2-2『ハーグリーブス号Ⅰ』

「――誰? 誰かいる! お父さん! 誰かがあたしのおしっこ覗いている人がいるっ!」

 という甲高い少女の声が、思いのほか僕のすぐ側で上がる。

 見れば、小さな女の子が、僕から逃げ出すようにして駆け出してゆく――。 



「ベシー、早く! こっちに来るんだ、急いで!」



 少女に呼ばれた父親だろう。さらに先の方で、切羽詰まった声で、娘のそれに応じる。


 ……。

 

 いや、状況的にいけないのは、僕にも分かりますよ。ええ。

 だって、暗い森のほうから、のっそり男が現れて、娘のそんな姿を覗かれたりしたら、心配するのは当たり前のことだと思う――ああいや、断じて覗いてないけど。


「大丈夫かいベシー。ああ、またどうしてこんな時に! アンディ、あそこに誰かいるようだ!」

 再び父親の声。ただ、その声の響き具合から、どうやらこの先が街道らしい事がわかる。


 あっ、やっぱり方角あってた! 良かった-!


 と、ひとまずの安心感に包まれるが、ちょうどそこで、声の上がった方角にある低木の枝々が揺れて、雨粒が弾けるようにして舞った。

 どうやらこちらへ向かって、複数の人間たちが進んできているらしい。


 まあ、それもよく分かりますよ……。

 だって、こんなところに人が住んでるわけないし、常識的に考えれば、旅人か商人だよね。だとすると、護衛の為に雇われた傭兵とか、少なくとも腕に覚えのある人間とかで、自らの身を守る為に、剣とか弓を閃かせて不審者へ――僕へ――向かってきている。


 なるほど、状況はよくわかった、状況は……。


「相手が一人なわけないだろう、よく探せ!」

 正面の方から、先ほどの父親とは、別の男の声が上がる。


 いるわけないじゃん。だって一人だもん。


「……いや……いない……見当たらないぞ! 本当に一人だ!」


 左から声。どうやら僕を囲い込むつもりみたい。


「本当か? よく見てみろ!」と再び正面の男。

「大丈夫だ、変態野郎は、一人だぜ!」


 えーっと、言ったのは右から来てるやつ……と。



 そこで、正面の木の陰から顔を出した男が、僕に向かって、その声を上げる。

「そこの男! 武器を投げて手を高く上げてくれ! そうすれば我々も何もしない!」



 もちろん、最初から僕に争う気はないし、いきなり相手の方から襲いかかってくるのでもなければ、彼らの警告に従うべきだろう。

 僕に、非がないわけでもないしね……。

「わかった」と応じて、僕は馬から降りると、言われた通り、斧槍と腰の剣を投げ出して――控えめに――両腕を上げてみせる。


 すると片手剣で武装した男二人が、それぞれ、僕の正面と左側から姿を現す。


 男たちは、僕の仲間を警戒してか、注意深く辺りうかがっていたが、やがて、最後の一人であろう、弓を持った禿頭の男が右手の陰から現れると、先ほどの自分たちの言葉通り、まず正面の男が自らの剣を鞘に収める。

 すると、それに倣うようにして、他の二人も、それぞれの武器を下ろしてゆく。


 そこで、彼らのまとめ役らしい正面の男が、僕の武器を拾い上げると、それを差し出ながら口を開いた。


「手荒なやり方をして、すまなかった。だが、こんな森で何をしているんだ? どうして街道を使わない?」


「……どうも、道に迷ってしまったようなんです」


「この……街道でか?」と、にわかには信じられないと言ったふうの声があがる。


「雨を避けるつもりで、少し森に入ったのですが、街道沿いを歩いているつもりが、いつの間にか道が見えなくなってしまって……」


 だが男は、それを聞いても、どうしても納得がいかないという表情のままだ。


 「……確かにひどい雨だったが……この街道を見失ったりするものなのか?」

 と半ば独り言のようそれを口にしたが、すぐに首を振って、

 「……とりあえず、話はわかった。向こうにいる雇い主と話すから、少し待っていてくれないか」


 僕がそれに頷くのを見て、男は来た方向へと引き返していく。


 盗賊やら無法者といった疑いは、晴れつつあるみたいだけど、街道を外れてしまった事は理解してもらえないようだ。なぜなのだろう? どうしてなんだろう? 


 そんな思いが、僕の中で、ごうごうと渦巻いている間に、男は戻ってくる。


 その後ろには、恰幅の良い裕福そうな男と、妻らしい女性、そしてその女性に手を引かれた――恐らくベシーと呼ばれた――先ほどの女の子がいた。


 まとめ役の男が話していた雇い主というのが、彼の後ろにいる男なのだろう。妻らしき女性と娘を、自らの後ろに庇うようにしつつも、落ち着いた口調で僕へと話しかけてくる。


「私は、商人でダニエル・ベネットと申します。それと妻のハナ、娘のベシーです」それでハナ夫人が、短く会釈してくれると、ダニエル商人は、まとめ役らしい男の名がアンディといい、もう一人の男がルーカス、禿頭の男がトーマスだと話してくれる。


「――私は、サミュエル・ポウプと申します……傭兵を生業にしています」


 僕が最後に名乗り終えると、それを聞いたダニエル商人は、少し驚いたようにして眼を細めてから、改めて僕の顔を見る。


「傭兵? そうですか……」


 それを聞いたダニエル商人は、少し納得のいかないような表情を見せたが、すぐに気を取り直したようにして頷くと、笑顔を浮かべて話を続ける。


「まずはお詫びを申し上げなくては。商人として旅をしておりますと、どうしても悪い方に考えがちなります。アンディたちの言葉を聞き入れて頂いて、ありがとうございました」


「いえ、僕の方こそ、驚かせるような真似をしてしまって、申し訳ありません」


「道に迷われたとか……」


「ええ、お恥ずかしながらそうのようです。人影のようなものを見た気がして馬を向けたのですが……」


「――で、欲望に負けたのかよ!」と、一人、げらげら笑いながら言う、右から来た中年の男。


「これ、変な言い方はよしなさい。トーマス。失礼いたしました……」


 そう言って、ダニエル商人は頭を下げてくれたものの、またそこで言葉が途切れてしまい、再び、気まずさが戻ってくる。


 どうやらダニエル商人は、職業的な感覚からだろう、僕が少なくとも傭兵ではないことを見抜いていたようで、そのことが、決定的ではないにしても、微妙な不信感を与えてしまったのだと思う。

 まあ、もっともそれ以前に、ダニエル商人から見れば、こんな森から突然出てきたような男に、不信感を持つのは自然な感情だろう。


 ほらー。やっぱり傭兵って名乗っても、うまくいかないんだよね……。


 そんなふうに後悔してみても、この雰囲気を払拭出来そうなきっかけは見つかりそうもない。


 でもまあ、このまま挨拶を交わして、ここを立ち去ればいいだけのことだ。

 ダニエル商人は、良さそうな人なので、何か〈聖徴〉を持つ女性について教えてもらえればとも思うけれど、無理に、この一家と関わりになる必要もないだろう。

 

 と、そう思い始めた時だった。



「あれ! ハーグリーブスちゃんだっ! お父さん、ハーグリーブスちゃんだよ!」



 ダニエル商人の娘であるベシーが、突然、僕の方を指差しながら、大きな声を上げる。僕を含めた大人たちが困惑する中、ダニエル商人は、娘のと話をする為だろう、ベシーの前にかがみ込んで、諭すようにゆっくりと話し始める。


「『ハーグリーブスちゃん』ていうのは、誰のことなんだい、ベシー」


 だがそこで、ベシーに代わってその問いに答えるように、突然、僕の馬が、大きな嘶き《いななき》を上げる。


 その場にいる大人たち全員が驚いて、僕の馬を見つめる。


「ほらっ、やっぱりハーグリーブスちゃんだ!」


 ベシーが嬉々として再びその名を呼ぶと、馬もまた返事をするようにして嘶いてから、気持ちよさげに身体を震わせる。


「ベシー、お父さんにもわかるように、教えてくれないかい?」


 驚きを隠せない様子で聞くダニエル商人に、ベシーが得意満面の表情で、その小さな顎を上げた。

「アレックスおじいちゃんの馬小屋にいた、ハーグリーブスちゃんだよ。だって、身体が茶色のなのに、左足の前足のところだけ真っ白なんだもん。それに、あの爪のところ、貝殻みたいできれいなの、おじいちゃん、こういう貝殻みたいな爪のお馬さんは、とっても良いお馬さんだって言ったもん! ねぇ、ハーグリーブスちゃん!」


 僕の馬は、そこでも短く嘶いて、ベシーに答えてみせる。


 僕の方は、さらにアレックス爺さんの名前が出てきたことに驚きながらも、三カ月程前だろうか、二年振りに、王都ブラウニングへ帰った時、確かに馬の名も聞かないで借り受けてきたことに思い当たる。


 そこで、僕は改めて自分の馬の横顔を見つめつつ――


 おまえ、そんな名前だったのかよー。


 と、いう視線を試しに送ってみる。みるが、ハーグリーブスと呼ばれた僕の馬は、僕へと振り返る様子もなく、ただぼんやりと、ベシーの方へとその眼を向けている。


 なんだよー、無視かよハーグリーブスぅ!


 という視線を、もう一度、送ってみたりする。


 ハーグリーブスと呼ばれた僕の馬は、尻尾を、尻へとぴたぴたと叩きつける以外は、やはり、ベシーの方を見て大人しくしている。


「ちっ」と僕の舌打ち。


 とそこで、ハーグリーブスという名前らしい馬は身体の動きを止めると、ゆっくりと僕の方へ馬首を巡らせてから――


 ばぁふううっっっっっ!


 虚を突いて大きな鼻息を一息。それで、っとなる、僕。


 ぶふふふっふー。


 とは続けて、露骨に歯茎を見せながらの嘶いてみせる、もう確実にハーグリーブスという名であろう、僕の馬。


 ……ぬう。


 そう、声にならない呻き声を僕が漏らしたところで、ベシーの誇らしげな声が上がる


「だから、あのお兄ちゃんは、ベシーみたいに、おじいちゃんとお友達なんだよ! だっておじいちゃん、ハーグリーブスちゃんのこと、大好きだって言ってたもん!」


 そう言ってベシーは、父親の腕を何度も引っぱっている。ダニエル商人も、娘の話に頷きながら、愛おしそうにその頭を撫でてていたが、やがて立ち上がると、僕へと向き直り、言葉を選ぶようにして口を開いた。


「……娘の話が本当だとすると、サミュエル殿、いえ、サミュエルさまは……アレックさまをご存じなのですね?」


 僕は頷く。


「そうです。確かにこの馬は、王都ブラウニングにおられる、アレックス・ムーア卿からもらい受けた馬です。ああ、もっとも僕が知っているのは、熊のような背丈で、顔じゅう白い髭の毛むくじゃらの、ものすごーく頑固な、アレックス爺さんですけどね!」


 言いながら自分が、爺さんの顔を思い返して、思わず笑顔になるのがわかる。


 この馬は、騎士であり素晴らしい馬を育てる、アレックス爺さんが僕にあてがってくれたものだった。それに、そもそも知っているも何も、僕の馬術の基礎は、小さい頃にアレックス爺さんから教わったもので、馬術に限らず、その他のことでも沢山のことを、僕はアレックス爺さんから教えてもらった。血こそ繋がってはいないが、僕にとっては、本当の祖父のような存在の人なのだ。


「そうでしたか! アレックスさまのお知り合いでしたか!」


 なにか、合い言葉のようになってしまったけれど、聞いたダニエル商人も、きっと、あの真っ白い口ひげと顎ひげに覆われた、あの笑顔を思い出しているのだろう、ベシーから「だから言ったでしょ!」という抗議を受けながら、ダニエル商人の顔も、本来のものであろう優しげなそれに戻ってゆく。


「私は、大変なご無礼をしてしまったようです。改めてお許し下さい、サミュエルさま」


「いえ、こんな森から、突然に出てくる僕の方が悪いのです……」


「で、欲望に負けたのかよ!」


 と、再びトーマスの声と笑い。だが、今度は僕も含めて、ダニエル商人や他の男たちも、釣られるようにして笑ってしまう。


 それでダニエル商人は、僕を、自分たちの張った天幕の方へと案内してくれる。


 えん罪も晴れたし、ありがとう、アレックス爺さん、こんな所でも、また助けてもらったみたいだ。

 ああそれと、一応、ハーグリーブスにもね、一応!

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