三、「厄介なんでしょ」
内線が鳴って、反射的に手を伸ばした。しかし星見のほうが僅かに速かったらしい。攫われていく受話器を眼で追うと、相棒がにっこりと笑ってピースサインを向けてきた。夏野も軽く両手を挙げる。降参、だ。魂の身としては星見のほうが若いのだから。反射神経の問題なら、不利なのはむしろ夏野である。
「星見です。……え、夏野ですか? 居ますよ」
ピースサインを向けたまま、星見は軽く眼を見開いた。夏野が瞬きで応じると、彼女はぽすんと右手を膝の上に戻す。視線が宙を彷徨っている。
「え? ……あ、はい、解りました。すぐ行きます」
失礼します、と結んで、受話器を置く。そしてしばらくそれを眺めていた。相変わらず顔に出るタイプだな、と思いながら、明らかに戸惑っている様子の彼女に声をかけた。
「誰から?」
「え? ああ」
かぱりと振り向いてから、星見は、飛鳥さんだったよ、と班長の名を挙げて首を傾げた。
「夏野と一緒に、今から部屋においでって。なんだろう」
答える代わりに、夏野はふとデスクを見た。捌き終えた死者たちの書類が、ちょうどデスクの境に積まれている。積まれた書類は十人分。飛鳥から一度に請ける仕事の数と同じだった。
「グッドタイミング。新しい仕事かな」
夏野の視線をなぞった星見が呟いた。その程度の感想しか抱いていないわけではないだろう、ということは、彼女に向けた片耳だけでも解る。たぶん彼女も、夏野と似たり寄ったりの深読みに嵌まっているはずだ。
どんな死者を振られたところで、十人も束になって集まれば、捌くペースに大差は出ない。となれば、夏野と星見の二人がこの死者たちを送り終えるタイミングを計ることは、難しいことではない――だが、その程度のことで、班長が部下に内線など掛けるものだろうか。仕事は班員自ら執務室へ取りにいくものであって、班長の呼び出しを待って受け取るものではない。
かといって、と、視線を斜めに上げる。
仕事と関係ない用事で呼ばれたものとは余計に思えない。それこそ、そんなに暇ではない役職なのだ。班長が班員を、しかも組の二人を揃って呼び出すというのだから、仕事の話に決まっている。
あるなら、なにか面倒事だろうと確信した。放っておけばそう遠くない未来に来る二人組を、わざわざ内線を使って足を向けさせているのだから。仕事を終えたタイミングと重なったのはただの偶然だろう、と結論づけて、夏野は書類の山を
「変な仕事じゃないと良いね」
夏野の懸念を見透かしたように、星見が苦笑して呟いた。面倒事だったとしても気負いすぎだろうか、と夏野も苦笑を返しながら立ち上がる。書類を小脇に抱えることは忘れなかった。杞憂で済ませることができればなによりだ。
「とりあえず、行ってみっか」
班室を横切った先の扉が、執務室に続くそれだった。夏野がその正面に立ち、少しずれた隣に星見が立つ。――面倒事といって真っ先に浮かぶのは月見の存在だった。大仰なほど緊張しているのは、そのせいかもしれない。隣に居る相棒が確かに星見の顔をしていることを確認して、無理に自分を安心させた。
躊躇ったら負けだ。意味のない呼吸をひとつして、夏野は扉を正確に三度ノックした。
はい、と、聞き慣れた声とともに扉を開けたのは夕凪だった。こちらの姿を認めるや否や、班長の相棒は紅い眼を瞬かせる。
「早かったのね」
「班長直々の呼び出しですからね」
「あなたがそんなに真面目だったとはね。――飛鳥さーん、二人とも来ましたよー」
笑いながら振り返った後頭部でポニーテールが揺れる。デスクに積まれた書類の奥で、部屋の主が動く気配がした。黒い癖っ毛が肩の辺りで跳ねているのを、散らかったデスクの陰に見る。はいはい、と笑みを含んだ応答が聞こえた。
促されて、夏野と星見はソファに腰かけた。夕凪がどこからともなく書類を一部取り出し、夏野に手渡す。無駄のない動作だった。何気なく紙の束に眼を落とし、学生服に身を包んだ少年の顔と名前だけを反射的に確認する――寺西稔。否、正確にはそれより早く飛びこんできていた赤い印があったが、そちらは意識的に無視していた。なるほど、そういうことか――。ピースがすとんと嵌まる。理屈なしで奇妙に落ち着き、ソファに深く身を沈めた。先が読めてしまえば、先刻までの緊張感は嘘のように凪いでいった。
夕凪が星見の正面に座り、間をおかずに飛鳥が夏野の前に腰を下ろした。母親のような人だと、彼女の顔を見るたびに思う。もっとも夏野の母親役を務めるには、彼女はいささか若すぎる。外見年齢でいうなら、歳の離れた星見の姉といった風情だろうか。
「悪いわね、突然呼び出したりして」
「いえ」
「できれば早めに、二人揃って聞いといてもらいたかったから。……ナギから書類渡してたかしら、ナツ?」
「ええ、ついさっき。……これは、そういうこと、っていうことで良いんですか」
「そうね、そういうこと」
婉曲な問いに、飛鳥が鷹揚に笑う。
事情を呑みこめずにいるはずの星見に、夏野はそっと書類を手渡した。受け取る手は案外落ち着いている。これが年の功というやつだろうか。そんなことを本人に言ったら平手打ちにされるだろうけれど。
書類に落ちた星見の視線が、一瞬こちらに向いた。事務的な表情の奥を読み取れないわけではなかったが、彼女に倣って事務的に流す。
――始末許可。
赤く捺された印の文字。随分久しぶりに見る判子だと懐かしささえ覚えたが、この文字を見てそんな平和な感想を抱くのは夏野くらいのものだろう。別に麻痺しているわけではない。嫌悪も恐怖もちゃんとあるが、単に慣れただけだ。
「星見のキャリアを考えるとね、そろそろやっておいてもらわないといけないと思ってね。初めてだから、ちゃんと話がしたくて。……わざわざ呼び出しちゃって悪かったわね」
ゆったりと言い、それから視線を星見に滑らせる。その眼差しから、次の言葉を悟った。
「――影って、知ってる?」
現世を彷徨う魂を、在るべき輪廻に還す「葬儀屋」が、ただ一つ、還すことのできない魂がある。感情に凝った魂が、姿かたちも理性も忘れ、ただ喰らうことだけを求める墨色と化した――影。「葬儀屋」が送り損ねた魂は、もはや宥めすかして輪廻へ還すことのできるものではない。
だから。
「始末対象のことですか」
星見はひたと上司を見つめて、答えた。
飛鳥は笑って頷く。よくできました、とでも言いたげな、至極穏やかな表情。始末の二文字がなにを意味しているのか、この場の誰よりも熟知しているはずなのに。
「知ってるなら早いわ。……どっちにしたって、管理局員なら一度は通る道」
斜向かいの夕凪がどこか哀しげな表情をしていることに、夏野は気がついた。それは誰へ向けた感情なのだろう。「始末」へ向かわなければならない星見か。「始末」されなければならない少年か。もしかしたら、後輩を初めての「始末」に連れださなければならない自分に同情してくれているのだろうか。――たぶん全部だろう、と思う。彼女は、いろんな人間と波長を合わせてしまう死人だから。
「星見の得物はなんだったかな」
「……銃です。銀の」
初めて星見が「葬儀屋」としてこの世界に現れたとき、身に帯びていたのは銀色の銃だった。その使い道を話して聞かせたとき、星見は半信半疑の面持ちをしていた。当然だ。通常の仕事に行く前から「例外」の話だけ聞かされても、現実味など欠片もない。
だが今は違う。
「たぶん、使うことになるから覚悟しといてね。……星見」
「はい」
「私たちの仕事は、生死の垣根を守ること。生者は生きている限り死者の世界に触れられないし、死者は死んだ以上生者に影響を及ぼすことは許されない。だから、現世に留まる死者は、丁重に輪廻に還していく。ここまでは良いわね」
淀みない言葉に、星見が微かに頷く。盗み見た表情は硬かった。初めて一緒に仕事に出かけたときと同じ――否、あの緊張感の裏に、今は恐れを滲ませている。凝った恐れを溶かそうとでもいうかのように、飛鳥は穏やかな表情を崩さない。
「言っても聞かない状態になってしまった魂だって、現世から引き剥がさないといけないことには変わりない。……しょうがないのよ。誰かがやらなければならないし、その『誰か』っていうのは、つまり私たちのことなの」
軽く握った拳を胸に置いて、飛鳥はすっと真顔になる。
「どうしようもなくなったら、撃ちなさい。彼はそういう魂よ」
――どうしようもない状況以外を想像できないのは、性格の問題なのだろうか。
班室に戻っても不自然に寡黙なままの相棒を横目に、そんなことを思う。自分のことを棚に上げるとは我ながら
「絶対殺せって言われてるわけじゃねえだろ」
意識的に彼女から眼を逸らしながら、夏野はわざと乱暴な口調を作った。驚いて顔を上げるかと思ったが、案に相違して、こちらを向く仕草はゆるりと落ち着いたスローテンポだった。ただ表情の空白は予想通りだ。なにかを考えているとき、星見はよくこんな顔をする。たぶん、自分をどこか遠い場所に飛ばしてしまって、存分に思考の沼に浸るのだろう。彼女は面白いくらい、顔に出る。
辛うじて、空白から夏野の許に戻ってくる。一拍ずれた微苦笑が顔の上に載ったのが、視界の端に見えた。それを確認してようやく彼女を振り返る。星見が言葉を発したのとちょうど同時だった。
「……解ってるけどね」
「解ってない顔してるぞ」
「そうかなぁ」
「バレバレだっつの」
「夏野こそバレバレだよ」
軽く言い返されて返答に窮した。彼女がそう言う以上は、確かに自分のなにかを見抜いているのだろうと――そう直感する。不出来な弟が姉に向かってそうするように、身構える。
「……なにがだよ」
「厄介なんでしょ」
ごく端的な一言に、夏野は今度こそ黙りこんだ。
――さて、厄介な仕事になる。
飛鳥から仕事を請けたとき、心のどこかはそんな第一声を発していたはずだ。当たり前だ。「始末」絡みの仕事に、厄介でないものなどない。しかも、ただ始末するだけならいざ知らず、影になるかならないかの境界線上に居る魂だ。それでいて、影になる可能性のほうが明らかに高い魂。飛鳥の言葉が、阻止しろ、ではなく、撃て、だったところからも知れようというものだ。相手がどんな死者であろうと、彼が人間であることを存分に知らしめられた上で、それでも影と化せば仕留めなければならない――こちらにとっても負荷が大きいのは目に見えている。厄介な仕事以外の何物でもなかった。せめて完全に影と化したあとであったなら、まだ救いがあったものを。
――厄介な仕事になる。
星見は夏野を見つめている。返事を求めているわけではあるまい。影を始末しなければならない、と言われた時点で、厄介な仕事であるということは既に解りきっているのだ。同義反復をしたところで意味がない。たぶん自分の反応を窺っているのだろうと――自分の反応でこの仕事の難度を測ろうとしているのだろうと想像する。
自分と組んでいるときの星見にこの魂が振られたということは、飛鳥から夏野への信頼の表れだろうか、と無意味に自惚れてもみた。それなら巧く動かねばなるまい。仕留めるべきはきちんと仕留め、支えるべきはきちんと支える。それが今回の夏野に与えられた役割だろう。組織の歯車なら歯車らしく、自分の役割を果たすのが務めというものだ。
年上の相棒を見つめ返して、夏野は疑問文で応じた。
「緊張してるのか」
「……緊張、させられたって感じかな」
星見がごく自然体で苦笑する。
「巧く受け止められなくって。現実味がないの。……夏野はあるんでしょ、撃ったこと」
「いや、俺はないよ」
「え?」
意外、と顔に書いた星見に軽く笑ってみせながら、夏野は抽斗を開けた。中身を見て、星見が眼を丸くする。
「俺は銃じゃなかったんだよ」
――鞘に収まった、二本のナイフ。
「葬儀屋」として二度目の生を受けた死者たちは、一人残らず武器を帯びた姿で形づくられる。大抵は、銀の短銃だ。九割以上と言って良い。しかし残りの一割未満に所属する者は、確かに存在した。
夏野は一割未満の側だった。運命とやらの気まぐれか、組織の悪戯か、いずれにせよ、夏野の得物は銃ではない。
だから――せめて異端であったことを積極的に捉えようと、鉛筆を削りはじめた。刃物は、人が生きるために必要とする道具なのだと。これはヒトゴロシの道具ではないのだと。無茶な作業であることは承知していた。けれど、そうせずにはいられなかった。
「ま、そういうことだよ」
軽く言いきって、ぱたりと抽斗を閉める。形容しがたい視線から逃れるように何気なくデスクを見遣り、そこで眼を留めた。
「……しまった、飛鳥さんに書類渡し忘れた」
上司に報告するだった書類が、そのままの状態で積まれている。確かに、執務室へ持ち込んだはずなのに。振られた仕事に気をとられて、紙の束を渡す暇を逸したらしい。畜生、二度手間か――喉元まで出かかった声を宥めるように、星見が明るく声を上げる。
「良いじゃない。この子捌いて、そのあと一緒に持っていきましょ」
寺西稔。学生服に身を包んだ死者の履歴書。
執拗ないじめに耐えかねて、自室で首を吊った少年の。
ひらりと紙片を示した年上の相棒は、しいていつも通りを装っているように見えた。だが敢えて指摘する気はない。先輩としての判断で、夏野は黙ったまま苦笑した。
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