読みやすい文章 ≠ 褒め言葉 (その1)

 ずいぶん間が開いてしまいましたが、本題を書かせていただきましょうか。


 昔、講評グループに属していて、他人の作品をいつもの調子でボロカスに言って、自分の作品にもボロカス言われる、という活動をしておりました頃。(盛ってます)


 その時に、なんかの拍子で「読みやすい文章と言われたことはある」ということを言ったところ、某氏にこう返されたわけですわ、「読みやすい文章は褒め言葉じゃないよ?」と。他に褒めるトコがないから、取り立てて上手いわけでもないけど無難に読めはする文章だけは褒めてみた、ということだ、と。この「無難に読める」のレベルでさえ、とても低い見積もりなのだという点を勘違いしてたんですよね。


 今でこそ社交辞令でしかないんじゃないかと思いますこの言葉ですが、当時は、本当に文章そのものに難があって、手紙として読んでも解読不能な文章というのはゴロゴロしとったわけです。「てにをは」からがおかしくて、スルスル読めないってね。


 で、当時、「読みやすい文章」というレベルは、てにをはが正しく使えていますよ、程度の意味でしかなかったってことを言われたわけです。プロで通用する文章ですよ、という意味に取り違えてしまうことを想定した上で、場を濁すのに便利に使われていた叙述トリックですわな。(笑


 本気で信じていたりするとアレなんで教えてくれた、というワケです。


 しかし、実際のトコ、通常のお手紙レベルでスルスル読めるようには書けるって、これはこれで大変なことであって、一種の才能が関与しているだろうとは思います。


 実際に「てにをは」レベルで難がある人の指導をやってみたことがありましたが、本当に大変だったんでねぇ。あれって、感性が違うのではないかと思いますわ。その感性の違いっていうのは立派な武器なので、マジで指導したんですが本当に大変でした。なんせこっちも指導が必要なレベルであって、資格が足りてなかったんで。


 話し言葉ってのは、阿吽の省略が入った言語でして、かなり記号暗号的なやりとりで話が通じているものなのに、そこを勘違いしている部分があったりするわけです。

 リライトなんかの現場ではよく言われるコトらしいんですが、喋りでの会話をそのまんま文章に起こしても、ちゃんとした文章にならない、てな辺りのことが関係します。話している当人同士は分かってる部分は端折ってるわけです。


 関西のお笑い話で有名な、「なんや」で会話が成り立つとかの、アレです。


 これって実は文章にも言えてしまうことで、文化圏とでもいうべき界隈であれば、そこの住民同士ならば省略形で書いても通じちゃうってのを頭に入れとかないとなのですわ。

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