宣伝活動の示唆がいっぱい

 日本のフェミ活動は成功といえるのか? たぶん、失敗だ。


 フェミニズムの盛り上がりで女性達が我も我もと声を挙げるようになるのが成功であって、ところが現在は、遠巻きに嫌悪さえ抱いて眺めているばかりになった。まともな反論も出来ない論客たちが各個撃破されていくのを見て諦めムード蔓延だよ。


 これは何がいけなかったかなんて自明のことで、「女性差別」を口実にアタリ屋のようなことばかりしているんだから、どんどん間口を狭く、敷居を高く、参加しにくい状況を自ら作り出しているような状態だからだよね。彼女らは自分が運動を後退させていると気付いていないが。(誰かに唆されたんだろう、きっと)


 ちょうど、なろうで流行りのテンプレ小説とも似通っているんだが、気付けるだろうか。現在の日本フェミの状態が最初だったわけではなく、かつてはもっとカジュアルな運動だったことを思い出して欲しいところだ。ほんの二年か三年で変質してしまったと思うのだ。


 世間でセクハラやパワハラという言葉が取り沙汰されて、ニュースでも扱われるようになり、色んなハラスメントの名前が増えていき、児童虐待やDVなども聞こえるようになって、ニュースがこれらの単語を流さない日がないほどになった、そういう記憶はないだろうか。


 じわじわと、これらの単語が世間に浸透したはずだ。


 これらを総称すると、「フェミニズム運動」になると私は思っているよ。「それまでは常識や寛容や教育などの美名の元、見過ごされたり放置されていた従来制度のシワ寄せ被害」の実態がここ数年で明るみに出ていった時期と認識している。


 従来のしきたりや制度が欠陥を持っている、その修復とかパッチを当ててくれるように、という訴えをする運動ではなかったのか。世間では当たり前と認識しているある事柄は、当たり前と認識してはいけない事柄だと、それを広く、認識自体を改めてもらう為の運動なのだから、在来の既得権益とはぶつかるのが当然だ。その反発こそが既得権益を守りたいが為の保身である、とやらなけりゃいけないはずなのだ。


 テンプレ小説が、従来型の、文学からの流れを汲む正統派小説群とは違った「自由形式」の小説作法だったために、旧世代の小説支持者から激しいバッシングを受けている現状と同じ状況だ。「小説とはこういうもの」という確立されたイメージを刷新しようというのだから、既得権益だけでなく理念上でもぶつかるに決まっている。


「あれはベツモノ、」と旧世代小説支持者にも、完全に割り切ってくれる動きが広まってきているのに、どういうわけだかテンプレ群の支持者の方で「同じだ!」と言い募る者が多いのが妙な具合だと思ったりはするが。事実は事実と認めた方がいいぞ?


「何千冊と読み込んでいるうちに自分でも書いてみたくなって書く」のが従来の文学派小説で、これは批評とセットになっているから体系もしっかりしている。カッチリと従来型の批評が通せるモノがこれに当たるといって過言ではないと思うが。構造や独特なその文法を履修してからでないとなかなか書けないのがこの流派だろう?


 昨今出てきたテンプレ小説やWeb小説以外の、ミステリやホラー、旧型ラノベまではぜんぶこっちに含む、まったくのベツモノだろう?


 なぜ同じとしたいのかよく解らんが……批判封じであるなら悪手だぞ。ベツモノなんだから、同じモノサシでの批判は受け付けなくていいのだから、そういう理屈ですぐ退けられるというのに、なぜいつまでも「同じジャンル」にしがみつくのか。


 個別の比較ではなく、ジャンルという大枠での比較を恐れるのか?


 歴史が違うのだから、そんな比較は無意味だと返せば済む話じゃないか。大元からの、両者の比較による言われ無き批判は止むだろうから、認めた方が楽だと思うけどな。従来小説ということにしておいて、従来でいう「読書をしてます」のポーズを保ちたいが為の見栄だろう、なんて言われるのがオチなんだし。


 フェミニズム運動は、過激派がところ構わず燃やした甲斐あって話題にはなった。


 けど、結果はどうだ? 盛り上がるどころか、意気消沈ってところだ。皆が遠ざけるようになり、主張はまったく広まらないどころか「逆差別を望んでいる」と誤解されただけだ。なぜそうなったかと言えばこちらは簡単な話でしかない。


「実」が伴わなかったからだ。


 小説だって同じだから、他人事とは思わないほうがいい。自身が書いた作品を多くの人に読んでもらいたいと思えば、まず、いの一番に誰もが宣伝を考えるが、それは正しいか?


 それでなくても世の中には暇つぶしの娯楽が溢れていて、今どきは何を作ったってよほどの才能がなきゃ漏れなく凡作にしかならないハードルの高さだよ。そんなことは読者の側だって承知してるから、作品に高望みなどしないでいてくれる。だからと言って胡座を掻く真似をして、文章力など不要だなんてのはあまりに甘えすぎてないか? どれだけ我慢を強いるんだ。


 大した中身もない凡作が、宣伝しただけで多くの人に読まれるわけなんかないだろう。ストーリーは平凡、切り口はありきたり、テーマは聞き飽きたもの、その上文章が問題だらけって……これに時間を割こうと思えるか?


 私が何か間違ったことを言っているなら、聞き流してもらって結構だよ。


 フェミの運動だって同じだよ。せっかく話題になって、対話のテーブルがあちこちに沢山出来たって、そこで開陳する論理がグダグダだったんじゃ呆れられて仕舞いだ。とにかく訴えていけばなんとかなる、なんて甘い考えが通るようなら、マーケティングなんて理論が出てきたりはしないんだよ。その前に商品を充実させろ。


 自分たちの力不足や準備不足を棚に上げて、「お気持ち」が解ってもらえないとか言ったって誰も同情さえしてくれない。


「表現の自由」というものに含まれて、なのに誰もが慣れすぎていて気付かない、その自由さゆえの危険性や攻撃性を取り沙汰して批判したいのだろう?


 それを世間に問うことは良いとしても、規制を叫ぶのは行きすぎだろう。さらに、なぜ危険かの理由、同調圧力を産み出す理屈、煽るような性質の偏在、「表現」そのものが本質的に「力」であるから危険なのだという論理をきちんと組み立てられないから、説得力も何も持てないんだ。表現者に、危険物を扱っているという自覚がない、とか何とか言えばまだいいのに……




 と、いうわけでそろそろ結論。


(チコちゃん風に)

「フェミニズム運動が失速したのは……『実』が伴わないから~。」



追記:

 改革や運動というものは確かに彼女らが言うように、いわゆる「炎上」をさせねば進んでいかないという一面はあると思うよ? 過去、色んな運動は既得権益との闘争なしで語れないわけだしな。宗教ですらそうだろうよ。

 だけど、成功した改革運動ってものは、ちゃんと実が伴っていて、「論破」が出来たからこそだ。確固たる論理も出来上がってないのに、見切り発車で成立したモノなんて共産主義くらいだろ。その共産はどうなったかって、現在なら誰もが歴史で習うと思うけどな。



 これですっきり(自分の中では)片付いた。ようやく執筆に戻れるわ。(笑

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