Freedom Kingdom

一 転送


 ふと、視界の端で青い光が揺らめいた。

 日誌を書く手を止め、顔だけをそちらに向ける。木目調のタイルが敷き詰められた床には何もなかった。虫か何かだろうと、大して気に留めなかった。

 シャーペンを握り直し、日直の欄に橋本知恵はしもと ともえと記入する。そして今日の時間割を思い出しながら、出来事をつらつらと並べ立てていった。

 隣では、ぱちん、ぱちん、と一定のリズムが刻まれている。がらりとした教室に虚しく響く乾いた音。

 薄っぺらいプリントをホッチキスで留めながらちらちらと知恵の様子を窺っていた男子生徒は、音を立てるたびに居心地悪そうに何度も足を組み直していた。


 「……」

 「……」


 作業を開始してからというもの一言も発することなく知恵はペンを走らせている。常に唇を引き結び微笑みひとつ浮かべない知恵は、どうにも近寄りがたい印象を周囲に与えていることを自分でもよく分かっていた。隣で不器用にプリントをまとめる男子生徒が、単調で何の面白味もない作業に少しの文句も言い出せずにいることも。

 そこへ彼がこっそり呼んでいたのであろう友人が教室の扉から顔を出した。


 「おーい、終わったー?早く帰ろうぜー」

 「あぁー、いや、まだ……」


 彼は自分の机に散乱するプリントを見て、遠慮がちに知恵を窺う。ばっちりと視線があった。たじろぐ男子生徒をよそに知恵はむっつりとした表情でプリントの山を眺めると、再び日誌に向き直る。


 「どうぞ。好きに帰って」

 「……わりぃ」


 やや冷たさを含んだ言葉に男子生徒はぎこちない動きで帰り支度を整えた。待っている友人と共に教室を出て行く。


 「マジ助かったわぁ。あいつと一緒とかもう耐えらんねぇ」

 「あぁ、あの子いつもすげぇ不機嫌だよな。目つき怖いし」

 「だろ?怖いんだよなぁ。なに考えてんのかわかんねーもん」

 「目で人を殺せそう。てかもう殺してそう」

 「やっべぇ、なにその能力」


 遠くなる笑い声を聞きながら知恵は黙って外を見た。冬の日は短い。いつの間にか転がっていった太陽は月に変わり、もうすっかり暗くなっている。

 早く終わらせてしまおうと思うが数度手が止まる。芯の滑りが悪い。中途半端に切れた黒文字を消し、素早く最後の一行を書きこむ。投げ出されたホッチキスで残りのプリントをまとめ上げ、忘れずに教室の電気を消した。



 「いらっしゃいませー」


 さっさと職員室で用を済ませたあとは、いつもなら立ち寄ることのないパン屋に入った。高校のある道沿いにできた新しい店だ。落ち着きのある雰囲気と店員の親しみやすい接客が早くも評判になっている。

 新しいものに興味があるわけではない知恵は、今夜の夕飯として適当にパンを選び取るとすぐに会計を済ませて扉に手をかけた。ちらほらと見知った学生が目に入るが特に気にすることはない。彼らも一様に彼女と視線を合わせないよう、雑談に励み、品選びに熱中していた。

 カランと扉に取り付けられた鐘が鳴る。一歩外に出ると乾いた風が頬を掠め、癖のある髪がほんの一瞬浮き上がる。忙しなく動く人や車の流れを感慨もなく眺めながら、知恵は首にかけていたヘッドホンを耳に当て直して歩き出した。雑多な喧騒を遮断するように音楽が鼓膜を揺らす中、疲れきった顔をした人々とすれ違う。等間隔に並んだ街路樹も葉を落とし、雑踏にさらされていた。


 小道に入り、家のあるマンションが見えてきた頃だった。古びた外灯がちかちかと瞬き、黄色と黒のコーンバーが見えた。工事の途中らしく、立ち入り禁止の看板の向こうには深い穴が開いている。人ひとり横切るのがギリギリだった。すると突然、眩しい光が知恵を照らし出し、前方から黒いバンがスピードを上げて迫ってきた。工事中の看板が見えていないのか、減速する気配がない。知恵は急ぎ戻ろうとして、足が動かないことに気付いた。地面に凍りついたかのように、膝を曲げることすらできない。


 「……っ!」


 間に合わない。そう思った時、青白い光が足下でふるりと動いた。刹那、それは瞬く間に地面を這うようにして広がり複雑な紋様を浮かび上がらせる。それが何なのか考える余裕はなかった。ヘッドホンから漏れる音が歪なものに変わっていることに気付いた時には、意識が遠のきはじめ、体の自由が利かなくなっていた。


 「ねが、い……?」


 そう聞こえた気がした。



***



 「お姉さーん、起きてー」


 細い路地に少年ののんびりとした声が響く。地面にしゃがみ込んだ少年は、壁にもたれかかるようにして気を失っている知恵から、全く反応が得られないことに首を傾げた。


 「お姉さーん」


 今度は肩に手をかけ、軽く揺さぶるようにして声をかける。すると、小さな呻き声を上げ、頭に手を当てながら知恵が顔を上げた。


 「あ、よかったー。お姉さん気を失ってたんだよ」

 「……」


 屈託のない笑みを浮かべる少年を知恵はぼんやりとした目で見つめ返す。少年は立ち上がり、笑顔のまま知恵に手を差し出した。


 「お姉さんは迷子だから、おれが送ってあげるね。びっくりしてるかもしれないけど、セーガさんたちの所まで行けば大丈夫」


 少年が言い終わらないうちに知恵ははっとして立ち上がった。柔らかい日差しを受け愕然とする。全く見知らぬ土地に立っていた。


 「外国……?」


 鮮やかなほど白い場所だった。家であろう四角い建物は壁も扉も隙間なく真っ白に塗られ汚れひとつ見当たらない。そのこぎれいな白さを一層際立たせるように窓辺には赤やピンク、黄やオレンジといった色とりどりの花が咲く小鉢が行儀よく並べられ、玄関先にも瑞々しい緑が飾られている。そんな建物の連なりに沿うようにしてこれまた白い階段が緩やかにどこまでも続いていた。

 穏やかな風が吹き、窓辺から一枚の花びらが舞う。踊るように空に向かうそれを目で追った。果てしなく青い空が一面に広がっていた。

 呆然と見上げていると、制服の裾を引っ張られる感触があり、知恵は今更ながらそこに少年がいることをはっきりと認識した。


 「大丈夫だよ。行こう」


 笑顔を崩さずに少年は地面に転がったままの知恵の鞄とパン屋の紙袋を拾い上げる。どこまでもおっとりとした様子に普段の知恵なら苛立っていただろうが、今は何故だか自分でも驚くほど気持ちが凪いでいた。


 「お姉さんはさー」


 鞄を渡しながら、少年がその黒目がちな瞳で知恵を見上げる。歳は10歳前後だろうか。知恵よりも少し背が低い。


 「異世界から来たんだよ」

 「……え?」

 「お姉さんにとってはこっちが異世界になるのかなー?ここはね、フリーダム・キングダムって呼ばれてるんだ。天国みたいな、誰もが幸せになれる素敵な楽園。お姉さんはゲームに参加するためにここに来たんだよ」

 「何を言って……」


 それ以上の言葉が出てこなかった。知恵は口をぱくつかせるが、何を言おうとしていたのか思い出せない。


 「お姉さんはセーガさんたちのチームのマスターになるんだよ」


 知恵は一度目を瞬かせると、彼の表情を数秒見つめた。少年は愛想よく目を細めて行儀の良い子犬のように知恵の返答を待っている。


 「……じゃあ、セーガって人のところに案内して」

 「うん。まかせてー」


 知恵から反応が返ってきたことが嬉しいのか、少年は満面の笑みを見せた。抱えていたパン屋の紙袋を知恵に渡して鼻歌を歌いながら歩き出す。

 真っ白な階段をとんとんとリズムよく下りていく少年の後ろに続く。遠くの方の白は爽やかな空を吸い込んだかのように少し青みがかってみえる。途中何度か階段脇にある扉が開き、住人と少年の会話が終わるのを待った。少年は相手が同い年くらいの少女でも、がっしりとした体形のおじさんでも、顔色ひとつ変えることなく同じように接して同じように知恵を紹介した。


 「さっき来たばかりのお姉さん。セーガさんとこのマスターになるんだよー」


 すると白い家の住人はきまって笑顔を浮かべた。大歓迎だよ。また家においでよ。たくさん遊ぼう。そう言って歯を見せて笑った。知恵はそのたびに首を傾げそうになるのを抑えて曖昧に頷く。そして返ってくる満面の笑顔に耐えきれず、視線を逸らすことを繰り返した。そんなことを言われるのは初めてで、気恥ずかしかった。嘘でもお世辞でもないことが伝わってくるのは、なんだか気持ちがいい。


 「お姉さーん」


 少年が一段飛ばしで階段を駆け下りながら知恵を呼ぶ。


 「どこか行きたいところあるー?」


 足を止めた少年の黒い髪がさらりと揺れた。少年はあどけない笑みを浮かべていた。知恵は少年のいる段まで下りながら言う。


 「セーガのところに行くんじゃないの?」

 「うーん。そうなんだけど、そのまえにデートしようかなーって」

 「ここに何があるのか知らないし、よくわからない」

 「なーんでもあるよ。海も山も湖も、お城もタワーも遊園地も。雨が降っているところだって雪が降ってるところだって、好きな場所を思い浮かべれば一瞬で行けちゃう。ここはね、願えばなんだってできちゃうんだ。あっ、お花畑はどうー?」


 おれ夢があってね、と話す少年の黒い瞳と目を合わせて、知恵は身動きを止めた。なにかがこちらへ向かっていた。知恵を捕まえようと物凄いスピードで探している。しかし知恵はその得体の知れないなにかに気付くことができない。ただ立ちすくんだまま、少年を見つめていた。


 『 つ か ま え た 』


 どくん、と大きく心臓が波打つ。知恵は目を見開いた。


 「お姉さん?」

 「あ、私は……」


 ぐらりと視界が揺れる。

 白い壁に白い階段、穏やかな景色。


 


 次から次へと情報が雪崩れ込み、疑問がとめどなく溢れ出してくる。暗がりに瞬く古びた外灯。地面を這う青白い光。何かがすっぽりと抜け落ちている気がしたが、それ以上のことを思い出すことができない。これは夢だろうか。そんなことを考えるが、こんなはっきりとした夢を知恵は知らない。なら本当に異世界なのか。必死で頭を巡らせるが、正体不明の何かが知恵を巻き込んでいることは明白だった。もう目が回りそうだった。何か、確かなものが欲しい。何か、何か。そう願った時、ふんわりと甘い匂いがした。無意識のうちに腕に抱えていた紙袋からだった。芳ばしいパンのかおり。まだほんのりと温かさが残っているのを袋越しに感じた。

 知恵はゆっくりと息を吐き、自分の手のひらを見つめ、ぎゅっと強く握った。絶対に離してはいけない。危うくこの真っ黒な瞳を持つ少年の思うがままに行動しそうになった。ここは何か変だ。必ず元の場所に、自分の住む家に帰らなければいけない。


 「元の場所に帰る。帰らせて」


 少年は困ったような顔も怒ったような顔もしなかった。今までと変わらず微笑み、組んだ両手を上にあげてのんびりと背筋を伸ばす。


 「うーん。セーガさんか魔女さんに頼めばたぶん、帰れるんじゃないかなー。魔女さんもセーガさんのところにいるからすぐ会えるよ」 

 「……魔女って、あだ名?」

 「魔女さんは魔女さんだよ。この世界は魔女を中心に回ってるーとか、魔女が世界を管理してるー、なんて言われてるし帰る方法も知ってるかも。でも、きっとね、帰りたくなくなるよ」


 少年の話を鵜呑みにするわけではなかったが、自分ひとりではどうにもできない。おそらくあの青白い光が原因だろうが、どうやってここに来たのかも定かではない。誰かを頼るよりほかなかった。

 永遠と続くのではないかと思うほど長い階段を下りていく。少年が何も喋らなくなると彼の背中がやけに小さく見えた。きつく言いすぎただろうか。しょんぼりとしているようにも見える。すると少年は少し距離をおいて歩く知恵に何か言いたそうに振り返った。なに?と知恵は目で続きを促す。少年は、遠慮がちに知恵が手に提げている紙袋を指差した。


 「あの、それ、パンだよね?ちょっとだけ食べちゃダメ?」

 「ダメ」


すっぱりと断り、少年の顔を見ないようにして歩き出す。

やはり子どもの戯れ言には付き合っていられない。


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