2-9『ホウルⅣ』

 幼い時に〈ホウルの言葉〉を扱えることがわかると、そのような子供たちは、

一時的に特殊な教会へと集められる。的確にそれを操るための、旧くからの手段と方法を教えられ、良心のもとにのみ〈ホウルの言葉〉を使うことを誓い、また、人の生き死にを決められる強大な力ゆえに、身を護るため、いつでもこの力を隠すことを許される。

 僕の教師は、二度と使わなくてもいいとさえ言った。

 

 小さい頃から僕は、教会も〈ホウル〉も嫌いだったが、〈ホウルの言葉〉についてだけは、今でも頑なに古い戒めを守り伝え続ける教会の姿は――僕に言わせればだけど――唯一残った、最後の良心だろう。


 しかしその〈ホウルの言葉〉を備えた者も、年月を経るたびに明らかに少なくなってきているという。

 子どもの時に教えを受けられるような境遇にないと、大人になるまでには能力を失ってしまうということもあるだろう。


 だがもはや〈ホウルの言葉〉は、純粋に人を救うという本来の意味よりも、「与えなければならない少数の者」と「それを得られる少数の者」という、歪んだ関係だけが意味を持つようになってしまっていた。


 何より〈ホウル〉の姿が見えぬまま、人間だけで作り育ててきた社会において、並外れたその力は、もはや、受け入れることができなくなってしまっていた。


 もっともそれさえも、された人間の辿るべき道筋だったのかもしれないが……。 



 僕は、人差し指から滴る自らの血液を、伯の傷の上に垂らしてゆく。

 僕は、そのまま言葉を続ける。

 伯の身体に、まだ変化はない。

 僕は、そのまま言葉を続ける。

 そうしているうちに、僕の血の筋はうねるようにして勢いを増してゆく。

 僕は、そのまま言葉を繰り返す。

 伯の身体に、まだ変化はない。

 僕は、そのまま言葉を続ける。


 今や僕の指は、露出した太い血管のようなもので、伯の傷口と繋がっていた。

 僕は、そこで翳していた手のひらを、伯の傷口へ向かって静かに押し当てる。


 僕はそこで、言葉を止めた。


 その瞬間、すでに混じり合った血液が湯が沸くようにしてぶくぶくと泡だち始める。

 すると、まるでそれらが伝わっていくかのようにして、伯の身体は、伯の皮膚は、無数の肉の瘤が沸き立ち、そのそばから、肉の泡のようにして弾けていく。

 

「す……すごい……これほどの癒やしが…………」

 

 グラハム卿の声は、かろうじて聞こえるものの、もはや僕の耳も、意識も、それをはっきりとした言葉とは受け取らない。


 やがて、肉の泡立ちが終わり、固まったようにして大小の肉の瘤だけが残ると、今度は、それらを押し退けるようにして、皮膚の下から、次々と新たな瘤が盛り上がってくる。

 それらは、みるみるうちに伯の胸の上で、折り重なるようにして高く積み上がると、そこには目を背けたくなるような血と肉塊で産み出された、赤い樹木が生え伸びるようにして立ち上がっていた。

 

 そこまできて僕は、急速に自分の血が全身から抜けていくのを感じて、気を失いそうになる。もちろんそれに任せてしまえば、伯の身体は瞬時に、この樹木に全てを吸い上げられ、同時に僕の身体もまた同じ運命を歩むことになるだろう。


 咄嗟に、息を大きく吸い、そして吐き出して意識を覚醒させる。


 本当の勝負は、ここからだった。

 さらに精神を集中させると、僕は、その盛りあがった肉塊に直接触れ、撫でつけるようにして、その姿をもとに戻そうとする。

 

 僕はほとんど無意識の中で手を動かしながらも、集中を保つ為に、あえて心を炙るようにして、意識を焚きつけ、同時に、それが焼け尽きぬよう慎重に平衡を保ち続ける。


 ――ああ。

 僕は、そうつぶやいたはずだが、口を開いたかどうかも、もう定かではない。


 理知を越えた感覚の中で、僕は、血の一滴一滴を手のひらで操り、こすり、うごめかせ、時にそのたかぶりを煽り、時にそれを抑えつけ、本来のあるべき姿へ帰るよう、肉をなだめ続ける。


 永遠に続くような時間だった。

 目の前に見える、はっきりとしない光景の中では、粘土が手の中で陶器に変わっていくような、そんなものに見える。

 僕の手の動きに沿って、身体を覆っていた肉塊は、徐々になだらかに、やがてゆっくりと、本来の滑らかなものへと戻ってゆく。


 しかしそこで痛みが――自分の身体から、大量の血液が流れ出たのだという感覚が――僕を、急速に現実へと引き戻す。

 恐ろしいほどの鼓動と耳鳴りが僕を襲うと、次には、死の淵に落ちて消え入るような感覚で意識は遠のいてゆく。

 それらは、等しく交互に現れ、僕の感覚の全てはその二つだけで占有されてゆく。

 幾度も幾度も、僕の中でそれらが繰り返された後、意識は突然、水の中から水面に引き上げられたようにして解放される。

 

 僕の喉が震え――そして、短い悲鳴を上げる。

 

 貧血の――そう貧血の痛みが、和らいでいるのに気がつく。

 耳鳴もまた、いまや遠い雷鳴のようだ。


 いつの間にか、固く閉じていた瞼を、僕はゆっくりと開く。

 そこには血色を取り戻し、胸の傷も、額にあった傷も残っていない、ウィリアム伯爵の横たわる姿があった。



 僕は言うことを聞かない首を、懸命にグラハム卿へと向けると、喉の奥から声を絞って、この癒やしが終ったことを告げる。


 グラハム卿は、それで感謝の言葉を幾度も幾度も口にしてくれたようだったが、そこまできて僕は、完全に全身の力を失って、老騎士に身体を預けると、その抗うことの出来ない欲望のままに、深い深い眠りの中へと落ちていった……。

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