壁を突き抜ける瞬間(あるいは努力出来るという才能)

 人それぞれで感性が違い、好みが違うというだけ、の結論ではあるけども。だけども、「ピカソ」の絵がぜんぜん解らなかった人でも、勉強して、経験を積み、多くの絵画に触れまくって、その解説の確かなトコを吸収し続けると、なんでかね、そう、


 突然に「ピカソ」が解る日が来るのが不思議。(それが俗に言う「教養」ね)


 そうでなきゃ、今、ピカソにあの値段は付かないんだよね、リクツで言っても。また、生前にはまったく認められることなく死んだ「ゴッホ」は現代ではあの値段ですが、あの値段は金持ちが道楽で付けたわけじゃないんだよね。


 そこで思うのが、本当は解っていないのに知ったかで解ったフリをしているのか、やっぱりある時点でいきなり境界突破が起きて解るようになるのか、どっちなのかという問題ですよ。


 マラソンランナーなら、ある時点の境界突破でランナーズハイが起きて限界突破で、とかもあるし、スポーツなら努力していくうちに突然訪れる「突き抜ける瞬間」というものを経験した人って割と多いと思うのだ。


 スポーツ界隈にあるソレが、芸事の界隈にだってあるのはちょいちょいそういうニュアンスが話題の中に出てくるから解る。だったら、おそらくは何事に置いても突然に現れる「壁を越える瞬間」はあると考えていいような気がする。


 人間、たかだか人生100年そこらしか時間を与えられてはいないわけで、何でもかんでもは限界突破を行えないわけで、オリンピックに出る選手とかプロのスポーツマンとかが割と他の方面に疎かったりするのは、ようは時間の分散をせずにこの「壁」を超える方面にだけ集中したという結果だとも思うわけです。


 私は「嫌なこと言い」なので、人間は皆平等に出来てるだの、善人は報われるだの、バチなんか当たらないだのの、無責任な理想論など言いたくないのだね。だから才能はあるだろうし、才能があっても運がなければ腐るだろうし、才能も運もあったって失敗するヤツは失敗する、その原因はなんだろう?と思うのですわ。


 で、才能、運、環境まで揃ってたって、努力が伴わなきゃ、それも方向性がピタリと合った上での血の滲むよーな努力が揃わなきゃ、ビンゴにはならないんじゃないかなぁという具合に思うようになったわけです。


 努力の方向性が合っていたら、努力の先に正解の鐘がピンポーンと鳴って、限界突破のあの感覚がやってくる、という感じでしょうか。あの突然の、あの世界が変わる瞬間、いや、自分の目玉とか認知する脳みそが変化する瞬間というか。


 スポーツやった人なら解るだろうあの感覚は、芸事でもあるあるで、絵を描く人だったら、突然に理解が訪れるあの感覚はむしろお馴染みだと思うのです。そうやってコツコツコツコツとレベルアップを繰り返すことが「上達」という現象ならば。


 それは、小説を読む、書くでも、同じように訪れるわけです。だから、経験はレベルアップに直結し、その経験の中身もまた重要だという関連は正しい。そう思うです。


 パルクールじゃないんだから、例えば書物で、いきなり哲学の難しいトコやったってチンプンカンプンで、それを表面的になぞり読みして読んだと言い張ったって、あの感覚は表れてこない、それは足踏みでしかない、という話ですかね。だから、読書歴は教養に直結はしないという現象にも通じるというか。



 嗚呼。何冊も何冊も、読んだはずの日々は、己の目が節穴であったばかりに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る