第25話 成功

 それから翌日のこと、イリスはたっぷり二時間はかけて、「愛とは何か」「恋とは何か」という哲学的大問題についての思索に没頭し、マリーちゃん問題に解答を出そうと頭を捻り続けた。愛や恋についての思索に没頭したといっても、せいぜい、王子様とお姫様が繰り広げる愛と恋の物語を妄想することくらいしかできなかったが、イリスにはそれが精一杯だった。頭のよくないイリスにとって、マリーちゃん問題はとてつもない難問だった。それは絵のないジグソーパズルを解いているかのようであり、あるいは解なしの二次方程式を前にして解をむりくり求めようとしているかのようでもあり、イリスは何度も立ち止まり、行きつ戻りつしながら、答えを探し求めた。


 答えがなかなか出ないので、やっぱりクーちゃんからアドバイスもらっちゃおっかなとイリスは考えた。

 だが、またしてもぬいぐるみから魂が抜けていて、クーちゃんは動かなくなっていた。まったくもう、大事なときに限っていなくなっちゃうんだからあとイリスは憤慨しつつ、孤独に解を求め続けた。


 クーちゃんがいなくなるのは、もうこれで五度目だった。最初こそクーちゃんがいなくなったときはとても不安になったものだが、いまとなってはクーちゃん消失はごくありふれた日常の一部でしかない。だからイリスは、クーちゃんが突如いなくなっても、以前ほどは動じないでいられた。


 そうは言ってもイリスは、クーちゃんがいないと、心にぽっかり穴ができたみたいに寂しい気持ちにはなるのだった。


 近頃のイリスは、ますますクーちゃんのことが手放せなくなっていた。特に、ベッドでお休みするときにはクーちゃんは欠かせなかった。イリスは、クーちゃんを抱いて寝ないと、ぐっすり眠ることができないようになっていたのだ。クーちゃんがつねに側にいないと、イリスは安心できなかった。


 ぬいぐるみから魂が抜ける時間帯はばらつきがあり、朝方のときもあれば、夕方のときもあった。魂が戻ってくるタイミングも一定せず、魂が抜けたその日のうちに戻ってくることもあれば、二日経ってようやく復活することもあった。


 魂の定着が難しいんなら、もっとそれの練習してよね、クーちゃんだってもっとあたしと一緒にいたいでしょとイリスはたびたび不平を漏らした。しかし、クーちゃんは、悪魔にもできないことはあるのだとの一点張りだった。イリスは、クーちゃん消失現象に関しては我慢せざるを得なかった。


 だからイリスは、このときも、クーちゃんがいない寂しさをぐっとこらえて、マリーちゃん問題に孤軍奮闘した。


 苦労の甲斐あって、ついにイリスは自分なりに一番しっくりくる答えを見つけることができた。果たしてこの答えが、百点満点の正解だったかはわからない。しかしイリスは、あたしの答えは絶対合ってるもん、先生に赤ペンで採点してもらったらきっと大きな花丸がもらえちゃうはずだもんと思えるくらいに、確信めいたものを感じていた。


 自分なりの答えを見つけた次の日、イリスは、新作が出たらしいから食べに行こうよと、再びマリーをクレープ屋さんに誘った。


「まあ、いいけど。またあなたが奢ってくれるなら」


というのがマリーの返事だった。よかった、とイリスは安堵した。先日のクレープ屋さんでの一件以来、マリーちゃんに嫌われてしまったのではないかと、この数日間イリスは気が気でならなかったのだ。どうやらそれは杞憂のようだった。


 クレープ屋さんでは前回と同様、屋外の席に向かい合わせで座った。しばらく二人はクレープを黙々と食べ進めた。


 三分の一ほど食べたところで、イリスは自分の見つけた答えを実行に移した。


「あのとき、マリーちゃん、言ってたよね。自分はすごくなんかないって。何をやっても中途半端で、結果を残せなくて、駄目駄目で、生きる価値のない人間なんだって」


「それがどうかしたの」

「確かにマリーちゃんの言うとおりだって、あたしも気づいたよ」

「え?」


「あたし、わかったの。マリーちゃんの言いたいこと。もっと頭いい人はいくらでもいるし、もっとスポーツができる人だってわんさかいるし。上には上がいるもん。だから、マリーちゃんの言ってたことは、合ってたのかもしれない。マリーちゃんは、ほんとのほんとに、駄目駄目で、生きる価値なんかないのかもしれない」


 マリーは目を丸くし、口をぽかんと開けた。それから口を閉じつつじわじわ眉間に皺を寄せた。皺を寄せきったところで、声を荒げて言った。


「どういうつもり。この前はやけに褒めちぎったかと思ったら、今度は悪口だし、意味わかんない。あなたにあたしの何がわかるのよ。もういい。もうあたし、帰るから」


 マリーはわなわな肩を震わせて立ち上がり、イリスに背を向けた。マリーがその場から離れようと一歩足を踏み出す直前、イリスは椅子から勢いよく立ち上がって大声を出した。


「待って」


 マリーが振り返った。

 イリスはマリーに駆け寄り、正面から強く抱きしめた。


「最後まで聞いて。マリーちゃん。あのね、あたしね、それでもね。あたしは、マリーちゃんが好き。どんなマリーちゃんも、あたしは好き。成績が下がったって、運動音痴になったって、怪我でお顔が傷だらけになったって、どんなマリーちゃんも、あたしの好きなマリーちゃんだから。生きる価値なんかなくったっていい。価値がないと、生きちゃ駄目なの? あたしだって、お馬鹿さんだし、一人じゃなんにもできないし、生きる価値なんかすっごい低い。でも、生きてる。生きてていいんだよ。だから、もう、自分を傷つけないで。マリーちゃんが傷つくと、あたしが悲しいの。だからお願い」


 イリスは、クーちゃんから教えてもらったとっておきの癒やしの呪文を、ここで唱えた。「痛いの痛いのとんでいけ」と同じく、多くの人々によってよく使い込まれてきた呪文であり、効き目は折り紙つきだった。それは、こんな呪文だった。


「よーしよし。いい子、いい子」


 呪文を唱えながらイリスは、マリーの頭を優しく撫でた。

 首尾よく魔法が発動した。

 マリーは愛の光に包まれた。

 神々しい柔らかな光だった。


 魔法による治癒が完了した直後、マリーはわんわん声を上げて泣き始めた。ぽろぽろと大粒の涙を流して、イリスの胸に顔をうずめた。


 イリスは、マリーの気が済むまで泣かせてあげた。涙が落ち着くまで、ぎゅっとマリーを抱きしめて、頭をよしよし撫で続けた。


 やっとマリーの感情が少しずつ落ち着いてきたところで、イリスは着席するよう促した。

 二人は再び、向かい合わせでテーブルについた。

 洟をすすりながら、マリーは滔々と自身の境遇を語り始めた。


 マリーは、親が厳しいので学校でも家でも優等生を演じ続けなければならず、心を休ませる余裕が片時もなかったのだという。日頃から一つ違いの姉と比較されることが多く、過度にプレッシャーを感じながらマリーは成長してきた。しばらくは根性で乗り切れていたものの、それで何とかなったのは九歳ごろまでだった。

 進級したタイミングで、通っていた塾の授業レベルが急激に上昇した。いま思えばこれが心が不調を来す遠因の一つだった。塾の宿題は難しいうえに量が多くなり、大変な負担となってのしかかってきた。

 だがマリーはこの負担に耐えた。睡眠時間を削ってまで勉強し、どうにか宿題をこなしたのだ。大抵の場合、宿題を終わらせるためには一週間のうち二、三日は夜更しする必要があった。黒々とした夜のお空でお星様がきらきらまたたき始めてから、おてんと様がおはよう今日も元気かいとでも言いたげな輝かしい顔を地平線の下からひょっこり出すまで、ぶっ続けで勉強することさえあった。

 マリーは、前々から過剰なストレスにより不眠気味で、ベッドに潜り込んだまま眠れぬ夜をすごすことも多かった。だから、徹夜でのお勉強は、マリーにはそれほどつらくなかった。何もせずにベッドで悶々とすごすよりは、教科書を開いて手を動かしていたほうが気が楽だった。

 早寝早起きを命じられていたから、ほんとは夜更しなんかしちゃ駄目だった。しかし、宿題が難しくて解けないなどと言って弱音を吐く姿を見られたくなくて、両親が寝静まったころ、深夜にこっそり起き出して、頭から冷水を浴びて、寝不足気味の脳を強引にしゃっきり覚醒へと導き、せっせこせっせこ勉強に励むのだった。


 しかしマリーは運が悪かった。ある日、マリーは両親の都合で引っ越しをすることになり、それに伴って転校を余儀なくされた。転校したことをきっかけに、マリーは心を病んだ。転校先の学校という新たな環境へ適応するために必要な心の余裕を、マリーは欠いていたらしい。なかなか学校で新しい友達が作れず、焦燥に駆られ、そうこうしているうちにもろもろのプレッシャーで勉強が手につかなくなって、人生で初めて試験で赤点を取った。親の期待に沿えぬ自分に嫌気が差した。

 段々と生きていくのが嫌になり、なかば死ぬつもりで、ナイフで手首を切った。妙に心が落ち着いた。血が流れ出すのを見て、何か肩の荷が下りたように楽になった。成績はみるみるうちに改善したし、親友とまでは言えなくとも、気さくに話しかけられるクラスメートは何人かできた。以来、マリーは毎日のように自傷行為に及ぶようになった。傷ついていないと逆に不安だった。

 だからイリスに勝手に傷を治療されたときには、わりとかなりむかついた。勝手にあたしの唯一の癒やしをぶんどらないでよ、あなたの価値基準を押しつけてこないでよと思った。

 だが、そんな生活も今日で終わりになりそうだ。

 だって。


「だって、あなたのおかげであたし、もう自分を傷つけなくても生きていけそうだから」


 マリーは、イリスに初めて笑顔を見せた。まるで純白の天使が見せる笑顔のようだった。

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