「変化は反感を買う」は間違いだ。目を覚ませ。
近頃、「正義」というものの今までの描かれ方というのは、目に余るものだったのだといきなり気が付いた。今までは、スカッとするからと目を瞑ってきたものだ。
性的客体とかいう言葉をフェミさんが使って、萌え絵の攻撃を始めた時、私は最初は「一理ある」として擁護する側に居た。その後あまりに偏見がすぎるということで窘める側に回った。別にアンチではない。彼女らに敵意を抱いているわけではない。
性的客体とかいう言葉は、要するに「影響力を考えろ、間違ったイメージを伝播させるな」といった要求だ。それの、主に女性のボディに掛かる専門用語だった。
これは、単一のもののみに掛かって他とは関係しないということはなく、女性のボディ一つのみならず、男性でも社会でも何でもかんでも、同じことは言えるはずだ。BLなどを除外し、萌え絵やアニメなどオタク文化だけに適用しようとしたから盛大に炎上したわけでもある。衣服から食事から何から何まで包括した論なら破綻しなかっただろう。何のことはない、ピューリタニズムだ。
でだ、私はこれを何から何まで包括した論として捉え、改めて「正義」というものの描かれ方を槍玉に挙げてみたのだ。(後にピューリタニズム批判に繋がる)
見事に「影響力を考えろ、間違ったイメージを伝播させるな」が当てはまった。
「変化は反感を買う」? その変化は、誰にとって都合の良い変化なのだ?
例えば、電話は大きく変化した。今やケータイを持ち運ぶのが当たり前だが、かつてケータイが登場した時代に、揶揄はあっても反感や反対運動などが起きたか? 変えたい者だけが順に自己判断で変えていき、誰に強制されもせず、スムーズに台頭は進んでいったはずだ。ケータイ会社の都合で「お願い」があったりしたが、揉めた記憶はないぞ。
動物の殺処分はかなり少なくなって、その影には動物保護の精神で活動する多くの篤志家がいるが、彼らの活動が何か反感を食らったか? 行き過ぎたルール違反の一部が非難を受けていることはあるが、それは根本の野良犬野良猫保護活動自体が批判されているということにはならないだろう。殺処分ゼロへ、のスローガンが何か批判されたか? 今やACジャパンが堂々とCMで訴えるほどには世間の理解を得ている。
穏やかな変化は可能であるし、強制されない変化はおそらく正しいだろうし、誰かに強制されてやる変化はそれはたぶん別の特別な名前が付いているはずだ。
ファシズムに繋がるその手の「強制」が正義を騙って、誰かの陣営にだけ都合良い世界を作り出そうと嘘をまき散らしている。強制である以上は正義などない。正義でもないものを正義ヅラして広めようというのは、それはもう嘘つきだ。例え結果的には誰もに恩恵をもたらすとしても、その変化はファシズム以外の何とも呼べない。
騙された者がまた自分を正義だと誤解して、吐かなくていい嘘を吐いている。
それはたぶん、今まで誤魔化されてきた、「スカッとする正義」の弊害も多分にあるんだと思う。強権的な正義を描いちゃいけないと言いたいわけではない。強権的な正義は何せ気分がいい。圧倒的な差をつけて力ずくで叩きのめす正義はキモチイイ。暴力装置は魅力的なのだ、書き甲斐もある。だから、描くなと言うのではない。
ただ、かつては「多様性がなかった」かな、と気付いたから書いているだけだ。
正義といっても、行使する者は千差万別色々な思考をしているはずだ。皆同じではリアリティもないし、同じようなら書く意味も薄いはずだし、第一、書く側だって千差万別なのだから、色々豊富に取り揃うのが正常ではないか。
そうでなかったところに、社会的な「強制力」が働いていたのだと考えるのが妥当なのだ、売れないからとか、ウケないからとか、そんな理由で糊塗していたが、ようするに「価値観を一色に塗りつぶしていた」仕組みがあった。
スカッとする正義は、少なくとも「善良ではない」のだ。善良な者がこれを行使しようとするなら、葛藤があるなり、騙されているなり、何かあるはずだ。そこを善良かつスカッと正義にすれば、それは嘘になる。そういう嘘を吐けば、そういう嘘が大勢を占めていれば、悪い影響が出るのはむしろ当たり前だ。
善良かつスカッと正義は、真面目に描ける題材ではない。ギャグか、皮肉か、一周回った喜劇か悲劇だろう。何より、多彩な正義の中の一つに過ぎないはずなのだ。
残念ながら、今までに描かれてきた正義は、その周辺は、浅はかだったんだと思わざるを得ない。それが影響を及ぼして「変化は反感を買う」などと恥ずかしげもなく言う輩が山ほど出て来たというのだから、嘆くべきなのか。
何を描いても自由なのだが、「善良かつ強権的正義」などという所構わずダイナマイトを投げて回るようなヒーローのみが認めらるという制約的環境のツケは、所構わずダイナマイトを投げても正義だからいいのだと勘違いした生身のアホウを一部に生み出すことにはなったのかも知れない。
勘違いしてほしくないのだが、私が言いたいのは「影響を考えろ」を支持しろとかいうアホウな案ではない。
一部のアホウに気を遣って、悪影響と思われる事柄を社会から排除していくことは正しいか? それより一部のアホウ自体を排除した方がよほど合理的といえば合理的ではないのか? これを本末転倒というんだよ、昔々から解りきっていたことだ。
言いたいことは、なぜ自然にしていれば発生するのが当然であろう「多様性」が、この件では制約的に抑え込まれてしまっていたのか、という部分の疑問だ。
人は、どうもお祭り騒ぎというか、一つところに集まって神輿を囲む習性があるようだから、ムーブだとかで「ひとつのものを有り難がる」のがネックになっているような気がする。
これからの人は、意識的に多様であるよう律していけるだろうか。
それが鍵になる気がしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます