一、「お前、今、どっちだ?」
また随分と悠長に見逃されつづけていた魂だと――それが、その魂に対する夏野の第一印象だった。それは星見も同じだったらしく、相棒は上司の名を挙げて、驚愕とも感服ともとれる口調で呟いた。
「飛鳥さんって、仕事自体も粘るけど、仕事にかかるまでも長いよね」
全面的に同意した。現世に留まる死者にもそれなりの理由があるはずだ、小さなことでの過干渉は避けたい、――というのが、どうも上司の考えらしい。この組織が全てそうだとは言わないが、少なくとも彼女の率いる第五班の空気はそうだった。
書類を眺め、死亡日と今日の日付とに随分と空白があることをもう一度確認した。死後何日以内に還すべきである、などという規定があるわけではない。死んだ直後に赴くことが多いが、一か月も彷徨った挙句の魂を諭しにかかったこともある。ただ、彼女が現世に留まった死後十日弱という時間が、夏野の短くない経験に照らして長いほうであるという、それだけの話だ。
死んでから時間の経った魂を相手にすることは、この班に所属している以上珍しいことではない。――だからこそ、夏野が現世に赴いて最初にやったことは、対象となる魂がまだ現世に存在するかどうかを確認することだった。
誰も居ないリビングの真ん中に佇む母親を遠目に見て、密かに安堵し、あるいは落胆する。現世に駆けつけたときには既に遅し、という経験とてあるのだ。「葬儀屋」などが出しゃばらずとも、来るべきときが来れば勝手に輪廻に還っていく魂は存在する。仕事が減るかもしれない、という期待がないわけではなかったが、目の前の中年女性は、どうやらその類ではないらしかった。
少なくとも、夏野が現世に来てからの数時間、彼女は存在を続けている。ならば、こちら側で捌くべき死者だ。それを再度認識する。
――そんなに長いこと見るの?
コンビを組みたての頃、相棒はよくそう言って眼を丸くした。現世に降りてもすぐには死者に声を掛けず、しばらく遠目に観察する――夏野にとっては普通のやりかただったが、それが彼女にとってもそうだとは限らないのだ、ということを、そのたびにいちいち実感した。班長からして粘り強さに定評があるのだから、「仕事」にかかる前の観察が多少長かろうと想定の範囲内だろうと思っていたのだが、そういうことでもないらしい。
――書類だけじゃ、な。実際見ないと解んねえことが山ほどあるし。
――夏野らしいっていうのかなぁ、それとも流石飛鳥さんの部下っていうのかなぁ。その発想なかったよ、わたし。
――お前だって第五班員のくせに。
玄関で、扉の閉まる音がした。死者となった母親は、
静まり返った家の中に、死者が三人。
夏野の胸中を見透かしたように、隣に立つ星見が、軽くこちらを見上げてにこりと笑ってみせた。セミロングの髪と黒いカチューシャ。見慣れたはずなのに、随分と久しぶりに見るような気がした。何時間も現世に留まっていると、ふと、自分が生者なのか死者なのか判らなくなる瞬間がある。そんなとき、ブラックスーツを着た紅い眼の相棒の存在は貴重だった。自分は紛れもなく死者であり、「葬儀屋」であるがゆえに現世への滞在を許されている例外なのだということを、否応なく実感させられる。
さ、行こうか。
口には出さない合図の言葉。夏野も少しだけ笑い、こっそりと親指を立てて応じた。繊細になっているはずの死者を刺激しないようにと、交わす合図はいつからか無言になっていた。口は開かなくても、なにかを伝えようとしているタイミングなら、なんとなく判るものだ。
ダイニングテーブルの上に、朝刊と広告が別々に畳まれている。居なくなった母に代わってその仕事をしたのは父だ。全員分の弁当を作ったのは姉だ。朝食の皿を洗ったのは弟だ。母が居なくなっても、残された家族は生を営んでいかなければならない。服喪休暇が明けるというのも、一つの区切りではあるだろう。
日常に返ろうともがく家族を何日も眺めつづけてきた女の横顔に、夏野はようやく呼びかけた。随分と久しぶりに喉を使った。
「仲根さん――仲根涼子さん」
びくりと身体を震わせ、真っ直ぐに振り返る。切れ長の眼が子供たちとそっくりだ、と思った。――さて、果たしてどう見えるだろう。子供たちと同年代の男女が二人、ブラックスーツを着こんでいる姿は。
夏野と星見とを等分に見て、涼子はぼんやりと黙っていた。身体をこちらに向けるでもなく、ただ顔だけで二人を見ている。紅い瞳をした喪服の闖入者を目の当たりにしようと、顔に驚きはない。長い間現世に留まっていた分、その手の覚悟は済んでいるのかもしれなかった。
「気は済みそうですか」
単刀直入に切りこんだのは星見だった。その言葉を聞いて、涼子がふっと視線を逸らす。
「……もう少し、ここに居させてください」
「もう、随分長いこといらしたはずですよ」
疲れたようなか細い声に、星見が笑いながら応じる。もう少しだけ、というその願いが叶ってしまったところで、彼女が余計に魂をすり減らす結果になるのは眼に見えている。涼子は顔を上げ、人懐こい笑顔を眩しそうに見つめた。彼女の娘もたぶん、こんな顔で笑っていたのだろう。大学に入学したばかりの娘は、決心したかのように真っ赤なブラウスを選んで出かけていった。
涼子は眼を細めて夏野を見た。高校生の息子は、しいていつも通りを装うように、イヤホンをはめて出かけていった。面倒臭そうに、それでも律儀に「いってきます」の言葉を残して。
覚悟なら、していたはずだ。身体の弱い妻を、母を持ったときから。あるいは、何度目になるのかも判らない入院が決まったときから。
そしてそれ以上に、涼子自身も覚悟を決めていたはずだ。
「……逝かなきゃ、駄目なんですね」
「もちろん」
深刻な表情にならないように気を遣いながら、夏野も頷く。夏野の言葉を噛みしめるように眼を伏せ、涼子は、そう、と一言呟いた。――逝けば二度と家族の顔を見ることはできない。けれど、もうこの場に残るのも疲れてしまった。そういう顔だった。ならば彼女に必要なのは、現世から引き剥がそうという強制力ではない。板挟みになってはいても、どちらに転がるべきかは彼女自身が解っている。ただ少し、きっかけを掴み損ねているだけで。
ほんの二メートルの距離を詰めようともせずに、一人と二人は向かいあう。表情が見えれば十分だ。近づきすぎると碌なものが見えないものだから。
「覚悟は……していたんでしょう?」
「ええ」
声は小さいが答えは早かった。無理に繕ったような苦笑で、
「死ぬ覚悟はしてましたけど、別れる覚悟は済んでなかったみたい。……変ですね。旦那も子供たちも、なんとか前を向こうって毎日頑張ってくれてるのに。私がこんなじゃ、怒られちゃうわ」
「なら、今日がお葬式ですよ」
言うと、涼子はきょとんとして夏野を見た。深刻さのない問い返しを逃さないように、夏野は軽く笑う。罪のない高校生のような容貌は、こんな仕事のときには有利に働いてくれるものだ。対峙した相手が、勝手に誰かの面影を重ねてくれる。
「生きてる人が、けじめのためにお葬式をするのなら……死んだほうがお葬式をしたって、良いじゃないですか」
せっかくこんな服で来たんですし、と、襟に締めた黒いネクタイを示す。ブラックスーツに黒ネクタイ。男女共通のスーツ姿が、「葬儀屋」の正装だった。
涼子が夏野を見つめている。星見を見つめている。たっぷり時間をとってから、夏野はすっと表情を引き締めた。この瞬間だけ、年月を重ねた重みを遣う。
「だらだらしていても、なにも変わらない。……死んだ側にだって、けじめは必要です」
現世に十日留まろうと、一か月留まろうと、一年、十年が過ぎようと、仲根涼子がこの世を去った事実は変わらない。それなら自分の死をきちんと理解しているうちに、自分の意志でこの世を離れてほしいと――そうさせることは確かに夏野の「任務」であったが、仕事を離れた夏野個人がこの場に居たところで、願うことはたぶん同じだっただろう。
「……けじめ」
「けじめです」
独り言の続きは星見が引き取った。戸惑うような表情をふわりとした微笑で包みこんで、最後の一押しを宣告する。
「もう時間です、仲根涼子さん。……ここに居たって、あなたが辛いだけじゃないですか」
ね、と言って笑いながら首を傾げる様子が、涼子の娘にそっくりだった。たぶんわざとそうしたのだろう、と思う。そのくらいの小技なら、彼女の得意とするところだった。
涼子はひとつ息をついて、肩のこわばりを解いた。そして決心したように一歩を踏み出す。夏野と星見は、示しあわせたように一歩退いて道を開けた。ふらりと二人の間を通りぬけ、母は廊下に出る。和室と洗面所を左右に通りすぎ、扉が開いたままの娘の部屋の前に立つ。きちんと片づけられた部屋の中、文庫本だけが本棚に入りきらずに机を侵食している。それを眺め、そのまま息子の部屋を覗く。片付いているようで少しずつ統一感を欠いた部屋の真ん中に、バスケットボールが転がっている。その傍らになぜかゲーム機が落ちていた。その部屋もあとにして、自分と夫の寝室を眺める。自分の趣味で買った小さなテディベアは、気づけば夫のお気に入りにもなっていた。棚の上に家族写真が数枚、控えめに飾られている。
佇む後ろ姿で、仲根涼子は最後に一言だけ口にした。
「……終わっちゃったのね」
そう、終わったんですよ、なにもかも。
そんな言葉を口に出して告げるほど、野暮な死人ではないつもりだった。たぶんこの場から喪服の二人組が先に消えたところで、いずれ彼女は輪廻へ還る。必要なのは、あと何秒かの時間だけだ。
星見がちらりと見上げてきた。夏野は黙って首を振る。そして再び涼子を見る。星見も倣ってか同じ動きをした。その視線の動きを待ち構えていたかのように、彼女の背中がすっと透ける。
霧が空気に溶けるような、呆気ないほど静かな最期だった。
身体がその向こう側の風景を透かし、やがて輪郭も色彩も溶けて消え失せるまで、夏野は黙って動かずにいた。身体であろうと魂であろうと、死者を送るには相違ないのだ。静かであるに越したことはない。
最後の色を見送ったあと、小さく手を合わせて眼を閉じたその瞬間、――耳慣れた声が真正面から空気を破壊した。
「やーね、あーいうウジウジしたのって。疲れちゃうわ」
思わず眼を開けると、星見が思い切り伸びをしていた。首を左右に傾け大袈裟に溜息をついている。――見慣れない動作と声音。けれどそれはそれで、見覚えのある所作だった。
「だいたい、あんなヒト、こっちからわざわざ来なくったって、放っときゃ勝手に還ったわよ。そう思わない?」
「お前、今、どっちだ?」
合わせた手を解いて、夏野は相棒に問うた。わざと曖昧な問いを選んだこともお見通し、と言わんばかりの不敵な笑みで、彼女はこちらを見る。その表情で直感した。
「月見よ、夏野クン」
名乗りをあげられて、夏野は露骨に溜息をつく。――折角の雰囲気が台無しだ。そう嘆く一方で、いま星見はどこに居るのだろう、と漠とした不安を抱える。
「……突拍子もなく出てくるのやめろよな」
「あら、あたしには冷たいのね」
「いつからお前だったんだ」
「ついさっきよ。突拍子もなく出てきてみたの」
「星見は知らねえんだろ」
言うと彼女は、痛いところを突かれたと言わんばかりに舌を出してみせた。ただわざとらしく両腕を広げているところを見ると、それも演技のうちなのだろう。星見の姿にそんな仕草は似合わない、と思ったが、だからどうなるというわけでもない。それ以上に、馴染みの相棒が突然別人の手で変貌を遂げてしまうというのは、あまり気分の良いものではなかった。
「そろそろ話さなきゃな、とは思うんだけど巧くいかなくってね。ちょっと間違うとあたしが出てきちゃうの」
「だからってタイミングがおかしいだろ。仕事中に話してどうすんだ」
「カタいこと言わないでよ」
声が苛立ちを含んでいる自覚はある。そして、相手もそれを知っていて面白がっているのだということも解っている。けれど、だから感情のコントロールまで巧くできるかというと、それは別の問題だ。なぜこういうところは外見年齢相応なのだろう――と、何度嘆いたか知れない。彼女が出てくると、調子が思いきり狂わされる。
月見は星見の顔で笑った。
「あたしだって、愚痴のひとつやふたつ、口を遣って喋りたいもの。……さ、帰りましょうよ」
彼女が音もなくすり寄ってきて、夏野の腕をとる。心なしか、ひんやりと冷たい。夏野は抵抗する気力を失くした。
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