強気なラーメン屋
あーそびましょ、と言ってやってくる、まるで幼い子供だ。
昔々、地方都市のとある住宅街に、子供が三人いた。終わりつつある世界では、その団地に同世代の子供はわたしたちしかいなかった。弟はさっさと幼稚園や小学校のお友達とばかり遊ぶようになり、何歳だったかは忘れたが既定の年齢に達したとたん小学生ソフトボールクラブにも入った。わたしはその発想はなかったと思った。
そして今わたしは弟にかけた電話を無言で切った。
「さらば、ロドニー」
ラーメン屋のべたついたテーブルに肘をついている男は何の変哲もない家庭に育った。口元に指を持ち上げるあざといしぐさは親から教わったものではない。彼の母親は車で30分かかる工場で働いていて、よく社員割引のソーセージを分けてくれた。あえて社割で買ってあえておすそ分けする心理がわたしにはよくわからない。全体的に言って損をしているのではないのか? それはともかく彼の父親は土建屋に勤めていて我が家の床が抜けたときは無料で直してくれたことがある。ふたりとも親切で朗らかで、固定観念に縛られていないはずはないとは思うが少なくとも彼の自由すぎる生き方を否定はしなかった。窃盗席を含め万事笑って済ませたのはルーズではあるが咎ではないだろう。むしろそれは最適解だったとすら言える。
生まれた息子がたまたまサイコパスだったのだ。
「大学生の頃さあ」
口火を切ったのは彼の方だった。わたしは無言で頷いて、ぬるい水を飲んだ。
「こういう店超増えてさあ、ラーメンに千円バカかよって」
「ラーメン屋で言うな」
「おまえ超通ってたじゃん、てか、ミクシーコミュ管理してたじゃん」
彼はミクシーと平板なカタカナで言った。mixiを馬鹿にしているのだ。わたしももう何年もログインしていないが、自分だって狩場のあたりをつけるのに散々使っていたくせに。
「君だって呼ばれたらほいほいついてきて金を払っただろう」
「そういうこと言う? ルールじゃん」
「ルールだな」
「どこがよかったの」
「ラーメン屋で言うな、だから」
塩チャーシューラーメン千円。高いのか安いのかもはやよくわからないなと思う。そもそもほとんど油じゃないのか? ほとんど油の食べ物を三十路にもなって食べる意味とは何だ。千円の意味とは何だ。子供の頃、ラーメンの中では塩ラーメンだけが許されていた。「ヘルシーだから」。ヘルシーとは。
頑固そうな店主がさっきからこっちを見ている。こわい。
「別の人間になれるような気がしたから」
ラーメンがなかなか来ない。
「我々が給食を許されず弁当を持たされる子供だった頃、塩ラーメンだけが許されていた。アレルギー体質だというのは母が押し通そうとした嘘だ、少なくとも給食が食べられないほどでも、塩ラーメンが食べられないほどでもなかった。そして塩ラーメンが許されていたのは、おじいちゃんがそれを好きで、どうせおじいちゃんの家に預けたらカップラーメンしか出されないのは母も知っていたから、そしたら塩がいいと言えと言われていた。それがわたしが外の世界で口にすることができるたったひとつだった。かわいそうな罪のないソーセージと君の母親」
「別にあれそんなうまくなかったよ」
「大人になってから食ったよ」
「だろ?」
「しばらく食ってた」
「おまえさあ」
彼は笑った。
彼はいつどこであらゆることを学んだのだろう。食べること。そして食べること。
「じいちゃんのことだけ、弟も、うちの親すらその呼び方なのに、じいちゃんのことだけ『おじいちゃん』な。――おれは?」
「ムッシュー・ポアロ」
絵に描いたような反応をしてしまった。そもそもがセンチメンタルなのだ。ロストバージンに価値があるとは別に思わないがというか思いたくもないし思わないようにしたいが相手が相手だし状況が状況だしわたしは彼に借りばかりあるじゃないかこのサイコパスあとさき考えていないだけのくせに。
「わたしを手癖で口説くのはやめろ。不愉快だ」
「手癖じゃなきゃいいのかよ」
「なんのために?」
彼はくっくっくと笑いながら、手を上げて、「オネーサン布巾くださーい、席ぬれちゃったー」と言った。ラーメンを運んできた若い店員が大丈夫ですかと言いかけてわたしを見て言葉を飲み込み今すぐと答えてばたばた去っていった。安心してくれ、別に修羅場ではない。別にそこまでの関係ではない。
「水が冷えていなくてよかったな」
「でも外そこそこ寒いよ」
「自業自得だし言うほど寒くない、五月だぞ」
「今年あったかいよな。なあ」
割りばしを割ってから、いただきます抜きでラーメンを食べ始めたわたしに向かって、割りばしの両方を一本ずつ何かに見立てて、ポアロは言った。
「なあヘイスティングス、おれの世界には女とそうじゃない生き物がいてそうじゃない生き物はおれと寝ないから男ってことになってる、おれの言葉では。でもおまえは女じゃない。おれと寝たけどね。言ってる意味わかる?」
「月が綺麗ですね」
「出てねーよ!」
「品のないI LOVE YOUだな」
「それあれじゃん、おれがあの、小三のときの、犯罪者に教わっておまえに教えてやったやつじゃん」
「担任な」
「おれあれでダメになったんじゃない?」
「ラーメンが伸びる」
わたしの部屋は居心地のいい小さな部屋で、一匹の猫がいる。大家に秘密で飼っているが君はこの困難を乗り越えると信じている。彼はいつでも震えているから別にわたしがいなくてさびしいわけでも心配する必要はない。わたしの名はチュウレンジバチでその小さな薔薇に害を与えることはわかっているし君のことだってわたしはきれいな薔薇だと思っているんだ。弟よ、君はとてもとてもとてもとてもとても優秀だから、わたしの期待に完璧に応えることをわたしは知っている。誰かに命令されるのが大好きだということも知っているぞ。わたしの後輩がわたしと彼の顛末について錯乱するかもしれないが気にしないでやってくれ。通常運行だ。わたしと彼はポアロとヘイスティングズでしかないので、君の想像とは全く違う顛末を迎えた結果こうなったが、君はいくらでも陳腐で下衆い勘繰りをするといい、君のような良い子が下衆な勘繰りをして懊悩していると思うと気分がいいよ。ロドニーと仲良くな、ジョーン。
「これ食ったらどうする?」
「わたしに聞くな」
「餃子も食う?」
「金はあるのか」
「なきゃないで。死ぬだけだし」
わたしは彼を殺せなかった。
彼は薔薇ではないから。
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