犯罪者に対するディスりは他のディスりと何が違う?
日々、ニュースでは凶悪犯罪ややるせない事件が報道されない日がないってくらいですが、ふと考えてしまったのコトヨ。
私は他人に対する誹謗中傷は、嫌いな人間に対してでも言いたくないし、聞きたくもないです。ただひと言で片づくからで、「○○(人名)が大嫌いだ、」で済ませてしまい、それ以上はもう、その人のことを考えるのさえ拒絶、というタイプ。
嫌いなヤツのことを考える時間が勿体ないし、嫌な感情になるのもご免だし、サクッと思考から追いやってフタをしてしまうということです。見なきゃいい。(笑
なもんで、自分はネガティブなヘイト感情とは遠いトコに居ると自負していました。考えることから拒否なので、ネガティブになりようがないんでね。丸ごと切り捨ててしまえば身軽でいられる、という寸法。
しかし、ふと考えてしまったんですよ。
例えば、思い出しても胸クソの悪い「女子高生コンクリート詰め殺人」とか、「スーパーフリー事件」とか? 犯人達にまったく同情の余地がない事件ってたまにあるじゃないですか、思い出すとハラワタが煮えかえるような事件もチラホラと。
んで、反省のなさそうな件の犯人に、いかにすれば自分のしたことを真剣に悔いるのか、そのためにはどんな手段で苦しめれば、我が身として被害者に思い至れるのか、そういうことを考えてしまうわけですよ、上記のような胸クソ悪い事件が起きるたびに。
肉体的な拷問などでは被害者への懺悔に結びつかないに決まっているから、もっと精神的な苦痛でしか反省など引き出せないから、死刑を目の前にぶら下げて、毎日、毎日、明日は自分か、明日は自分か、と、死の恐怖と闘わせる、その期間は長ければ長いほどいい、決まっていない方がいい、不意打ちでいつ来るか解らない方がいい、いつ司法書類に判が押されるか、その恐怖を味わうことで、被害者のことも……
こういうことを考えるのは割と罪悪感もなく、ネガティブとも思わずやっちゃってるわけですわ。だって反省させるための方策だもの。無期懲役で反省するなら、死刑廃止でも構いませんわ、本当に反省すると確信できたならね。死刑をぶら下げることで人が変わったという実例は幾らでもあるけど、無期懲役で変わったという話はとんと聞かないもんでね。
もともと死というものをあまり特別と思っていないせいもあるんでしょうな、輪廻論者の悪いトコかも知れませんな。しかしまぁ、気付いてしまったわけですよ。
私は、相手が救いようのない犯罪者であるなら、残虐な嗜虐心を発揮する、と。
で、思ったんですよ。これって、人間は言い訳があれば残虐になれるってことの実体験だなぁ、と。こういう心の動きなのだな、と理解したわけです。例の刑務所実験は正しいと支持しますわ。
凶悪犯罪に至る人間と、そうでない普通の人間。その差は、きっと、こういうことですな。残虐性を発揮するためのボーダーをどこに設けているかの差。言い換えれば、無抵抗の他人を殴るのに、どれだけのハードルがあるのか、ということ?
凶悪犯罪者となるような人は、無抵抗の他人を殴るのにかかるハードルが恐ろしく低いんだろうな、と思ったのでした。それはまた、自己肯定感とはあまり関係がないような気がしたのでした。(関係あるってよく言われるけどね…)
むしろ、対人スキルに関連するんじゃね?とか思ったりたり。
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