二 世界


 「早く戻っておいでよ、セーガ」


 街の中心から少し外れた場所にある小さな喫茶店で、みなとはひとり語りかけるように呟いた。店の扉には閉店を示す看板が掲げられている。正確には湊の所属するチームが店を貸しきっているのだが、店内に彼以外の姿はない。

 カウンター席に座った湊は宙に手をかざすと、空気を撫でるようにすーっとスライドさせた。手の動きに沿ってホログラムが形成されていく。湊は頬杖をついて、宙に浮かび上がった手のひら程のパネルを面白そうに眺めた。街中を歩いている男の姿に目を細める。


 「もう新しいマスターが来るよ。何で今日みたいな日に出掛けるかなあ。マスターをうまく説得できるのはセーガしかいないんだから。失敗できないって言ったのもセーガだろ?」


 湯気のたつ紅茶に視線を移す。紅い色に、髪を覆うようにしてフードを被る自分の姿が写っていた。一拍考えて手近にある角砂糖をひとつ落としてやる。二重、三重と波紋が広がった。


 「実はさ」


 くるりと返した手のひらに現れたティースプーンを慎重に浸す。カップとスプーンのぶつかるあの音は嫌いだ。


 「セーガがなかなか帰ってこないから、魔法陣が機嫌を損ねちゃったみたいでさ、マスターが迷子になっちゃったんだよねー。困っちゃうよねー。しかも一度目は失敗して、二度目でやっとこ捕まえたんだって。失敗ってなに?オレたちだいぶ嫌われてない?参っちゃうなあ。先が思いやられるよ」


 話すのを止めれば音が消えた。自然と口角が上がり、慌てて口内の粘膜を噛む。必死に笑顔を装うが、傍から見ればどこか歪んでいるかもしれない。


 「マスターは無事か?」


 長く黙っていたパネルから短い返答があった。

 その言葉に、噛みしめていた奥歯からふっと息が漏れる。ああ、努力が無駄になってしまう。そう思い、湊は口元を押さえたが、


 「くっ、そ」


 そう簡単には堪えられなかった。誰もいない店の中に大きな笑い声が響く。


 「あはははっ、ちょ、まって!ははっ、セーガが全然返事してくれないから、オレ、いつまで独り言続けなきゃいけないのかな、とかっ、思って……くっ、ははははは!!」

 「……」


 咎める者のいない店内。唇を噛み締めても込み上げてくるものに涙が絶えず、湊は背を丸めて数秒肩を揺らしていたが、再び大口を開けて笑った。パネルの向こう側の相手、セーガも呆れているのか、もしくは今話しても無駄だと悟ったのか沈黙したままだ。


 「みーなーとー!」


 パタパタと足音を鳴らしながら店の奥からくぐもった声がした。カウンター横の扉が勢いよく開き、湊の笑い声を上塗りするように甲高い声が響き渡る。


 「きゅーけーおわり!かざりつけしようよ!高いところ!手伝って!!」


 スタッフ用休憩室兼、この店の主の住み処に繋がる扉から出てきたのは同じチームのカノン。金髪のツインテールを揺らし、黒いワンピースにエプロンを身につけた彼女は、つい最近11歳の誕生日を祝ったばかりだ。


 「ああ!セーガと話してるの?カノンもするー!セーガセーガ!新しいマスターはまだぁ~?」


 湊の膝の上に体を乗り出し、パネルに向かって叫んだ。湊はまだまだお転婆な少女の頭に手をのせて、なんとか笑いを引っ込めながら言う。


 「あー、そうそう。マスターは広場の近くに飛ばされたみたいだよ。誰が迎えに行く?」

 「えっ、じゃあじゃあ、カノン行く!」

 「準備はしないの?」

 「湊がやっといて!」

 「どうしようかなー」

 「湊サボってたもん」


 湊はおもむろに紅茶のカップを手に取ると、それをカノンの目の前に差し出した。


 「これ入れたのだーれだ」

 「カノン!」

 「オレさ、コーヒーを頼んだはずなんだよねー」

 「だってこっちの方がおいしいもん!」

 「カノンの好みは聞いてなーい」


 カノンはむっと湊を睨み付けると、その手からカップを奪いとった。


 「じゃあカノンが飲むからいい」


 探るようにじっと紅茶を見つめるカノン。彼女が甘い紅茶しか飲めないことを湊は知っていた。カノンの葛藤がありありと頭に浮かびおかしくてたまらないが、ここはじっと我慢して彼女を見守ることに決める。

 カノンがカップに口をつけようとした瞬間、パネルからセーガの静かな声が聞こえた。


 「マスターを見つけた」



***



 空が青い。ふと、知恵はそんなことを思い、同時に眉間にしわを寄せた。紙袋を提げる手に力を込め、呑気な気分になりかけた自分を心の中で律する。

 隣を見ると、知恵よりほんの少し背丈の低い少年がたい焼きを頬張っていた。長い長い階段を抜けた先にある、白い家に囲まれた大きな円形の広場に建つ屋台でもらったものだ。"もらった"というのは文字通りの意味で、少年はお金を払わずにそれを受け取っていた。なぜお金を払わないのか聞いたところ、「お金?そんなのないよ」と平然とした顔で少年は言った。


 「あのおばさんは自分が作ったたい焼きを食べて、喜んでもらいたかったから作ってるだけ。仕事じゃないんだ。お金なんて必要ないでしょ?そこのアイスも雑貨屋も、おれの着てる服もぜーんぶ同じ。この世界にお金はいらない。働くことも、勉強をする必要もない。必要なのは、おれたちの笑顔」


 なんてね。

 少年は無邪気に微笑んでたい焼きにかぶりつく。はふはふと息を吐き、幸せそうな表情が顔いっぱいに広がった。


 「お姉さんも食べればいいのに。おいしいよー」


 そう言いつつ、それほど多くない人波を避け、少年は木陰にあるベンチに腰掛けた。大きく繁った葉が、少年に影を落とす。知恵は少年をせかそうとして言った。


 「ねえ、早く行かないと」

 「大丈夫だよー。いつか帰れるって。お姉さんも座って休んだらいいよ」

 「私は今すぐ帰りたいの」


 しばらくの間、知恵は少年をじっと睨んでいたが、たい焼きを食べ終えた少年が紙袋からふたつ目のたい焼きを取り出したところで、仕方なく隣に座ることにした。


 日陰から見る広場はとても眩しく見える。ついさっきまでは木枯らしの吹く場所にいたのに、今は鮮やかな緑が色濃く繁る木が目の前にある。冬眠でもしていたかのような気分だったが、お腹はすいていなかった。


 「あなたは日本人なの?」


 アイスクリームを食べながら歩いていく親子に目を向けながら問う。おいしいね、明日も来ようね、と声が聞こえた。


 「にほん、じん…」


 少年がたい焼きを持つ手を下ろすのが気配で伝わってくる。見ると、少年は考え込むように足下に視線を落としていた。


 「にほんじん……日本?あ、日本人か」


 少年の反応に、もしかして言葉が通じなかったのかと考えた。ここは異世界だと言っていたことを思い出す。本当にそうだとしたら日本のことなど知るはずもない。

 少年は知恵に向き直ると、「おれ頭悪いんだよね」と眉を下げた。


 「お姉さんは日本から来たんだよね。おれはずっとこの世界にいるから日本人じゃないけど、でも、似てるよね」


 それから少年は、たい焼きのうまさだとか、屋台のおばさんは子持ちだとか、昨日はたい焼きではなく饅頭を売っていただとか。そんな他愛もない話をとうとうと語っていた。知恵はそんな話には興味がなく、それとなしに人を目で追う。

 風が吹き、葉がさざめきあい、形の定まらない雲が流れていた。なぜだか懐かしい気分だった。前にもここに来たことがあっただろうか。広場の中心にある白レンガの噴水をぼんやりと見つめながら思う。白。汚れを知らない白。笑い声の絶えない、幸せに満ちた場所。少年の穏やかな声がやけに心地良かった。

 

 いっそこのままここで――。

 

 チリン、と耳元で鈴の音が聞こえた気がして、知恵はいつの間にか閉じかけていた瞼を持ち上げた。そろそろかな。少年の呟きが耳を掠める。知恵はたい焼きの屋台に近づく一人の男の子に目がいった。さらりとしたブロンドの髪の、大きな荷物を肩にかけた少年だ。知恵は金髪の少年がおばさんと会話するのを眺めて、言った。


 「ねえ、何でみんな日本語で喋ってるの?それにあの字、何で読めるの……?」


 ぼんやりと口にしたその言葉の意味に気付いた瞬間、知恵は勢いよく立ち上がった。屋台に掲げられた看板にある文字は明らかに知らないものだ。だけど、読める。意識するよりも先に完全に理解している。胸の奥に小さなわだかまりができる。いやな感じがした。

 少年が笑う。


 「言ったでしょー?勉強しなくていいって」


 彼の発した言葉に、表情に、何か恐ろしいものをみている気がした。

 そんな知恵を知ってか知らずか、少年はベンチから降りると申し訳なさそうに笑みをつくった。


 「だからさ、一生懸命働いたお金で買ったものを、食べてみたかったんだ」


 少年は知恵の一歩前に進み、前方に腕を伸ばした。「あれ」と言って向かいの通路を指差す。


 「あそこにいる背の高い、スーツを着た人がセーガさんだよ。もうすぐこっちに気付くと思うから」

 「え、と」


 なぜだか思考が追い付かない。考えさせまいとする何かが頭の中に渦を巻くような感覚があった。知恵は急いで少年の指差す方へ目を走らせる。


 「どこ、に……」


 え、と声が零れた。隣にいたはずの少年の姿がない。辺りを見回し、足を数歩踏み出したところで声がした。


 「どこへ行く」


 はっと知恵は顔を上げた。霞がかっていた思考が一気に開ける。目の前には黒髪の少年ではなく、亜麻色の髪をした青年が立っていた。黒のスーツに身を包み、知恵をじっと見下ろしている。愛想笑いもない無機質な表情は、白いこの街には不釣り合いだった。


 「なに?あなたがセーガ?」

 「ああ、そうだ。おまえに頼みがあってここに呼んだ」

 「ちょうど良かった。なら帰る方法を教えて。勝手にこんな場所に連れてこられても困るの」


 皮肉交じりに言うと、表情のないセーガの目じりが微かに上がった。会ったばかりの人に言うことではないと分かっていながらも、一度言葉に任せると、胸の内に抱いた不快な思いには逆らえなかった。ひどく嫌な気分だった。


 「ゲームだか何だか知らないけどあなたのお遊びに付き合うつもりはないし、こんな訳のわからない場所に長居するつもりもない。早く元の場所に帰らせて」

 「……機嫌が悪いのか。生憎だが、今すぐにとはいかない。おまえには俺たちのチームのマスターになってもらう」

 「だから、帰るって言ってるでしょ」

 「マスターになってゲームに勝てば帰してもいい。面倒だろうが、魔女とそう契約している」

 「じゃあその魔女に会わせて」

 「ここからでは少しばかり遠い。……帰るまでの間だけだ、協力してほしい。俺の言葉では信用できないか」

 「思い浮かべれば一瞬でどこへでも行けるって聞いたけど」


 半信半疑で、しかし目はセーガに据えたまま言う。

 セーガは目を細め、瞳を閉じた。


 「ああ、だが」


 再び目を開けた時には完全な無表情に戻っていた。


 「俺はそれをやらない」


 知恵は舌打ちした。何を考えているのか分からない男に。それから、心中に渦巻く嫌悪感に。


 「……ここ、不愉快だから早く帰りたいんだけど」


 不愉快だ。気を張っていなければ、ここにいることに感じる違和感さえも消えてしまいそうで不快でならない。そうなってしまえばもう、戻れないだろう。


 「マスターって、何をすればいいの」


 ――――この世界にのまれる前に。

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