3話目 甘美な食卓

 Cさんはグルメだった。それも、ちょっと変わった種類の。

 例えば、特上の鰻重うなじゅうを前に、こんなことを考えるのだという。

 澄んだ川をのんびりと泳ぐ鰻。何の不安もない、満ち足りた日々――ふと気が付くと、狭い場所に閉じ込められて、身動きが取れなくなっている。漁師が仕掛けた罠籠わなかごにはまったのだ。

 あれよあれよという間に市場に運ばれ、鰻屋に買われ、生板に乗せられる。

 そして――ぐさぐさっ!

『うぎゃああああああ』

 動きを封じるための串を刺される鰻。想像したこともない激痛に、白目をいて絶叫する鰻――無論、発声器官を持たない鰻に、そんなことができるはずがない。Cさんは分かった上で妄想しているのだ。

『痛い痛い痛いやめてやめて助け――があああああああ』

 ずばああああああ、包丁で腹をかっさばかれ、ぱっくりと体が開かれていくのも、ただ見ていることしかできない。

 燃え盛る炭で火炙ひあぶりにされる頃には、もう殆ど意識はない。何故自分がこんな目に――不条理な運命を呪いながら、鰻の意識は闇に沈んでいく。

 何故、こんな目に遭うかって? 決まってる、全ては自分の舌を楽しませるため。自分には、その権利がある。

 何故なら、自分は神だから。

 お前は、神の食物に過ぎないからだ。

 そんな風に考えると、もうCさんはたまらなくなるという。優越感という名のスパイスが、料理をさらに美味しく見せてくれて。

 仔牛肉のカツレツの場合は、牧場で仲良く寄りう牛の親子を想像する。母牛の乳房に吸い付く仔牛――それを、突然黒い手が引き剥がし、トラックに引きずり込んでしまう。

『ママ、助けて~』

『ああっ、坊や、坊や~』

 屠殺場とさつじょうに閉じ込められる仔牛。周囲からは、先客達のすすり泣きや悲鳴が聞こえてくる。こつんこつん、足音が近づいてくる。ああ、次はきっと自分の番だ――。

 たい活け造りの場合は、そりゃあもう。

『ああ、痛い、苦しい。いっそ殺してくれ~』

 ――と、まあ、食事を一種のSMプレイに見立てていると言えば近いだろうか。あまり良い趣味とは言えないが、別に人に迷惑をかける訳でなし。Cさんは充実したグルメライフを満喫していた。

 そんな彼の心境にちょっとした変化があったのは、ある夢を見たことが切欠だった。

 生々しい夢だった。

 周囲は暗い。寝転がった背中には、ごつごつとした岩の感触。どうやら、洞窟の中らしいが、壁と天井は見えない。どちらを見ても、闇が広がるばかり。洞窟だとしたら、とてつもなく広大だ。

 ずるずると何かを引きるような音と共に、何かが暗闇から現れる。小山程もある毛むくじゃらの腹。その遥か上から自分を見下ろす、蝙蝠こうもりのような顔。そしてねじくれた鈎爪が、呆然と見上げるCさんをひょいと摘まみ上げ――。

 クレバスのような大口に放り込んだ。

 食われたと理解できたのは、一瞬後だった。無理もない、食物連鎖の頂点たる人間には、まずできない経験だ。

 ざぶんと胃液のプールに沈められる。穴という穴から侵入する強酸性のそれが、血管を伝って全身に流れる。内部から溶かされながら、Cさんは感じていた。

 怪物が、美味に胃壁を震わせていることに。

 そう、ただただ純粋に、味のみを味わって。

 そいつは、Cさんを食べ物としか見做みなしていない。彼に人格どころか、命があることすら意識していない。それを悟り、Cさんは戦慄せんりつし――同時に恍惚こうこつとした。

 そうだ、蔑むというのは、まだしも相手にそれを悔しがるだけの知性を認めての行為だ。真の傲慢とは、それすら無視する――怪物の、このような行為を呼ぶのではないか。

 最後に残った自分の頭蓋骨がぷかりと浮かび上がったところで、Cさんは目が覚めた。よくある怪談のように、体に掴まれたあとが残っていたりはしなかった。しかし、彼の価値観はすっかり変わっていた。

 あれだ。あれこそが神の食事。自分は間違っていた。

 それ以来、Cさんは妄想で食材を甚振いたぶるのをやめた。携帯片手に、鼻歌でも歌いながら、ただただ料理の味だけを味わうようになった。あの異形の神も、そんな風に自分を食べていたに違いないから。


 *


「ん? それってつまり、普通の食べ方に落ち着いたってこと? なぁんだ、どこが怖い話なのよ~って言うべきかしら? それとも、神様と同じことを、みんなが普通にしている事実に戦慄すべきなのかしら? ウフフ……」

 フッ――アリスがロウソクの灯を吹き消す。

 残り、97本。


【参考文献】


 クトゥルフ神話カルトブック エイボンの書(新紀元社、C・A・スミス、リン・カーター/著、ロバート・M・プライス/編、坂本 雅之、中山 てい子、立花 圭一/訳) 

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