2-3『ホウルⅢ』

 僕とトーマスは、今、また強く降り出した雨を全身に受けながら、泥の中に半ば埋まっている、荷馬車の後輪を見ている。


 どうしてそんなことになっているのかと言うと――


 僕が、ダニエル商人たちに会う少し前、商品である酒樽を積んだ、ダニエル商人の荷馬車が、街道の端のぬかるみ落ちてしまい、動かせなくなってしまった。皆で、荷を下ろす方法もあるにはあるが、荷は酒樽で重く、この雨の中で、万一酒樽を泥に落とせば中身を台無しにしてしまうかもしれず、かといって、このまま雨の中で放っておけば、売り物である酒を痛めてしまう。


 どうするべきか頭を悩ませている最中に、僕が森から出てきた、そういう状況だったらしい。


 それで僕が、ハーグリーブスを荷馬車に繋いだ上で、さらに荷馬車の車輪を街道へと押し上げてやれば、泥濘ぬかるみから荷馬車を引っ張り出すことができるんじゃないかとダニエル商人に提案してみた、というわけ。


「……さて、そろそろ始めようか」と僕は、トーマスへ顔を向けてから、少し同情するような気持ちで、それを言った。

 僕とトーマスが僕の斧槍を梃子にして車輪を押し出す役だが、言い出した僕は当然としても、これからまさに訳だしね。

 

 そのトーマスの方は、僕の言葉には応えずに、僕の斧槍をまじまじと見つめてから、声を詰まらせるようにして口を開く。

「おい、その斧槍の文様、まさか……」



「……ああ、そうだよ。だから折れたりしないのさ」



 そう言って僕は、荷馬車が車輪が埋まっている泥の中へ、自分の斧槍の柄を、沿わせるようにして差し込んでゆく。


 その光景に、トーマスは信じられないといった表情で首を横に振りながらも、抱えていた石を、斧槍と側へとゆっくりと置いた。この石と斧槍で梃子の要領を働かせ、車輪を押し、荷馬車を街道へと引き上げるためだ。


 僕はそれで、斧槍を捩って場所を決めると、ハーグリーブスを繋いだ荷馬車の前にいるアンディへと手を振り、合図を送る。


「〈ホウルの武具〉を、こんなことに使うなんて、おめぇ、呆れた奴だな」


「そうさ、〈ホウルの武具〉だからこそ折れやしないんだ。これほど良い使い道はないだろう?」僕はそう言って肩をすくてみせる。


 などと僕は、平然な顔をして答えたが、トーマスの驚く気持ちが、分からないわけではない。それどころか、騎士や傭兵の中には、この「特別な」斧槍を、梃子の棒の代わりに使うことを、ある種の冒涜だと感じる者さえいるだろう。



 僕の持つこの斧槍は〈ホウルの武具〉と呼ばれるもので、この国には百ほどしかないと言われている武具の一振りだった。



 それらは、人間の手によって鍛えられた武具よりも遙かに軽く、それでいて段違いの鋭さを持ち、折れたりすることもなければ、刃が欠けることもない。

 今に生きているどんな職人にも鍛錬することはできず、そもそもどんな原理が働いているかさえも理解できない。


 神が鍛え、人間に与えたとしか信じようがないもの――。


 そんなものが何の為に存在するのか。

〈ホウル〉はこの武具で人間に何を果たせというのだろうか。


 戦争になれば〈ホウルの武具〉は、国中からかき集められる。男たちは〈ホウル〉へ勝利を望む歌をうたいながら、〈ホウル〉の名を戴いた武具を、最初は空へ向かって突き立て、次には相手の心臓に向かって突き立てるというのに。


 そうなることを〈ホウル〉は理解できなかったというのだろうか?


 いいや違う。現に、人々は言った。〈ホウル〉の意に背く戦いに望む武具は、その力を失うと。人の腕に握られた武具だけがその宿命を知っているのだと。


 かつての僕は、そんな話を、ただの噂話だと思っていた……。『あの日』までは。



 そこで僕は、軋む音すら上げることのない、その斧槍を見やった。

 父にもらったものでなければ、こんなおぞましいものなど、とっくに捨ててしまっていたことだろう。



 雨と泥が、僕の眉間を伝って頬へと流れ落ちていく。


 僕とトーマスは――不本意ながら――息を合わせつつ、幾度も幾度も、斧槍を力一杯に引いては、手を泥に沈め、石の位置を微妙にずらし、また同じ事を繰り返していく。


 どのぐらいの時間が過ぎたのだろう、半刻ぐらいは経っただろうか。 

 荷馬車はまだ、街道の敷石を越えられないでいる。


 車輪と車軸が時折悲鳴のような音を上げる。


 一方でハーグリーブスは、なんら変わらずに荷馬車を引き続けているようで、前で二人が引き、後ろに二人で押している人間たちの方が、よほど疲労し、惨めな呻き声を上げ始めている。


 それでも人と馬とで、それらを何度繰り返しただろう。

 

 その瞬間は訪れる。

 

 ふと引く腕が抜けるようにして軽くなる。後輪が敷石を噛んで、荷馬車はつまずくようにして跳ね上がると、今までで最も多くの泥を僕とトーマスの顔へと叩きつけながら、やっとのことで街道へと戻ってゆく。


「やったぞ! サミュエル、トーマス。やった!」すかさず、アンディから喜びの声が上がる。


「なんとお礼を申し上げたら良いかのでしょう、サミュエルさま!」続けてダニエル商人の言葉。


 顔の泥を払いながらも、僕の口元にも自然な笑みが浮かんでくる。


「礼は言うが、おめぇもまあ、随分とお人好しの人間だな……」

 トーマスも不快そうに、泥と雨が混じり合ったものを拭いながら、そう呆れ顔で口にする。


「なんとでも言ってくれよ、僕は……できる限りそれをするんだ。そうするべきなのさ……」


 そう言った僕の声は、雨音にかき消されたのかもしれない。


 トーマスは、少しのあいだ、僕の顔を見ていたが、やはり、不愉快そうにして顔を横に振って、僕から目を逸らした。



 荷馬車は、あらかじめ決めていた場所へ、少し先にある、まだ土のしっかりとした木々の陰へとアンディが慎重に曳いていく。


 そこで、いつの間にか僕の側にいたベシーが、むしろ楽しげに僕の腕を取ると、天幕とは離れていく方向――荷馬車の方へと僕をぐいぐいと引っぱっていく。


「べ、ベシーさん。あの……どちらへ? 今、とっても寒いので、雨を避けたい気分で一杯なのですが……」


「それなら、ハーグリーブスちゃんも寒いってことだよ! お兄ちゃんのお馬さんでしょ! ハーグリーブスちゃんのところに行ってあげなきゃ駄目だよ!」


「いやまあ、そう……そうなんで……しょうか?」


「大丈夫だよ、お父さんが、天幕もあっちに移動するって言ってたから、ね! 早く行こっ!」

 天幕の前で、暖かな光を放つ焚き火は、刻々と僕の方から遠ざかってゆく。


 トーマスは、そんな姿の僕の顔を、まじまじと見つめてから、


「お人好しってのは、ほんとに、すげぇんだな」


 と言ったように、少なくとも唇はそう動いたように、僕には見えた。

 しかしそれは、街道を叩く雨音と、枝をふりふり心から楽しげに唄うベシーの歌声とでかき消され、僕の耳には、はっきりと届くことはなかった。


 僕はそこで顔を上げ――


 「へぐしゅっ!」


 と、決して声ではない、それを上げた。


 引かれていく先の方で、ハーグリーブスの軽やかな嘶きが、聞こえた気がした。

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