三人称の厳密なトコ、という記事のPVが多かったんで、ちょい詳しく書き直すわ。(笑

 300PVいってんのに、読み返してみたら解りにくいとか誤解とかあったんで、本編の改訂をした上で、さらに詳しく書き直してみるわ。(笑


 えーとね、三人称と一人称ってのは、ゲーム画面での見え方で例えると解りよいです。「モンハン」とか最近の「ドラクエ」とかの、主人公自身も姿が画面に映っているタイプのゲームね、そのプレイ画面が三人称の捉え方と思ってくだされ。(昔のドラクエは一部一人称なので、例題には向かないのだけど)


 そうそう、アニメや漫画の画面とかもそうだね、あれこそ「誰の心情も書ける神視点」に相当するわけですわ。なので両者を安易に捉えると混乱します。(小説なら違和感満載となりやすい「恣意的な描写の偏り」もさほど気にせず読まれますから)


 で、一人称ってのは「マイクラ」の画面ですだ。せいぜいプレイヤーキャラの腕の一部しか見えていない、あの画面が一人称の視野になります。キャラが動くと、見えている景色の方がぶわんぶわん揺れ動く、というあの画面です。いや~、マイクラで例えるのは秀逸かもしれん、とか思います。(笑


 ほら、作業中に背後から突然何かの音が聞こえて、いきなりHPが減る、それで慌てて周囲を見回して、何が起きたか確認すると、向こうの茂みにスケさんが!みたいなね。あの感覚までがモロに一人称に当たります。(画面酔いとかも有名)


 割と、メディア作品でも一人称相当のものってあんまり見当たらないのでね、主人公の姿が全編に渡って”見えていない”上に、”背景の方が揺れ動く”という条件を満たさねばならないので、視覚メディアにはあんまりないのですが、「マイクラ」はその条件満たします、ハイ。(裸視だとジャイロと慣れで手ブレを感じないだけ)



 さて、漫画やアニメ、映画などなど、視覚メディアでは「恣意的な描写の偏り」があっても、小説ほど読者は違和感を覚えず流す、ということについて解説を入れておきますね。(ご都合で心情が書かれたり書かれなかったり、とかのこと)


 これは、それらのメディアの視聴者は「完全な受動」であるという点が関係していまして、要は「慣れ」です。小説は文字で書き下されるため、読者は思考しながら情景を自身で組み立てるので、その組み立て部品に矛盾や変なトコがあると気付いてしまいやすい、ということですね。


 アニメや映画なんかは立ち止まって吟味する隙を与えず、どんどんストーリーを進めてしまって、要は押し流してしまい、スルーせざるを得ない状況に置いているのだ、ということです。これが「訓練」に値するところで、そういうのに慣れた昨今の視聴者は、スルー能力が高くなっている。多少なら我慢する、というわけです。


 突っ込みどころにいちいち突っ込んで読んでいたら、作品なんかは読んでいられない、とよく言われますが、それこそが”よく訓練された状態”だということですわ。通常は、そこが違和感となり、没入の阻害要因となるといって批判されるわけです。


 この場合は、突っ込みどころを残している作品の方が「瑕疵がある」ということを見抜かれているわけで、訓練された兵士がいくら擁護しようが、それはお前が訓練済みだからだ、と一蹴されてしまうわけですよ。


「面白ければいいんだ、」という暴論への対論となるのは「お前の中ではな、」です。アカデミックな批評と個人の感想とをごっちゃにするな、ということですね。もちろん、そうなれば批評そのものもアカデミックな分析論に晒されねばなりません。


 さて、脱線しましたが、「違和感がある」というのはなぜ生まれてしまうのかという問題を考えます。それは、ルールが統一されていないからだ、ということなんですが、ご都合とか恣意的とか描写が偏っているとかいう言句は詳細にすぎませんからね、元を辿ればぜんぶ「違和感あるよ、」という言葉の内訳になりますわ。


 この言葉は幅広く適用可能の万能用語でして、キャラに対する「こんなヤツぁ居ない、」から「矛盾してる、」から「背景が浮かんでこない。」といった絵面に対してでも使えるし、文体に対して「文章ヘン、」から「誤字脱字、」から「没入できない、」まで何にでも応用可能ですな。まさしく「面白ければいい」の対義語ですが、長年かけてその地位を貶められてきた言葉でもありますな。違和感くらいがなんだ、と。違和感が残っているということは、すなわち、学問で言うところの「ここの解釈に問題が…」というわけで、柔道ならば「指導入りました!」に相応するんですが。


 ですから、そこら辺の認識ある人は、言いはしないながら「面白ければいい」を負け惜しみと捉えるわけです。アカデミックな価値観が人気投票など意に介さないのは周知のことでもありますな。つまり、「違和感」を問題にする読者は、アカデミックな視点での吟味を加えている、ということがこの問題を考える上で重要なのです。


 上記の点を踏まえた上で一人称と三人称を捉えるべき、という問題だったりします、厳密には。よく訓練された読者が大勢を占めるようになった昨今なので、そこらへんをテキトーにやっても問題なく、読者の方でスルーして下さるようになった、というだけの話を、自分の都合の良い方向へねじ曲げてはいけませんな、ということです。その「瑕疵」は「瑕疵」には違いないんです、認めましょう。


 また、中途半端に批評を利用して特定作品のディスりに使うのも止めた方がいいです、厳密な判定でやられるとラノベなど1ジャンルのみでなく、小説全体で9割方の作品が「瑕疵あり」と認定されますんで。



 なので、厳密に捉える一人称と三人称というものは、アカデミックな観点での批評における判断項目の一つ、というのが正解で、娯楽として楽しむ場合には何等関係のない話で、人気がどうこうといった返しはナンセンスだ、という話です。


 もし反論したいなら、その批評自体を取り沙汰して、妥当かどうか批評しなさい、ってんだよ、べらぼうめ。

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