1話目 海中から見上げた顔

 大学生Iさんの故郷は、ひなびた漁村だという。

 戦前までは、丸木舟に地引網、浜に並べられた干物と、それこそ浮世絵のような光景が広がっていたそうだ。さすがに今では、漁船がモーターボートになるなど色々近代化されているが、昔から変わらないものもある。

 それが、年に一度の海祭だ。

 いつもは穏やかな村が、この日ばかりはにわかに活気付く。にぎやかな祭囃子はやしが響く中、色鮮やかな大漁旗が風になびき、食卓にご馳走ちそうが並ぶ。クライマックスは、海上で行われる儀式だ。

 祭祀さいし用の白木の船で、海の神――九つの頭を持つ龍神だという――が住む神域の海に入る。船には漁師の他に、幼い子供も乗っている。この子の海の安全を、神に願うためだ。この儀式を終えた子供は、晴れて一人前と認められ、船に乗ることを許されるようになる。言わば、成人への通過儀礼も兼ねていたのだ。

 Iさんの番が来たのは、小学生最後の年だった。父のような漁師になることを夢見ていたIさんは、大喜びだった。これで自分も、漁を手伝わせてもらえる。例年以上に、祭の日を楽しみに待った。

 そう、本当に楽しみにしていたんだよと、現在のIさんは溜息をく。

 待ちに待った祭の日、真新しい漁師服に身を包んだIさんは、漁師達と共に船に乗り込んだ。その中には、彼の父もいた。息子の晴れ姿に涙ぐんでいたという。

 神域の海――沖合の暗礁あんしょう地帯に着くと、漁師達は祝詞のりとを唱えながら、酒樽や米俵などの供物くもつを海に投げ入れ始めた。こうなると、もうIさんにはすることがない。思ったより退屈だなと、少し幻滅したその時。

 どん、と背中を押された。

 え? と思う間もなく、視界を水泡が覆った。冷たい衝撃、口に流れ込む塩辛さ、切れ切れの情報を繋ぎ合わせ、ようやくIさんは自分が海に落ちたことに気付いた。

 当然、Iさんはパニックにおちいった。頭から落ちたせいで、方向感覚が狂い、無意味に水中をぐるぐる回ってしまう。それでも、さすがは漁師志望、泳ぎは達者だ。何とか落ち着きを取り戻し、水面を見定めた。

 そして、酸素が尽きる前に顔を出そうとした、その時。

 Iさんは、確かに見たのだという。

 水面みなも越しに、自分を見下ろしている漁師達を。

 全員、溺れるIさんを助けようともせず、一列に船縁ふなべりに並んでいた。

 だらんと肩を落とし、だらしなく口を開き、ガラス玉のような目で、溺れるIさんを見つめている。水の揺らめきに合わせて、ぐにゃぐにゃとゆがむその顔は、不気味な深海魚のようだった。

 その中には、父もいた。

 見たことがなかった、彼らのこんな顔。まるで、知らない人のようだった。

 戻れない、あそこには。酸素不足で朦朧もうろうとしながら、Iさんは思った。だって、分かってしまったから。自分が、彼らに突き落とされたことに。そして、ごぼりと最後の酸素を吐き出し――。

 気が付くと、診療所のベッドの上だった。

 村中の人達が、Iさんを見舞ってくれた。一緒に船に乗っていた、父親や漁師達も。彼らが、海に落ちたIさんを救助したのだという。皆、心から彼を心配し、助かったことを喜んでいる――ようにしか見えなかった。

 自分は、なぜ船から落ちたのか。Iさんが恐る恐る聞くと、多分、船が揺れた拍子に転げ落ちたのだろうと言われた。

 だから、Iさんは、自分が見た光景こそが幻覚なのだと思うことにした。

 しかし、心の奥底には、ぬぐえぬ恐怖が染み付いていたのだろう。彼は、どうしても船に乗れなくなってしまった。海に出た途端、父や漁師達があの深海魚の顔になって、再び自分を突き落とすのではないかと思えて。

 結局、Iさんは漁師にはならず、高校進学と共に村を出た。漁師人生の出発点となるはずだった祭が、皮肉にも夢の終わりになってしまったのだ。それから、一度も故郷には戻っていない。

 今思えば、やはり、あれは幻覚ではなかったのでは――Iさんは最近、そう思うようになった。というのも、大学の民俗学の講義で、こんな単語を聞いたせいだ。

 生贄。

 神への供物として、生き物を殺す儀式。太古においては、人間の場合もあった――。

 そうだ。故郷の祭で、船に乗せられる子供――あれは、かつては生贄だったのではないか。村人達は我が子を海に沈め、神にささげていたのではないか。

 時代は移り、生贄の儀式は成人の儀式へと姿を変え、かつての因習は忘れ去られていった――はずだったが、覚えている者もいたのではないか。

 例えば、そう、九つの頭を持つ龍だという、海の神とか。

 そいつが父や漁師達を操って、自分を生贄に捧げさせようとしたのかもしれない。

 だとしたら、ひどいことするよな、とIさんは悲しげに呟く。自らの手を汚さず、親しい人達の手でやらせようとするなんて。

 最近じゃ、思い出の中の親父達は、みんなあの顔になってるよ。その内、自分の顔までああ見えるようになるんじゃないかと思うと、毎朝鏡を見るのが憂鬱ゆううつなんだ――。


 *


「結局、Iさんは不幸なのかしら、幸運なのかしら――え、幸運な訳ないだろうって? そうね、何も起こらず、何も知らなければ、平穏無事な人生を送れたものね――神様の家畜としての、かもしれないけど。ウフフフ――」

 フッ――アリスがロウソクの灯を吹き消す。

 残り、99本。


【参考文献】


 ラヴクラフト全集1(創元推理文庫、H・P・ラヴクラフト/著、大西 尹明/訳) より『インスマウスの影』

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