2-5『グラハム卿Ⅰ』

 好きであることと、上手く振る舞えることは、全く別のことだ。


 僕はそもそも、絵描きになるのが夢だった。

  貴族の息子に生まれなければ、僕は絶対に騎士などにはならなかっただろう。


 だが、どちらの才能があったのだろうと考えれば、石膏地の板に、顔料と卵黄を塗りたくる能力よりも、剣を振って人を打つ才能に、ずっと恵まれていたことになる。

 しかも両者は、比べものにならないぐらい程の雲泥の差のものだった。

 

 そしてもし僕が、貴族の子供に生まれていなかったとしたら――絶対に絵描きを目指し、そして間違いなく、路頭に迷っていたことだろう。


 そこまできて僕は、思考を続けられなくなり「……気持ち悪い……」と呻いて、力なく木の幹にもたれかかる。


 僕は葡萄酒が大好きだ。しかし決してお酒に強い方ではない。

 好きである事を許されるのは、残念ながらここでも、その資質のある者だけらしい。


「おめえ、酒弱いとか自分で言いながら、あんなに飲むからだろ、ばっかじゃねぇの」


 トーマスはそう言って、呆れた顔で僕を見ている。


「お兄ちゃん、お酒くさーい、一杯飲んだんでしょう、お父さんみたいに、お母さんに怒られちゃうんだからねっ」


「これベシー、お前という子は……。それにトーマスもそんなことを言っては失礼ですよ。サミュエルさま、また少し雨が酷くなっておりますので、私どもも、もう少しここにおりますから、お身体を休めてください」


 と、言ってくれる本当に優しいダニエル商人だけど、まあ、その優しさも、いや、その優しさこそが、肌身に刺さる思いだったりするわけで。


 僕は、そのまま半刻ほど、ぼんやりとした意識のまま、幹に身体を預けて座っていたが、意を決して頭を振って、さっきもらった杯の水を飲み込む。

 立ち上がってみると分かったが、どうやら幸運ことに、気持ちの悪さは、この半刻で、かなり身体から抜けたようだ。

 

 大きく息を吐くと、僕はゆっくりと立ち上がった。

 見ればもう、ダニエル商人たちの方は、ここを発つ準備を始めており、それももうもう終わりかかっているようにみえる。


 ちょうど、その時だった。


「申し訳ないが、そこのお方……」 


 そう声が聞こえて、ダヴェッド側の街道から男が近づいてくるのが見える。


 男は、銀色に見える美しい白髪と、全く同じ色の顎ひげを持つ、初老の男だった。雨風を避けるための外套の下には、赤い陣羽織に飾られた鎖帷子を着込み、腰に剣を帯びたさまは、陽の光の下で見れば、まさに騎士そのものといった姿であっただろう。


 だが、今の男は、その全身を雨と疲労に打ちのめされており、枯れて艶のない声、額と喉に筋走るように張り付いた顎ひげ、そしてなにより、鎖帷子の上からでもわかる、左腕に滲んだ血の色が、この男から、少なくとも外見上の生気を奪い取っているように見えた。


「私に、そこの馬を、お貸し願えないだろうか」


 話しかけられたダニエル商人は、驚いた声を上げたが、それは、恐れなどではなく、その見知っているらしい男の姿に驚かされたという、純粋なその声だった。


「グラハム卿! いかがなされたのです!」


 そう呼ばれた男は、自分を知っている人間にあって、ほっとしたのか、短く微笑んでから、駆け寄ったダニエル商人の腕をとって言った。


「……私を知っておられるところみると、恐らく、ダヴェッドに出入りをされている商人の方でありましょう。すまぬが、私の方はあなたを知らない、その無礼を許して頂きたい。名はなんと申されるのか?」


「ああいえ、私こそ、大声で名をお呼びしたりして、失礼いたしました。私は、ダニエル・ベネットと申します。ダヴェッドで商売をさせて頂いておりまして、グラハム卿を何度か、お見かけしたことがございました」


 聞いたグラハム卿は、短くそれに頷いて応える。


「ダニエル商人、突然の無礼を重ねて申し訳ないのだが、私は今、一刻を争っております。どうか、私に、あなたの馬を貸しては頂けないだろうか。もちろん、できる限りのお礼をさせて頂きます。この通り、お願い申し上げる」


 そう言って頭を下げる。グラハム卿が言っているのは、荷馬車の馬のことのようで、森の方に繋いでいる、ハーグリーブスには気がついていないようだった。


 そんなグラハム卿の姿に、ダニエル商人は恐縮しつつも、


「もちろん、お貸しするのは構いません。しかしグラハム卿、見ての通り、あれは荷馬車用の馬で、脚は遅く、グラハム卿のような騎士の乗る馬ではございません。それに……」


 グラハム卿の赤く染まった左腕を見てから、その顔を見る。


「ご心配なさるな、私は騎士ですぞ、ダニエル商人。だが他に馬はおりますかな。もし、お持ちならそれを、なければ荷馬の馬をお貸し頂きたい」


 そう言ってから、グラハム卿は辺りを見まわす。やがて僕と目が合い、そして、奥にいハーグリーブスルの姿を見つけのだろう、驚いた表情を浮かべる。


「失礼だが、奥に繋がれているあの馬は、ダニエル商人、貴方の馬ですかな?」


 グラハム卿は、もう一度、僕の顔を見てから、ダニエル商人にそれを問うたが、答えはダニエル商人の口からではなく、その足もとから上がった。


「違うの、あそこにいるサミュエルお兄ちゃんのお馬さんで、ハーグリーブスちゃんっていうの」


「これ、ベシー」ダニエル商人が、そっと叱るが、その声を聞いたグラハム卿は、「教えてくれてありがとう、お嬢ちゃん」と、まさに孫へと接するように言って、ベシーの頭を撫でてから、僕の方へ近づいてくる。

 

 そして、ハーグリーブスを近くで一瞥し、次に、僕の顔を少しのあいだ見つめてから、やがて腰を折るようにして、深々と頭を垂らした。


「私は、ダヴェッドのウィリアム・ウィンターバーン伯爵さまの騎士で、グラハム・テルファーと申します。貴方さまは――騎士の身分でございましょう、サミュエル卿」


 グラハム卿は、そう言って、僕が騎士であることを、一瞥だけで言い当ててみせる。僕は、ダニエルさんたちの手前、答えを少し迷ってしまうが、僕の方もグラハム卿へ、できる限り深く頭を垂らしてから、


「主君に仕えてはおりませんが、グラハム卿が察せられたとおり、私は騎士の身分で、サミュエル・ポウプと申します」


 と、自らの身分を名乗る。


 僕の言葉に頷いてからグラハム卿は、再び、その頭を深々と下げる。


「騎士である貴方さまに、無礼にも、馬を貸して頂きたいなどということをお願いする私を、どうか許していただきたい。だが私は、一刻を争っております。どうか私に、貴方の馬を貸していただきたい。このような素晴らしい馬であれば、彼らに追いつくことが出来ます。〈ホウル〉さまは、私をお見捨てにはならなかった。どうか、この通り、お願い申し上げます」


 グラハム卿の表情には、やはり疲労の色が濃く浮かんでいた。赤く染まった左腕は、満足に腕を振るうことはできないように見える。

 何者かと争って馬を失い、その相手に追いつくために、あの酷い雨の中を歩いてここまで来たのだろう。その精神力には驚かされるばかりだが、この姿を見れば、ダニエル商人が困惑して止めようとするのも、当然なのだろうと思う。


 しかし同時に、目の前にいるこの老騎士には――と言っては失礼かもしれないが――、先ほどの騎士然とした姿や振る舞いよりも、生来のものであろう優しげな目尻から感じられるのは、誠実さや実直さだった。

 まるで、父親か祖父、あるいは、修道院の人なつっこい院長といった、僕ならアレックスの爺さんを想像してしまうような、そんな印象の持ち主だった。


 グラハム卿の物腰や、ダニエル商人の態度から見ても、恐らく、この老騎士を信じよさそうだった。だがそれでも、正しいことのために剣を抜いたと言い切れるのか? 別の顔が狂った殺人鬼でないとどうしてわかるんだろう?


 僕はそこで、ある程度の覚悟を持って言葉を続ける。


「失礼ながらグラハム卿、貴方さまのご様子から見ても、ただ事だとは思えません。何があったか、訳をお聞かせ願えないでしょうか」


 だが、グラハム卿は、それに首を横に振った。


「ご心配は痛み入ります。ですがサミュエル卿、私は行かねばならないのです。もう一度、お願い申し上げます。騎士である貴方さまから、馬をお借りする無礼を許して頂きたい。この通りでございます。私をお助けください」


「そのお身体で馬を操り、お相手を追うことが出来るとは思えません。それに恐らく、腰の剣を抜くおつもりでしょう?」


 グラハム卿の眼が、一瞬だが睨むようにして、僕の顔を捕らえた。その瞳には使命感というか、決意というのか、雨に打たれても消えさることのない、まさに炎のようなそれが宿っており、疲労や腕の傷が、このグラハム・テルファー卿という騎士の意気を、少しも挫いてはいないようだった。 


「サミュエル卿、だとしても、私が行かねばならないのです。一刻を争うのです」


 何の根拠もなかったが、その言葉を聞いたところで、僕の気持ちはほとんど固まっていた。この老騎士を手助けするべきだろうと。


「わかりました、では、はっきり申しましょう。まず、手短で構いません、理由をお聞かせください。そして、今のお身体のグラハム卿よりも、私がその相手を追うべきであれば私が参ります。少なくとも、それを承諾していただけない限りは、私の馬をお貸しすることは出来ません」


 その提案に、グラハム卿は、僕が思うより三の三倍ぐらいは驚いた様子で、大きく首を横に振った。


「何を仰いますか、サミュエル卿! 貴方さまには関係がない。それにこれは、騎士である私の責務でございますぞ!」


 僕は、やはりそれに幾度か頷いて見せて「そうです。私も騎士なのです、グラハム卿。だから貴方さまがお譲りになられないように、私も譲れないのです」と肩をすくめてみせる。


「……貴方さまは困ったお方ですぞ、サミュエル卿」


 眉を折り、濡れた髭をしごきながら、すごく困った感じでこの老騎士にそう言われると、ちょっと本当に、いけないんじゃないかと思ってしまうんだけれど……。


 しかしそれで、グラハム卿もまた意を決したようにして、僕の顔を見据えると低い声で、それを告げる。


「実は――私の主君、ウィリアム伯爵さまが、不意を襲われ、捕らわれてしまったのです。わたくしめがお側についていながら……」


「捕らわれた?」

 一番あり得そうなことは、身代金目的の誘拐だろうが、もちろん政治的な可能性も十分だろう。


 僕がそれを話すと、苦々しい表情でグラハム卿は答える。


「どちらも言えます。恥を忍んで申しますが、顔こそ隠していましたが、恐らく誘拐したのは、伯さまの腹違いの弟で、サイモン・ウィンターバーンさまだと思います。伯さまが、ある事情で、ケレディオンからダヴェッドへ、数人の供だけで騎行していることを知っている人間は、そう多くはありませんから」


「伯爵さまの弟が、犯人であると?」


 うなだれるようにして、グラハム卿は頷く。


「お二人はそもそも、決して仲の良い兄弟だとは言えない間柄でしたが、三年前、伯さまがこのダヴェッドの地を封土されたとき、兄弟ふたりで、この地を治めたいと考え、サイモンさまと共に、ここへいらっしゃいました。しかしサイモンさまは、このダヴェッドの地が、王都から遠く辺境であること、もっと言えば、伯さまの言う、街を新たに建てることなど不可能だと笑って、自分からここを去っていかれました。それから伯さまとサイモンさまは、一度も会っていなかったはずです。それが三ヶ月前、サイモンさまは、突然、ダヴェッドの城に現れ、領有権は自分にもあると言い出したのです。そしてそれが聞き入れられないとなれば……この所行です。伯さまの釈放を条件に、法外な金か、下手をすれば、本当に領有権を認めさせるつもりかもしれません」


 そこでダニエル商人が、僕たち二人の側に現れる。


「お話を聞いてしまって申し訳ないのですが、だいたい一刻ほど前でしょうか、一台の荷馬車と、馬に乗った三人の男たちが、私たちの前を通り過ぎてケレディオンの方へ向かっていきました。それが、誘拐者たちでは?」


 情けないことに僕は見ていないから、僕が起きる前のことだと思うけど、一刻ぐらい前ならば、トーマスにからかわれた直前といったところだ。


「ダニエル商人、三頭の馬は、皆、栗毛の馬、荷馬車を引いているのは二頭の白い馬、それに乗っていたのは、黒い外套に、白と黒の陣羽織……顔を隠した布を外していれば……長い金髪の男がその御者ではありませんでしたか?」


 問われたダニエル商人は、少し興奮した様子で、それに答える。


「そうです、荷車を引いていたのは二頭の白い馬でした。それに、その御者もお話のとおりで、長い金髪を束ね、それが馬の尾のようにして風に流れていたのを覚えております」


 聞いたグラハム卿は、祈るようにして顔を上げる。


「ああ、間違いなく、その一団でしょうダニエル商人。しかし、まだ一刻ですな。やはり、〈ホウル〉さまは、伯さまをお見捨てにはなっておられない。私たちが襲われてから、すぐに降り始めた酷い雨で、あの者たちも、そう遠くヘは進めなかったと見える」


 僕はそれに頷くと、腰に佩いた剣のつかを短く引いて、それを確かめた後、幹へと立てかけてあった斧槍を掴む。


 それでグラハム卿が首を横に振り、僕を止めるようにして腕を掴む。


「サミュエル卿、サイモンさまの剣の技は、並のものではございませんぞ……」


 僕は肩をすくめる。

「僕も、腕には覚えがあります。なんとかしてみせますよ」


 だが、グラハム卿は、そこでさらに強く僕の腕を掴んだ。


「本当に、本当にサイモンさまはお強いのです。それに、手段は選ばれないお方だ……」


 僕はそれに再び、肩をすくめてから、グラハム卿へと微笑んでみせる。


「なら、なおさらですよ、グラハム卿。傷を負われたグラハム卿を、向かわせるわけには参りません」


「しかし……」と、なおもグラハム卿は言う。言いたくなるとは思うが、僕も微笑んでから言った。


「もし、私が信用できないのであれば、そう言って下さい。そうであれば、私はグラハム卿に馬をお貸ししいたします」


 聞いたグラハム卿は、少しの間、黙って僕の顔を見ていたが、やがて、その手を僕の腕から離すと、老騎士は、自らを正すようにして僕へと、頭を下げる。


「サミュエル卿、伯さまを、私の主君ウイリアム・ウィンターバーンさまを、どうかお救い下さい。お願い申し上げます」


「頭をお上げ下さい、グラハム卿。かならず……ウィリアム伯爵さまをお助けしてみせます」


 荷馬車を引いて、一刻ほどの時間の差なら、相手に追いつくことはできるはずだった。

 助けられるかどうかは……まあ、なんとかやってみる、っていうところかな。

 相手があることだしね。でも、安請け合いはしていないつもりだ。


 僕は、ハーグリーブスの手綱をとり、街道へと向かう。そこでベシーが駆け寄ってくるのが目に入る。


「お兄ちゃん、怖いことするの?」

 僕はそれに頷く。「残念だけど、悪い人たちがいるんだよ」

「怪我したりしら、だめなんだからね!」

 そう言ってベシーは、僕の脚に抱きつく。

「ありがとう、ベシー。気をつけるよ」


 と、そこで「おい」と声をかけられ、いつの間にか、僕の傍らにトーマスが立っていることに気がつく。


「お人好しが、過ぎるんじゃあねぇのか?」

 その言葉とは裏腹に、声に責めるような響きはない。


 僕は、それに小さく笑って、「本当に」と応える。


「……お人好しで死んじまったら、意味ないんだぜ」

 そう、トーマスは真顔で言った。


「……本当に。でも……ありがとう」


 ちょっと不意を打たれて、生返事のようにして僕はそう答えてしまったが、街道に出て、ハーグリーブスの鐙に脚を掛けたころには、その言葉に、本当に感謝の気持ちを感じていた。


 僕は、ハーグリーブスに拍車をいれる。


 それでハーグリーブスは嘶きもせずに走り出すと、風こそを唸せるようにして、街道を駆けていった。

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