フェミニズム運動の論理的分解

 フェミニズム運動で、フェミさんたちが批判のジャッジに使っているものが「感情」であろうことはほぼ明白と思う。困ったことに、そうならばいくら規範や自主的ルールを表現側が設けても、その快適にすぐに慣れてしまい、またぞろ新たな不快感を別所に見いだしてしまう恐れが強い。


 厄介なのは、その不快感は決して悪意ではないという点だ。そして、運動としてもそれは不都合ではない。主義的解釈においては常に革新されている状態、という現象でしかないからだ。主義的には矛盾などない。ここをオタク勢は誤解してしまう為に、自ら不利を招いている。つまり、第三者的立場からはオタク勢の身贔屓としか受け止められないケースが多いだろうということだ。


 なまじ感情である点が厄介だ。薬剤のプラシーボ効果とほぼ同じリクツで、その効能は伝播してしまう。人間は影響を受けてしまう性質を持つ。それも、「フィーリング」だけで充分だということは、我々、創作者の方が本当なら身に染みて解っていていいはずだ。創作という分野こそはその中心地だったはずだからだ。この効能の存在を千年以上の長きに渡り、創作こそが人類に承認させ喧伝する役を担ってきたのだ。


 妙に捩れた状況が出来ているような気がしてならなかったが、感情に働きかけるということを肯定するべき立場の者が否定し、直接創造には関わりないはずの者が肯定しているという、立場の逆転が、奇妙さの正体だったのではないかと思う。ゆえに、オタク側の言説は言い逃れとしか映らない。


 さらに拙いことに、現行、法律の構造というものは「揺らぎ」を持たせた条文で作られている。あえて限定的な文言とはせず、解釈に幅を持たせることで形骸化することを防いであるわけだが、これは文字通り「フィーリングで物事を決める」ということを指しているわけだ。そもそもで多数決な民主主義すらがそうだ。


 フェミニズムの思想は、そこを突いている。それでいて、飽くなき破壊の思想だ。ストッパーが存在しない。恐らく、思想に賛同する者も薄々は気付いているのではないかと思う。ポストモダンと同じく、堂々巡りの袋小路思想だ。いや、ポストモダンの後に現れた正統後継かも知れない。つまり、ひたすらに変化だけを肯定し求めていくに適した完璧な思想という位置付けが出来る。超革新派、というべきか。


 恐らくは、世界規模の全体的な閉塞感から、必要性に駆られて生まれたものではないか。今のところ証明しようもなく、勘でしかないが。恐ろしく強力なエンジン搭載だと思う。




 さらにさらに厄介なことに、「プラシーボ」の方は科学的データでもう充分お腹いっぱいってくらい証明され尽くしとるのよな。つまり、「人間はカタチや言論に影響される」ということだ。表現は危険性を孕むと証明されてしまっているようなものではないかと思うのだが、思考を回せばあまりにあらゆる分野、あらゆる現象にまで絡みついていくから、これを証明する手段は途方もないものとなりそうだ。


 ひとつ、現在世界を動かすあらゆるシステムは「揺らぎ」を持たせてある、その要素は「感情」の言い換えに過ぎず、「感情が他者を動かす」効果を継続的に作り出しているのは、「表現」である、という感じに繋がっていくか…?


「社会」を作っているシステムのほぼ全域において、潤滑油に使われているのは「感情」である、という具合か…?


 その中で、「表現」の果たす「社会的役割」は「社会と感情の接続」か。




 む~。……アカン、脳みそが火花飛ばしとる。(笑


 寝るし。ノシ





 ……フェミ的にはさ、……表現の自由って、……たぶん……油漏れ……


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