自己中主義を正当化する現代思想

 善意とか正義とか、あるいは合理性とか理論的とか。そういうものは、一番外の枠そのものが間違っていて、ひっくり返るケースが多々あるという話をしたい。


 人は、集団を形成する際に、これはもう根源的問題なんだけども「自分を中心にした解釈」で何でもかんでもやらかすように出来ている。理屈とか道理とかは、実は非常に自己中なシステムの上に成立するので、もったいぶったり、キレイごとだったりの言葉も、たいがいは裏側に発言者の利益が見え隠れする。


 世界を理解するに、自分を中心におく「我思う、」があるから、それは仕方ないのだ。世界の中心は自分であると告白する思想が、現代思想の土台だ。(他人の心の本当のところが見えないよーに出来ているのだから仕方ない)


 だから、人が集団を形成する際には、その大きな原動力とは「自己がいかに居心地の良い空間に出来るか、」になる。家族でも恋人でも親子でもだ。


 例えば子供に対してあれこれを言うのは、子を育てる自分に、あるいは近くにいる自分にも少なからず影響があるせいで、決して子供のためばかりとは言えないところに真実がある。そこんとこで嘘を吐くから、穴だらけの中途半端な理屈になる。

 人の思考は常に、まず自分から対処して外へと向けられていくしかないのだ。それゆえに「我思う、」で自己が真っ先に表出する。


 我思う、は自己中心の思想なのだ。


 しかしながら、人間というのは時に理に合わぬことをする生き物だ。いや、生物全般が理に合わぬことをするのは知られている。なぜにそんなメカニズムが付与されているのか、という点が重要だ。

 幼い子と一緒で、子を置いていけば助かるのに、子はまた産めるのに、自分を犠牲にしたりするわけだ。これは道理に合わない行動だ。子が残っても今後を生き残れる率は低かろうくらいは誰でも計算できる。


 だが、実はこれは理に合っているんだよ。打算でいえば間違った行為だが、もっと大きな人類全般という「我思う、」に照らせば、個人を超越して正しいことになる。


 これが無償の愛というものの正体になる。


 非常に理性的で高度な思想に従った行動だから、ちょっと考えただけでは理に合わぬように見えてしまう。外側から数えたほうが早い枠の仕組みに相当するメカニズムに沿っているからだ。


「子供は愛だの恋だのうつつ抜かしてないで勉強しろ、」もこの類いなのだけど、それを説明できない親が多いのだ、高度ゆえに。高度というか面倒ゆえに。

 昔から言われている言葉の変形にすぎないんだ、これらの言葉は。


「まずは自分のことをしっかりとやれるようになれ、他人のことはそれから構え。」


 これ。昔はふつうに多くの親が当たり前に言っていたのに、いつのまにか、「人の為に生きましょう、」などという本末転倒なキレイごとのせいで憚られてしまうようになったのだ。表面だけの綺麗事だと気付こう。


 皆が他人を優先するようになったら、自己中なごく一部の者は大変得なのである。


 まず自分をしっかり作っていないヤツが、そんなスカスカの中身で何ほどのことが出来ると思うの? 他人のことよりまず自分のことで、やるべきことをちゃんと出来るようになってから、それから他人の為に何が出来るかを考えるのが本当の道理だ。


「脳みそ通してから言葉を喋れよ?」


 これは、自分がそれをいうに資格があるかどうかをまず自問してから問え、とか、国を批判するなら自国をまず鑑みろとか、まずは天秤を引っ張り出す習慣を付けていくといいと思います。ただ考えろと言われたって解からないからね。比較は大事だ、というのはソコです。

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