をかけたくなんだ。これからもっと先には、三人、四人分の人生を背負うことになると思うからね」

 付き合っている間にも、良子は子供が欲しい、子供が欲しいと、何度も言っていた。

 そして僕も、彼女との子供が欲しかった。

「だから、わかってくれよ。良子のスマホは、もう虫除けのセンサーに引っかからないように登録してある。合鍵も渡してあるし、僕が海外に行っている間、この部屋は良子が自由に使っていいからさ」

「……道雄がいないのに、この部屋に来る用事なんてないわ」

 そう言った彼女に、僕は頷いた。少しわかりにくいけど、これは彼女が納得してくれたサインだ。

 僕が部屋にいない時用事がないということは、逆に言えば、僕が海外研修から帰ってくれば用事があるということ。

 若干迂遠な言い回しだけど、彼女と話し合ってわかりあえたことの嬉しさで、僕はそんな些細な事は全く気にならなかった。

「なら、次に良子がこの部屋に来るのは、僕の帰国後になるね」

「うん。帰ってきたら、晩御飯作って待ってるからね」

 そして二人はどちらからともなく、互いに唇を重ねあった。

 

「そっちの様子はどうだい? 良子。今は自分の家にいるの?」

『ええ、そうよ』

 僕はノートPCのディスプレイに映る良子と、空港でビデオチャットをしていた。僕の後ろを、肌の色も喋る言葉も違う人々が、忙しなく行き交っている。

 一年間の研修は問題なく終了し、僕は今日、日本に帰ることになっていた。今は空港のロビーで、飛行機の搭乗準備が出来るのを待っている。

 研修期間中、僕と良子はほぼ毎日と言っていいほど連絡を取り合っており、期限付きの遠距離恋愛だったが問題なく、むしろより深く互いを愛するようになっていた。

 マイク付きのヘッドホンの位置を直しながら、僕は帰宅時刻を良子に告げる。

「僕が家に着くのは、日本時間で午後七時ぐらいになりそうだ」

『了解。約束通り、晩御飯作って待ってるからね』

 一年前にベッドの上で交わした約束を彼女が覚えていてくれたことに、僕の頬は自然と緩んでいく。

「わかった。期待しているよ」

『晩御飯、何が食べたい?』

「良子の作るものなら何でも、って答えたいけど、今は白米と味噌汁が飲みたいな」

『何それ』

「いや、日本から出て実感したんだけど、やっぱり日本の料理は美味しいよ」

 その後他愛のない、それでいて幸せな会話を続けていると、僕の乗る飛行機の搭乗準備が完了したと、アナウンスが流れた。

「ごめん良子。そろそろ飛行機に乗らないと行けないんだ」

『わかった。気をつけて帰ってきてね』

 手を振る彼女にしばしの別れを告げ、僕はノートPCの電源を切り、飛行機に乗り込んだ。

 フライトは順調で、予定時刻に日本に到着した。

 僕はスーツケースを引きながら電車を乗り継ぎ、自分の家までたどり着いた。スマホで時間を確認すると、現在の時刻は午後七時六分。帰宅時刻も予定通りだった。

 しかし、おかしな点がある。

 僕はマンションの三階に部屋を借りているのだが、その部屋に明かりが付いていないのだ。予定では良子が晩御飯を作って待ってくれているはずなので、明かりが点いていないのは変だ。まさか、交通事故にでもあったんじゃないだろうか?

 心配になった僕は良子に電話をかけようとした所で、彼女が僕を驚かせようと何か準備しているんじゃないか、と思い至った。もしそうなら、多分電話をしても彼女は出てくれないだろう。

 どちらにせよ、まずは自分の家に行くしかない。僕はスーツケースを引いて、自分の部屋まで向かった。

 部屋の前まで辿り着き、ドアノブに手をかけると、ドアの鍵が開いている。

 その事実に、僕はひとまず安堵した。部屋の合鍵は良子にしか渡していない。良子は無事で、どうやら部屋の中には、彼女のサプライズが待っているらしい。

 子供っぽいいたずらごころを持つ彼女を愛おしく思いつつ、部屋の中に何が待っているのか期待して、僕は自分の部屋に入った。

「ただいまー」

 ……。

 …………。

 ………………。

 何も起こらない。

 部屋に入ってもう十秒は経ったというのに、部屋は相変わらず、闇に包まれたままだ。

 クラッカーでも鳴らされるんじゃないかと気構えていたので、僕は少し拍子抜けした気分になった。だが、何か変な臭がする。何の臭いだ、これは?

 そう疑問に思いながら、僕は明かりを点けるために、スイッチに手を伸ばした。

 部屋に、明かりが灯る。

 そこに、良子がいた。

「……え?」

 間抜けな声を上げた次の瞬間、僕は絶叫した。

 良子が。

 僕の恋人が。

 床に血だらけで倒れている。

 良子が、良子が血だらけで倒れている! 良子っ! と僕はパニックになりかけた所で、これが彼女のサプライズ何だと察した。

 何だ。こういう趣向だったのか。確かにこれは、心臓が飛び出るかと思ったぐらい、ビックリした。

 まんまとはめられた僕はどっと疲れながら、何事も無くて良かったと思いつつ、右手で自分の頭をかいた。

「あんまり脅かすなよ、良子。それに、これは流石に、ちょっとやり過ぎだぞ」

 そう言いながら、うつ伏せになったままピクリとも動かない彼女に近づいていく。やれやれ。まだ続ける気なのか。

「全く、フローリングが血糊でベタベタに――」

 話しながら、僕はさっき感じた違和感の正体に気がついた。

 血だ。

 血の臭いだ。

 本物の血の臭いだ。

 倒れている良子から、本物の血の臭いがする!

 僕はスーツケースを放り出し、うつ伏せのまま微動だにしない彼女に駆け寄った。見れば良子の両手に、スーパーの袋が握られている。中身はきっと、僕がリクエストした今日の晩御飯の材料だ。でも、そんなことはどうでもいい。今は良子だ!

 半狂乱になりながら、僕は彼女を抱え起こす。

「良子!」

 そこで、この血の出処がわかった。

 彼女の、顔だ。顔が、ズタズタにされているのだ。

 左の頬は大きな穴が開いており、そこから彼女の歯茎がよく見える。その歯茎は千枚通しで刺した穴が無数に空いており、僕が彼女に触れたことで、何本か歯が床にこぼれ落ちた。その口の中にあるはずの舌は、喉奥まで覗きこまなければ見えないほど短く切り取られている。鼻は綺麗に肉だけ削げ落としたかのように、鼻骨が丸見えで、二つの空洞もよく見える。あるはずの左の瞳はそこにはなく、瞼が暗い穴に落ち窪んでいた。右の眼球はあるにはあるが、かろうじて神経か何かの糸でつながっているだけで、所定の位置には存在しない。頭には円形脱毛症のような箇所が数カ所あり、そこから桃色の、多分脳みそがはみ出ていた。

 僕は悲鳴を上げ、良子を突き飛ばした。飛ばした拍子に、彼女の服の下から血と臓物が溢れだす。どうやら傷は顔だけでなく、彼女の体中に及んでいるらしい。

 彼女からこぼれ落ちたそれらは泥水をコンクリートの壁にぶち撒けたような、粘着質な音を立てて、床に散乱した。

 部屋中に血の臭いが充満し、胃から全てを吐き出しそうだ。目の前の現実が、理解できない。僕の脳が、理解しようとしない。

 それでもどうしようもないぐらい、僕の目の前にある真実が横たわっていた。

 死んでいる。

 良子が、死んでいる。

 しかも、尋常な死に方じゃない。

 僕に医学的な知識なんてないが、良子の傷口は、何かに食い破られたように見えた。でも、部屋には僕と、良子の死体しかいない。

 と、ともかくけ、警察、救急車を呼ばないとっ!

 混乱しながらも血だらけの手で、自分のスマホを取り出そうとする。良子の血に濡れて、上手く取り出せない。もどかしい思いをしながらも、どうにかして、僕はスマホを服から引っ張りだした。

 するとそこには、虫がいた。

 血に濡れたそれはぬらりと光り、僕のスマホの上で蠢いていた。

 僕は絶叫を上げ、虫ごとスマホを部屋の壁に投げつけた。スマホが白い壁にぶつかり、歪な紅の斑点が出来上がる。だが、虫の姿は何処にも見えない。

 何だ? 何だあれは? 何なんだよ!

 疑問が頭の中を錯綜し、僕は上手く立ち上がることすら出来ない。

 僕は無様に地を這うようにして、部屋の外に飛び出そうとする。一瞬見えたそれはムカデのようにも見えたし、イナゴのようにも見えたし、ハチのようにも見えたし、サソリのようにも見えたし、ガのようにも見えたし、ゴキブリのようにも見えた。

 でも、そいつの正体なんてどうだっていい。早くここから抜け出したいっ!

 転げまわりながらも玄関に到達し、何とか僕はドアノブに手を伸ばす。

 そして、外に足を踏み出した。

 その瞬間、僕の顔に、何かが吹きかけられる。

 僕の両目に、激痛が走った。痛い。焼けるように痛い。両目が溶けて、溶岩のように流れでてしまうのではないかと錯覚した。

 僕は泣きながら両目を押さえ、生まれたばかりの赤ん坊よりも酷い悲鳴を上げて、盛大に後ろへと倒れ込んだ。

 僕の両手は、今目を押さえている。ドアノブからは手を話してしまった。やがて、ドアが閉まる音がする。金属がこすれ合う鈍い音が絶望の音に聞こえて、僕は獣のように泣き喚いた。

 痛い痛い目が痛い! 何だ、何が起こった? 何だなこれはもうっ!

 上も下もわからない。前後不覚の状態で転がりながら、僕は自分の顔に何がかかったのか気がついた。目は見えないが、この鼻腔を貫くような臭いには、覚えがあった。

 殺虫剤だ。

 僕の用意した、虫除け用の殺虫剤だ。

 僕のスマホは、虫と一緒に部屋に投げ出した。

 だからセンサーが反応して、僕に殺虫剤を吹きかけたんだ!

 そこで僕は、自分の仕掛けたセンサーが部屋に『入ってくる』ものを対象にするだけでなく、部屋から『出て行こうとする』ものにまで反応することに、たった今気がついた。

 外出する時、僕はいつもスマホを持ち歩いている。郵便物が届く時にはセンサーは切っている。だから僕が部屋から『出て行く』時には、今まで一度もセンサーが反応しなかったんだ!

 でもそうすると、この部屋はどうなる? どういう状況に見える?

 僕が死ぬほど大っ嫌いな虫たちからは、どう見える?

 いかに僕が虫嫌いだからといって、確実に部屋中の虫を全滅させることは不可能だ。僕が部屋にはいる時、僕と一緒に虫が部屋に入ればセンサーは反応しない。どうしても部屋に虫が潜む可能性が残ってしまう。

 そうした僕の部屋に入り込んだ虫たちは、普段僕がいる間は食事に困らないだろう。僕の老廃物を食べたりして、生き残ることが出来る。

 でも、それは一年前までの話。

 この一年間、僕は海外にいた。

 他に部屋に入れる良子も、部屋には来なかったはずだ。

 つまり、部屋の中は虫の餌がない状態になる。

 虫が外に出るのも不可能だ。それは僕が、今身を持って証明した。外にでる時にも、殺虫剤が吹き出される。虫たちは、部屋を出ることが出来ない。閉じ込められた状態だ。

 匣だ。

 僕の部屋が。

 僕のこの部屋が、虫たちにとっての、巨大な匣になる。

 餌のない匣。

 閉じ込められた虫たち。

 藤木先輩から聞いた『ある言葉』を、僕は今思い出した。

 そして丸尾くんが聞き、藤木先輩が答えた、そのつもりもないのに『それ』を作ってしまった場合、その作成者がどうなるかも。

 まだ目が見えない中、僕の耳には、確かに奴の足音が聞こえていた。

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