第26話 異変
クーちゃんがようやくぬいぐるみに戻ってきたのは、それから三日後のことだった。朝、学校に行く途中、イリスがマリーちゃん問題の顛末を話すと、クーちゃんは自分のことのように喜んでくれた。
「よかったな。マリーを救うことができて」
「お母様を、真似したの」
愛とは何か。その答えは案外イリスの身近なところにあった。お母様からの愛だ。
イリスは幼いころ、よくお母様にぎゅうっと抱きしめてもらったものだった。さみしいときや、つらいとき、イリスはお母様に泣きついた。怖い夢を見たあと、友達と喧嘩したあと、おねしょしたあと、いたずらをしてお手伝いさんに叱られたあとなどは、特にそうだった。そのたびにお母様はイリスを抱きしめて、お母さんはいつでもイリスの味方ですよ、イリスがどんなになったってお母さんはイリスのことを嫌いになったりしませんからねと、優しい声で言ってくれたものだった。
イリスはそんなお母様からの愛情表現を不意に思い出し、ああこれが愛だったんだと、あるときぴぴんとひらめいたのだった。思い返せば、イリスが日頃からクーちゃんにハグしているのだって、実は無意識のうちにお母様を真似たものだと言えた。
お母様は、イリスを抱きしめるばかりでなく、必ず頭を撫でてもくれた。お母様は頭を撫でるときには決まって、「よしよし」とか「いい子いい子」という言葉をかけてくれた。イリスは頭を撫でてもらうのが大好きだった。脳が直接、愛のパワーでめろめろに刺激されてるみたいな気分になれたからだ。
かくしてイリスは、愛についての一つの結論に到達した。愛とはどうやら、肉体の接触を通じてひしひしびんびん伝わるものであるらしい。だからイリスは、マリーをきつく抱きしめて、愛を注ぎ込んだ。そして呪文を唱え、マリーを癒やしで包み込んだ。
「なるほど、お母さんの愛情表現を参考にしたわけか。よくやった、イリス。成長の賜物だな。魔法もだいぶ上達しているみたいで、何よりだ」
「うん、ありがとクーちゃん。でもね、ちょっと問題が」
イリスがそう言いかけたときだった。
「イリス様。イリス様。イリスさまああ!」
イリスの名を叫ぶように呼びながら、こちらへと全速力で走ってきたのは、マリーだった。イリスたちに追いついたマリーは、イリスの腕に絡みつくように身を寄せて、目を閉じ、恍惚の表情を浮かべた。
「ああ、イリス様、イリス様……。今日も一緒にいられて、あたし幸せです……」
マリーの言動に一瞬呆気にとられていたようすのクーちゃんが、呟いた。
「……やけに、好かれているみたいだな。まあ、なかよくなれてよかったじゃないか」
「のんきなこと言わないでよクーちゃん。なんかこれ、絶対、おかしいよ」
「おかしいって、何がだ」
「何がだ、じゃないよクーちゃん。見たとおりだよ。マリーちゃんが、ちょっとおかしくなっちゃったの。それがね、聞いてよクーちゃん」
治療を終えたあとも、マリーの精神状態は不安定になりやすく、いつまた自傷行為に及ぶかわからない状態だった。
マリーは、ピアノの練習が丸一日できていないという、たったそれだけのことであっても、心が不安で満たされ、パニックに陥りそうになった。こんなに練習していなかったら、ピアノの腕が落ち、次のレッスンのときにピアノの先生に怒られてしまうかもしれない。そんな不安がよぎるともうマリーは駄目になり、ナイフを手に取って、手首を切りたくなる衝動に駆られた。衝動を抑えるには、手段は一つしかなかった。イリスの魔法による治療だ。
だからイリスは、クレープ屋さんで治療した日の翌日も、マリーを抱擁し、呪文を唱えた。
異変が起きたのはさらにその翌日のことだった。マリーが、イリスのことを「イリス様」と呼び始めるようになったのだ。マリーは、イリスとその魔法のことが好きで好きでたまらなくなってしまったらしく、尊敬の眼差しでイリスに接するようになった。
マリーは、毎日、四六時中、イリスの側にいないと気が済まないらしかった。イリスとのスキンシップだけが生甲斐だと思えるようにもなってしまったみたいだった。事実マリーは、休み時間や給食の時間など、暇さえあればイリスの側にやってきて、身体をぴったりと密着させるのだった。一緒に登下校するようになり、その道中にもマリーは、イリスの腕にしがみつき、自分の身体をイリスに擦りつけるようにして歩いた。
マリーは、いつでもイリスと一緒にいないと不安で不安でたまらなくなってしまうようで、イリスがトイレに行くのにも必ず毎回ついてきて、個室にまで一緒に入ってくるようになった。おしっこしてるところを見られるのが恥ずかしくて、イリスは、さすがにおトイレは一人でしたいよと言ったのだが、マリーは、
「お手伝いをさせていただきますので、どうかご容赦を。決してご迷惑はおかけいたしませんから」
と言って、断固として譲らなかった。その言葉どおりマリーは、トイレでのイリスの一挙手一投足を手伝った。こうして、お花摘みの最中にイリスの下着を脱がせたりお尻を拭いたりするのは、すっかりマリーの仕事になってしまった。
しばらく黙ってイリスの話を聞いていたクーちゃんは、なるほど、よくわかったと言い、マリーの身に何が起きたのかについての仮説を提示し始めた。
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