批評と文化とツイフェミ
https://togetter.com/li/1472220#c7419662
『200223宮台ツイッターゼミ「右か左かよりはまともかクズか――』
ぐお~、読みきれん……(ぼちぼちで読もう、ギブ)
文学と批評はセットだ、という持論の補足しとく。
社会に対して批評が持つ役割というものを紐解けば、何か見えてくるのではないかと思っている。今のところ、作品と批評はセットだろう、という勘があるだけだから。
作品に限らず、「表現という存在への査問機関」という色彩が強いと考えれば、まるで表現への専門性も持たないシロウト判断での批判をかなり食い止められるのだろうし、逆に暴走しそうな表現があれば、その暴力性に対する抑止にもなろう。それは自己批判のアウトソーシング、いや、内輪で問題解決の役割分担というべきか。
例えば、作中、女性差別と受け取られそうな表現が出てくるとしよう。
運動家はそれを直結で女性差別と断ずる意外にない。作品の文化的思想だの隠されたファクターだのを理解しないことが多々在るだろう。問題がない表現のケースで批判が出るのは、相手の運動家に専門知識がないせいだろうし。
ここに自己批判の分析があれば、それを読むことで要らん誤解は解かれるはずだ。
女性差別に類する表現が登場した時には、批評はまず、当該の時代性における価値観から、描写には必然があるかどうかを論理的に分析し、解説するだろう。当時においては当たり前の価値観であり、それを当時を描く際の必要で踏襲しただけであれば、その描写を現代の価値において差別と断じるのは果たしてどうなのか?
【追記(2023/01/31):はい、関連の全ページに貼り付けてくよー。
このフェミニズムの問題は、要点が現状でははっきりしている。
「フェミが持ち出した基準は、フェミという「いち学派」の創作造語でしかない。」
「ギルティの判定を下す基準を、どういう理屈でフェミが主導していいことになるのか。何を根拠にその権利を得ていると言えるのか。」
「フェミ理論の正当性は一切証明されていない。どこに物事の決定権を持てる余地があるのか。」
この三つ。
声の大きい者が、「嘘でも言い続ければ本当になる」を実践しているだけだと言い切れてしまうところが問題の本質を見るに大事な視点。感情以外に補強材料を何も持たないのがフェミニズム理論。理論とは呼べない、ただの主義。それが誰かの権利を制限する法律を制定させようと働きかけていることが一番の問題点。権利と権利の衝突に際し、既存の権利の方が優勢なのをひっくり返そうとして詭弁が用いられているに過ぎない。(不快感情を理由に表現規制を正当化している)
搾取というのは、誰が被害者で、何の苦痛を持ったのか。非実在の存在は文字通り存在していない。すなわち苦痛を感じているのは、表現された対象を見る視聴者の中だけにある想像上の表現対象者であり、その苦痛は視聴者が付与したものである。視聴者が視聴者の内部にコピーして作成した別モノであり、その別対象に、視聴者自身が付与したのである。(表現の再構築)
女性全般だとするなら、その思想は全体主義であることを露呈しているに過ぎない。一つの解釈以外、他を圧殺する弾圧だ。
(面倒になってきたんで、以後決定打を貼り付けて終わらせる。)
追加分がさらに増えたなぁ…
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