②じゃなくて「純文学」と「ラノベ」の違い

 ちょっと話が飛ぶんじゃよ。



 純文学とラノベの違いかぁ。難しいトコロを突いてくるなぁ、というのが第一の感想。ですかね。


 なんというか、範囲がはっきりしないのだわな、両者とも。純文学でござい、と言いつつ、敬愛する蓮寛先生などには「フザケンナ」と斬って棄てらるよーな作品もゴマンとあるわけなんでね。評価する人によっても、価値観の違いによっても、範囲が変わってしまうから仕方ないんだけども、それぞれの選者が除外にする作品ってのはゴマンとあるわけよ、純文学と銘打たれていたところでな。見る目がない奴らが認めただけの間違ってカテゴライズされたに過ぎない作品、というのがある。それらを入れてしまうと論もへったくれもないのだ☆


 アレだわ、ひと口で言うと、白黒キッチリとは分けられない問題ってやつね。


 つまり、純文学とレッテル貼ってあっても純文学じゃない作品もあるし、ラノベのレッテル貼ってあるけどこれ純文だろて作品だってあると思うのだ。


 ただ、カテゴリを一緒くたに雑語りすんな、というだけの話でしょ。


 純文学に届かない純文学作品もあるということと、ラノベの中にも純文学と冠していいような作品もあるということとは、そのまま両ジャンルが等しいということにはならないでしょ。これって算数の集合とかの授業で習うよね、確かね。


 なんかさー、何が何でもラノベを純文学に並べたいのだなぁ、としか思わんの。それ、ただ劣等感抱いてるだけでしょ、高尚とか低俗とかの単語でムカつくんでしょ。


 なんで嫌なのさ? 純文学の方が上等だ、高尚だ、というのの何が気に食わんの?


 純文学と大衆文芸で対になってて、純文学はそういう高尚さを追求するジャンルでしょ、そういう姿勢で書いたわけじゃないなら全部大衆文芸ってだけじゃん。その中にたまたま突然変異的な感じにひょっこりと、純文学にカテゴライズしてもおかしくないよーな作品が生まれたりするってだけじゃん。


 純文学のつもりで書いてても届いてないって作品も多いと言ってるじゃないよ。そういう部分にこだわって書いたわけじゃない作品をそういうモノサシで測る意味なんてないでしょ。そういう部分にこだわって書いた作品だけが、高尚かどうかで吟味されてるだけよ、別世界の出来事でしかないよ。なんで違う世界なのに気にすんのかなぁと思うよ。カードゲームやってるテーブルが幾つかあって、そのうちの一つのテーブルってくらいのことなのよ。違うテーブルで他のテーブルを紹介したりする時に比較解説してるだけで、向こうは高尚さとか基準にしてないけどこっちは入ってるからね、みたいなことを言うと、目を吊り上げて怒るんだわ。事実だろ、て。そんで、基準には入ってんだけど届かない作品も多いよ、とも言っているわけだよ。


 よく、何と戦っているの?と聞かれるわけだが、こっちが聞きたいよ。あなた方こそ何と戦っているのさ? 偏見? 差別? 事実しか言ってないよ。(笑



 なんかさー、「人はみな平等なのです」とか「差別反対!」とかさ、それが一周回って、小学校の駆けっこで皆で手ぇ繋いで一緒にゴールするバカバカしさを感じる。


 凄い作品ってのは本気で凄いのよ。多くの評論家が喧々諤々するくらいには凄いのよ。世の中にピンキリなんてのは当たり前のことだろうに、なんとしても認めたくない、そのバカさ加減にげんなりだ、と思うの。


 ピカソのあの何億の絵画と子供のラクガキは同等にはならんだろ、それくらいのことが解からんヤツが多すぎると思うのよ。


 一生懸命書こうが、凡人が何万人支持しようが、天才の傑作と同格になるとか思うなよ。そういや、映画の「アマデウス」はそれが一つのテーマだったが今は通じないらしいね。「バックトゥザフューチャー」にもあったし、昔の創作物はよく皮肉でそういうシーンが描かれたもんだけども。『平等』ってのを履き違えたヤツとか意見ってのは、昔から存在してそれを揶揄する表現は割とあったよねぇ。


 モーツァルトは「早すぎた天才」として描かれたわけでさ、サリエリはその才能を解かるだけの才人として登場するけど、他の多くの脇役はただの凡人で、モーツァルトの才能に気付けないということを描いたんだよな、あの映画。(この、登場人物の9割が天才を理解できない凡人、という設定に気付けないと意味が解かんない映画)


 凡人は凡人だ、時代が早すぎると天才は愚鈍な凡人どもに殺される、というメッセージなんよ。衆愚の害悪というか。大衆はバカ、とかさ。こういうテーマって、昔の創作シーンでは当たり前に入ってたもんだけど、いつから描かれなくなったのかね。

(昭和は戦後の反省が生々しくて、大衆がバカだから煽られてすぐ戦争に賛成した、ていう反省がすごく色濃かったもんだが、いつのまにか、人は賢いと妄信するのが主流になってるよねぇ)


 皆違うなんて当たり前じゃん、才能にも違いがあるし、凡人も天才も居る、それって普通に当たり前に受け止められていて、アマデウスはその当たり前を土台にして、時代が早すぎたから危うく偉大な才能が埋もれたまま消え去ったかもしれない、て話なわけだよ。そんくらいに大衆はボンクラだ、という描き方、よくあったもんだけどな。平等思想に毒されてんじゃないの? 皆。


 バックトゥザフューチャーも天才を扱う話だから、ちょっとしたコメディシーンでやっぱり衆愚をチャカすことをしてるよ。ロックミュージックを舞台演奏するシーンで、主人公がギターギグで現代のテクを見せ付けるんだけど、聴衆は「ぽかーん」でさ、で「ごめん、キミたちには早すぎた、」て言うんだけどさ、その皮肉をちゃんと受け取れた視聴者はどれだけ居たかな。当時はこのシーンが表現として通ったわけだから、ちゃんと視聴者は意味が解かって一緒になって皮肉に笑えたんだけども。


 よく、右翼や左翼が喧嘩の時に、かつてのヤバい時代がどーたら言うけどさ、ヤバいというならこの行き過ぎた平等思想はヤバいんじゃないの?と思うわ。皆横並び一列、違うという思想は過激で危険、とか言い出すんじゃないの?(笑


 違うと言ったら、縦にも横にも違うんだよ。幅的な違いも、高低の違いも、当たり前にあるんだよ。カテゴリ的には純文学ってのは高尚なものを指して、深さを重視するんだよ。だけど小説ってそれでなきゃダメなんて狭いものじゃないから、そこを重視しなくても良いんだよ。重視しないで作ったら大衆文学なのよ。その大衆文学に、他の多くのジャンルが入ってる、という風に私は理解してるけどここだって研究者に言わせりゃ大いに間違ってると思われちゃうだろうさ。んで、研究者同士はこの線引きでも喧々諤々やるわけよ。


 純文学とラノベ、あるいは純文学と大衆文学、純文学とエンターティメント、てのをもっと実感として違うということを知りたかったら、純文学作品の評論分析の本を読めば、なんとなくでも感じ取れるよ。

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