2-8『サイモン卿Ⅱ』


「なっ……」


 僕が言葉を失った瞬間には、傍らの老騎士は、サイモンへと打ちかかろうと剣を振り上げていた。だが、怒りで顔を赤くし、恐ろしいほどの目つきでサイモンを睨みつけながらも、グラハム卿は、やがて無念に腕を震わせながら、その剣を下ろしてゆく。


 サイモンは、その行動を見透かしていたようにして、荷馬車の縁から跳ね降りると、高らかな声を上げた。



「さあ、高潔なるグラハム卿、誓ってはもらえないか? 俺がこいつを〈ホウルの言葉〉を使って癒やしてやる。そのかわりに誓え、今までの罪は問わないとね!」



 それで僕も、サイモンの意図を、本当に愚かなその意図を理解する。

 

 だからあえて伯の右胸を刺し、致命傷を避けたというわけか。


 グラハム卿は、もはや屈辱で全身を震わせながら、サイモンを睨みつけていたが、やがて顎を落すと、うなだれたまま、首を大きく左右へと振った。


「なんと情けないことです、サイモンさま。実の兄を誘拐したばかりでなく、逃げられぬとなれば、伯さまをその手で傷つけ、それを貴方さましか使えぬ〈ホウルの言葉〉と引き替えに、罪を不問にせよとは……」


 それを聞いたサイモンは、さも愉快そうに笑った。


「ああ、全くそうだよグラハム。俺は、〈ホウルの言葉〉なんていう偽善でしかない力ですら、自らの為に使ってやったんだ、愉快だろう! さあどうするグラハム? 今、俺を殺してもいいし、捕まえてもいい。もちろん――そうだここが一番いいところだ――高潔を自負するお前たちのような騎士が、俺みたいな人間との約束を反故にしちまうのもいい。誰が命を救ってやったのかを知りながらね。あんたの自由さ。俺はどっちでもいいぜ。俺は殺されても、こいつを道連れに出来るんだからな!」


 サイモンは心底面白がるようにしてそれを言うと、口の端を引き上げてから、グラハム卿へ、さらなる脅迫と侮蔑とを口にする。


「だが、やるなら早く俺さまの機嫌をとらないとな。でなきゃ〈ホウルの言葉〉でも癒やせなくなっちまう。こいつを見殺しにするのかグラハム? それが嫌なら、俺に許しを請えグラハム! さあ頭を地面につけろグラハム、早く。無論、お前もだサミュエル、さあ今すぐにだ!」


 サイモンは、自棄と希望を滲ませながら、げらげらと笑っている。


 そんな勝ち誇った表情のサイモンを見てから、僕はその思い込みを――産まれながらの能力である〈ホウルの言葉〉を使える人間は、そう沢山いるわけではないから――無理もないと思いつつも、呆れながら思わず天を仰いでいた。


 今では、サイモンに対して逃げ出せば良かったのにと思っていた、自分の甘さの方が、むしろ身につまされる思いだった。


 僕はそこで、笑い続けるサイモンに向けて一気に踏み込むと、斧槍の柄で、サイモンの鳩尾を狙って突きかかる。サイモンは咄嗟に身を引いて躱してみせるが、そのまま跳ね上げられた一撃を顎に食らって、尻餅をつくようにして倒れ込む。その喉元へ向けて、僕は槍先を突きつける。


 顎を押さえ苦悶しながらも、サイモンの表情には、驚きのそれが浮かんでいる。

 僕は、サイモンが今の一撃で短刀を手放したこと見て取ると、それを蹴って、彼の手の届かぬ場所まで滑らせる。そしてグラハム卿へ、サイモンを縛るための紐がまだ荷馬車にないか、なければ伯の縛めを解いて、そうしてくれるように伝える。


 その言葉にグラハム卿は、少し迷うようにしながらも頷くと「ダニエル商人から借り受けておりますので、縄ならここにございますぞ……」そう言って、自らの腰に縛られていた縄を解きはじめる。

 僕は、その用意周到さに驚かされながらも、そもそもグラハム卿には、サイモンの罪を償わせようという気持ちがあったのだということが分かって、この――まさに高潔な騎士へと、改めて尊敬の念が沸いてくる。


 グラハム卿は、素早くサイモンの背中を打ってうつぶせに転がすと、両腕を背中に引き上げ、そのまま手首を、さらに顔を軽く地面に打ちつけ、両脚も縛り上げる。


 そこでサイモンが痛みをこらえるようにしながらも、吠えるようにして叫び始める。


「サミュエル! お前は〈ホウルの言葉〉がなんだか分かっているのか? この顎の傷で、あいつが助からなくなるかもしれないんだぞ! おいグラハム、こんな奴に従って、あいつを見殺しにしていいのか!」


 縛り終えたグラハム卿も、心配そうな表情のまま僕の顔を見ていたが、僕は短く笑ってから、サイモンへ向けてそれを言った。


「貴方の話した意味は、もちろん分かっていますよ、サイモン卿。それに対する僕の答えはこうです――ここにいる人間の中で〈ホウルの言葉〉が使えるのは、貴方ひとりではない、ということです」


 聞いたグラハム卿は、その顔を驚きのそれに変えて、僕の方へと顔を向けている。

 そして一瞬、息をのむようにして、声を失っていたサイモンの方も、歯をむき出して、こちらに首をひねると、喚くようにして僕を、いや、全てを罵りはじめる。


「どうしてこうなるんだ! なぜ、お前のような人間が現れる! どうして俺のように何も持たない人間と、お前のように全てを持つ人間がいるんだ! ちくしょう! どうしてなんだ、どうして今、なんで今なんだ、この時になぜお前が現れるんだ! なぜ俺の人生を破壊するために現れる! 何が俺を裁いているんだ、どうしてお前は裁かれない? なぜだ!」 

 

 自らの行いだけが、自らにとって相応しい場所へ導くからだろうと、そう考える。


 しかしそう考えてから、吸い寄せられるようにして、僕は、まだ何事かを叫び続けているサイモンの顔を見つめる。

 

「――なぜ平等でないんだ? お前のように、いるべき時に、いるべき場所に、いるべき人間の前に、なぜおれは居合わせないんだ! それがあれば、それさえあれば、俺だってこんな事してやしないんだ! くそ! くそ! 何でなんだ、何でなんだよ!――」


 僕は『あの日』、何と言って、何を覚悟して、この旅に出たのだろう?

 その女性ひとを探し出して、身代わりに差し出してでも――シェリー・ピアース――を取り返す為ではなかったのか?


「――言えよ! 何とか言えよサミュエル! サミュエル!」


 そこで自分の名が呼ばれているのに気がついて、僕は首を振って、サイモンから目を背ける。

 未だ続いている罵声を無視して、僕は荷台の上に上がると、横たわる伯の側で胸の傷の状態を確認しながら、縛めを解いてゆく。


 僕に、そんな真似ができるのだろうか?

 いいや、恐らく出来はしないだろう。

 僕に、そんなことは出来しないのだ。

 そんな覚悟など、僕は、僕の知る限り、最初から持ち合わせてはいなかったはずだ。


 ならシェリーを、シェリーをどうやって取り戻したらいい?


 僕は、再び首を振った。


 そうならない可能性が、これから行くダヴェッドにあるんだ。

 それを僕は掴んだんだ、この長い、長い、長い旅でね。


 そうさ……自らの行動だけが、自らのいるべき場所へと導くのさ。

 僕は、サイモンとは違う。違うはずなんだ……。


 そこで僕は、伯の縛めを解き終えて、その身体を仰向けにして横たえる。

 改めて見る伯の傷は、決して浅くはなく、出血も酷いものだったが、一方で〈ホウルの言葉〉であれば、まだ十分に,伯を救える可能性があった。

 僕はそれで、一旦は安堵で胸をなで下ろしたものの、これからすぐに〈ホウルの言葉〉を使うのだという緊張から、自らの拳を固く握りしめる。



〈ホウルの言葉〉――それは〈ホウルの武具〉と同じく、全く理解できない不可知の力で、傷ついた肉体を癒やす力のことだ。

 しかしその名や、まさに聖なる行為から思い抱くであろう感情とは裏腹に、サイモンが僕に言ったように、信仰心とは全く関係のない、生まれつきそれが備わっているかどうかの能力だ。


 癒やし手は、決められた言葉の羅列を唱えることで、傷ついた肉体の回復力を最大限に高め、通常の医術を遙かに超えた、重度の傷を癒やすことが出来る。

 反面、引き出されたその凄まじい回復力は、癒やし手が集中力を切らして制御を失えば、施された者の肉体は、まさにその回復力に飲み込まれ、その身体を肉塊へと変えてしまう。

 そればかりではない。

 その無尽蔵とも呼べる回復力は、次の標的を癒やし手に定めるのだ。そうなれば最後、その回復力こそが、二人分の肉を飲み込み、もう一つの新たな肉塊を産み落とすことになる。

 ゆえに癒やし手は、それほどの危険を背負いながらも、決して自らの傷を癒やすことは出来ない。まさにサイモンが偽善だと呼んだように、〈ホウルの言葉〉は、ただただ、人に尽くすことを運命づけられた力なのだ。



「サミュエル卿……」

 グラハム卿は、心配そうにこちらを見ている。僕はそれに頷いてから答える。


「一刻はかかると思いますが、〈ホウルの言葉〉であれば、ウィリアム伯爵さまを助けられると思います。ただ、ご存じの通り僕は――確実に意識を失います。あとのことはお願いします」


「お前に出来るものか! 嘘を言え!」刺すような怒声を上げるサイモン。

 

 そんな言葉を無視して、グラハム卿は僕へとゆっくりと頷いてみせると、

 

「あとのことは私にお任せ下さい。ですからどうかサミュエル卿、伯さまを、私の主君であるウィリアムをお救い下さい。どうかお願い申し上げます」


 そのまま、荷馬車の前でひざまづくと、忠実な老騎士は、その頭を深々と垂れる。


「かならず、ウィリアム伯爵さまをお助けいたします」


 未だ頭を上げようとはしないグラハム卿へそう誓うと、僕は伯爵の方へと向き直る。手袋を外し、伯の傷ついた胴着を引き裂いて、一番酷い、右胸の傷をあらわにする。

 腰に吊られた剣を手繰って、鞘から短く引き抜くと、その刃に左手の人差し指の腹をあて、ゆっくりと薄く滑らせていく。

 

 やがて剣の刃に一筋の鮮血が伝わり、糸のように垂れ落ち始めたところで、僕は大きく息を吸って、静かにそれを吐き出す。


 そして、つぶやくようにして、決められた言葉を唱え始める。

 精神を集中するためだけの、意味すらも分からぬふるい言葉の羅列を――。

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