1話目 海中から見上げた顔
大学生Iさんの故郷は、
戦前までは、丸木舟に地引網、浜に並べられた干物と、それこそ浮世絵のような光景が広がっていたそうだ。さすがに今では、漁船がモーターボートになるなど色々近代化されているが、昔から変わらないものもある。
それが、年に一度の海祭だ。
いつもは穏やかな村が、この日ばかりは
Iさんの番が来たのは、小学生最後の年だった。父のような漁師になることを夢見ていたIさんは、大喜びだった。これで自分も、漁を手伝わせてもらえる。例年以上に、祭の日を楽しみに待った。
そう、本当に楽しみにしていたんだよと、現在のIさんは溜息を
待ちに待った祭の日、真新しい漁師服に身を包んだIさんは、漁師達と共に船に乗り込んだ。その中には、彼の父もいた。息子の晴れ姿に涙ぐんでいたという。
神域の海――沖合の
どん、と背中を押された。
え? と思う間もなく、視界を水泡が覆った。冷たい衝撃、口に流れ込む塩辛さ、切れ切れの情報を繋ぎ合わせ、ようやくIさんは自分が海に落ちたことに気付いた。
当然、Iさんはパニックに
そして、酸素が尽きる前に顔を出そうとした、その時。
Iさんは、確かに見たのだという。
全員、溺れるIさんを助けようともせず、一列に
だらんと肩を落とし、だらしなく口を開き、ガラス玉のような目で、溺れるIさんを見つめている。水の揺らめきに合わせて、ぐにゃぐにゃと
その中には、父もいた。
見たことがなかった、彼らのこんな顔。まるで、知らない人のようだった。
戻れない、あそこには。酸素不足で
気が付くと、診療所のベッドの上だった。
村中の人達が、Iさんを見舞ってくれた。一緒に船に乗っていた、父親や漁師達も。彼らが、海に落ちたIさんを救助したのだという。皆、心から彼を心配し、助かったことを喜んでいる――ようにしか見えなかった。
自分は、なぜ船から落ちたのか。Iさんが恐る恐る聞くと、多分、船が揺れた拍子に転げ落ちたのだろうと言われた。
だから、Iさんは、自分が見た光景こそが幻覚なのだと思うことにした。
しかし、心の奥底には、
結局、Iさんは漁師にはならず、高校進学と共に村を出た。漁師人生の出発点となるはずだった祭が、皮肉にも夢の終わりになってしまったのだ。それから、一度も故郷には戻っていない。
今思えば、やはり、あれは幻覚ではなかったのでは――Iさんは最近、そう思うようになった。というのも、大学の民俗学の講義で、こんな単語を聞いたせいだ。
生贄。
神への供物として、生き物を殺す儀式。太古においては、人間の場合もあった――。
そうだ。故郷の祭で、船に乗せられる子供――あれは、かつては生贄だったのではないか。村人達は我が子を海に沈め、神に
時代は移り、生贄の儀式は成人の儀式へと姿を変え、かつての因習は忘れ去られていった――はずだったが、覚えている者もいたのではないか。
例えば、そう、九つの頭を持つ龍だという、海の神とか。
そいつが父や漁師達を操って、自分を生贄に捧げさせようとしたのかもしれない。
だとしたら、ひどいことするよな、とIさんは悲しげに呟く。自らの手を汚さず、親しい人達の手でやらせようとするなんて。
最近じゃ、思い出の中の親父達は、みんなあの顔になってるよ。その内、自分の顔までああ見えるようになるんじゃないかと思うと、毎朝鏡を見るのが
*
「結局、Iさんは不幸なのかしら、幸運なのかしら――え、幸運な訳ないだろうって? そうね、何も起こらず、何も知らなければ、平穏無事な人生を送れたものね――神様の家畜としての、かもしれないけど。ウフフフ――」
フッ――アリスがロウソクの灯を吹き消す。
残り、99本。
【参考文献】
ラヴクラフト全集1(創元推理文庫、H・P・ラヴクラフト/著、大西 尹明/訳) より『インスマウスの影』
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