構造主義とテンプレと私③

 実存主義から構造主義へ、ほんとにちょちょっと箸の先で摘まんだ程度の理解なんだけど、私の感想で言わせてもらうなら、これ、ノブリスオブリージュを打倒した後の矛盾が押し寄せた感じかな、と。


 人々は王侯貴族が頂点的な社会を否定したわけだけども、これを冷酷に分析してみるよー。(正義も疑ってみればいい、見え方変わって面白いよ)


 えー、この身分制含めた体制ってのは、家族制度とか夫婦とか村とかの延長ですわな。それの極まった姿が、王侯貴族出現しての王国というカタチ。これは「代表と支持者」ですわ。本来の政党政治もここに組まれるので、イギリスとか明治日本でも女王や天皇と並列でイケた。現在、この政治ってのも不信極まってんのが証拠というか。人々が信用してないでしょ、理由もなしに。同様に社会主義もこれに入るんで、ソビエトも失敗した、と。早すぎたんでしょうな。社会主義、共産主義は資本主義や民主主義が腐ってからしか認められないもんね、身分制とよく似てるから。


 んで、思うんだけども、人々は便宜的にそれまでの、代表と支持者という関係で成り立つ共同体体制を、支配と隷属という枠組みであると再解釈し直したと思うの。


 単なる再解釈だけの手抜きで、都合の悪い部分を打倒しちゃった。


 だけど、この再解釈が社会を取り巻く全てに浸透していったら、なんか思わぬ悪影響が出始めた、というのが現代の状況ではないかなと。支配と隷属ってのを、会社から家族から親子から男女関係に至るまでに、まんべんなく当て嵌めちゃった、と。

 現代の状況ってなんかそんな風に見えない? MeTooもいいけど、よーく考えた方がいいよね。解かってる人から見ればバカ丸出しなのかも知れない。


 この「枠組み理論」は、とにかく自分にとっての都合の悪いモンを非難するに恐ろしく好都合に出来ていて、その実は共同体制を破壊する屁理屈でしかない。共同体制ってのが、根本では互いの信頼だけで成り立つモンだから。共同体を攻撃するに、これは支配だとか声を挙げているわけだけど、本当にそうなのかはよーく見極めなきゃ解からない。共同体か支配かは表裏一体でもあるかな、と。


 人間の性根ってさ、「自分にとっての快適な環境を追い求める」だと思うのよ、あらゆる生物の本能の根幹だろうとは思うけどね。だから、ほんの小さな共同体においても、最小単位は男女だよな、男男も女女でもいいけど、このたった二人の共同体においてすら、なかなか人はこの本能を抑えられないわけよ。自分は快適で居たい、ていう。するってーと、皺寄せを他方へ押し付けるわけ。

 共同体の敵は、まさに個人レベルのこの本能なわけで、いかに皺寄せを満遍なく均等に分け合うか、が課題でしょ、厭な事ってのは人数に関わらず付いて回る。これがないのよな、『構造主義的、枠組み理論』による社会の分析学には。じゃあどうしよう、て部分になると思考停止で真っ白。


 この理論が、共同体という解釈を反転させただけだからだ、と思うの。


 まー、共同体といって美辞麗句で誤魔化して、己だけぬくぬくしてる連中というものは炙りだしたのかも知れないけど、正直、共同体ってのとセットだよね。片方だけじゃ機能しないどころか、この構造主義ってのは共同体の裏ってだけだもん。単体で機能する性質のものではないんじゃないかな、というのが、ちょちょいと調べたところの感想です。ほんと、ここ2~3日で調べた程度だから、そんな浅いもんじゃないと怒られるかもなんだけど。


 んで、昭和の終わりくらいから平成の間のどこら辺かで、社会通念的なものが切り替わったのかなぁという感じもするのね。それまでの、共同体意識が、枠組み意識に取って変わられたというか。その結果、人々はやたらと僻みっぽく、支配されてる! 私は被害者だ! みたいな意識が強くなったようにも思う。それ、共同体の裏返しで、満遍なく行き渡るべき皺寄せの一端で、誰もが同じくらいは背負うべきもの、だったりしても文句言う人が増えてない?


 これを感じたのも、ちょちょいと調べてからだけども、テンプレ系作品を巡ってはキレイに二派に分かれるじゃん、共感派と否定派と。私は否定だけども、なんでかなーと思ったら、彼らのレジスタンス手法が好きではないという結論に。(笑


 テンプレでやってるようなのは、貴種流離とか勧善懲悪とかそれ以前からあったモノの極まったカタチというだけのことなんだけどもね、これ、極まっちゃうと反発したくなるというか、極端なそのカタチが嫌いというか……。

 彼らは極端にすることで、先鋭化したわけだけども、ピカソ的なのよね、あそこまで先鋭だと受け入れる人と受け入れない人と分かれてもしゃーないよね。問題の問題点を、枠組みそのものを対象にしちゃったから、「同じハンコ押したよーな世界観」だったりで表現している、と捉えられるわけ。


 んでは、以前のはどうなのかというと、同じくレジスタンス運動的なものではあるのよ、手法が違うだけで。テンプレみたく直接的じゃないけど、迂回して枠組みそのものを炙りだす手法なわけ。その最たるものが社会派ね、問題提起。問題を炙りだして、さあどうしますか?とやる。このどうしますか、の部分をクッションなしでやっちゃうのがテンプレなんで、試行錯誤の状態でもあって、だから分析してみりゃ、支配層とやってることは同じ、ただ主人公が成り代わっただけ、てな事にもなってるし、ほんと試行錯誤の途中ってのがよく解かるよーな気がするね。


 我々、昭和世代がなんでやんわり問題提起で終わらせてるかっつーと、これが反転しただけの共同体の問題点ってのを薄々気付いているからなのだよね。老獪なのだよ。若い世代が直接的レジスタンスで玉砕してくのを横目に、若さはいいねー、なんて嘯いているのだった。(笑

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