自分の書きたいものを書く、のその次

 小説を書き始めた最初の頃、読者に読んでほしいと思っていたかどうだったか、と考えていくと、あんまり思ってなかったなと。


 同人誌作っても、オフセット印刷で本にするっていうその行動がなんとなくステイタスで、その体験をお金出して買っていたような感じで。だから、売るにしてもコミケに参加するっていう体験が大事で、売ることそのものは面倒くさいとしか思ってなかったなぁと。読者が居てくれることはすごく嬉しかったけど、自分で宣伝して読者になってもらうということは大して価値があるとは思えなかった。

 書いていれば自然に自分の作品を好きだと言ってくれる人が出てきて、そういう人たちと繋がっていられることは楽しくて大事だと思ったけど、わざわざこっちから繋がってくださいとお願いするのは違うと思ってた。


 作るのは好きだけど、それを認めてもらうための努力?それは面倒でしかなかった。読者を喜ばせたいという気持ちはあったけど、読者になってもらうための努力なんてのは、ただただ面倒でしかなかった。


 小説の書き方の講座みたいのを何度もカタチを変えて書いているのも、なんだか違うというこの違和感がずっと拭いきれないからだ。読者のニーズとか、流行りとか、本当はそんなものどうでもよくて、自分が書きたいものを書きたいように書いて、それをたまたま見た人の中から、気に入ったという人が出てきて、だけど根本的には誰かの為に書くなんてのはナンセンスなんだ、て、それを解った上で今度は読者を巻き込んだ創作というものの意義を考えているわけよ。


 自分の書きたいモンを書く、はもう卒業したから、次なんだ、次。


 世界には自分しかなかった、この一次元の世界を突破した次には、他者がいる世界があったんだよ。そこで「書く」というのはどう変わるのかを追求してる。





 今、嵌まってるのは、語尾がぜんぶ「た」で終わる文体。(笑

 だった。だ。なのだ。とにかく地の文を限りなく「た」で占める。それでも読んでいて心地よさが損なわれないように注意する。そのためにセンテンスを長く取る、という逆説的なことになっていて、それが最近は楽しいと感じている。


 これの次にはわざとネジレ文を羅列していって、読み心地が奇妙に歪んで安定感のない小説ってのにも挑戦してみたいなぁ。絶妙なバランスで、読み心地の良さを保った上で奇妙なネジレが精神に作用する、みたいなトコを。


 結局のところ、私は今でも自分の書きたいものを書きたいようにしか書いていない。他者が居ると気付いたからとて、やることそのものは何も変わらない。

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