第24話 少年

「先生、こっちです! 早く! こっちです!」


 やや遠くのほうから声が聞こえた。おそるおそる目を開けたイリスが見たものは、ハーフエルフの慌てる表情だった。


 ハーフエルフの目線を追って、路地の向こうのほうを向くと、一人の男の子が大声を上げているのが見えた。男の子は、こっちです、早く、こっちです先生と叫んで、誰かを手招きで呼び、イリスたちのところに連れてこようとしているみたいだった。


 ハーフエルフたちは舌打ちをし、今日のところはこれで勘弁してやると言い残して、走って逃げていった。


 イリスはへなへなとしゃがみ込んだ。極度の緊張が一気に解けたせいか、足に力が入らなかった。猿轡を外し、弱々しい声で呪文を唱えて、どうにか、殴られたときの痛みはすべて空中に飛ばすことに成功した。痛みはすっかり消えたが、心臓のどきどきは止まらなかった。


「よかった、無事で。怪我、大丈夫?」


 路地の向こうで叫んでいた男の子がこっちに近づいてきて、イリスの顔を覗き込んで言った。イリスは男の子の顔をまじまじと見た。どこかで見たことのある顔だった。


 イリスは、あっ、と声を上げた。先日イリスが治癒してあげた男の子だということに気がついたのだ。二日後にサッカーの試合を控えながら、練習中に捻挫をしてしまったという、あのサッカー少年だ。治療のあと、このサッカー少年から何度も感謝の意を伝えられたことをイリスは思い出した。


 魔法で回復したから、怪我はもう大丈夫だと、イリスはサッカー少年に伝えた。しかし、力はまだうまく入らない。イリスはサッカー少年に手を貸してもらい、ふらふらと立ち上がった。サッカー少年は、大変だっただろう、近くに公園があるから、そこのベンチに座ってしばらく休むといい、などと言って公園に案内してくれた。


「これ、君の荷物でしょ? 拾っておいたよ」


 サッカー少年は公園のベンチに座ると、イリスのかばんを手渡してくれた。イリスは、ハーフエルフに捕らえられたとき、かばんを道に落としてしまっていたのだった。かばんにつけっぱなしにしていたクーちゃんのようすを慌てて確認したが、少々砂埃を被っているほかはいつもと変わりなかった。よかった。クーちゃんは、無事だったようだ。


 クーちゃんは、学校の生徒たちには正体がばれぬよう、ふだんはだんまりを決め込んでいた。イリスとしては、別にぬいぐるみにクーちゃんが入ってることがばれたって一向に構わなかったが、クーちゃん本人の希望は、なるべくなら正体は隠しておきたいというものだった。いちいち悪魔のこととか魂の定着のこととかの説明を求められても面倒だし、正体がばれずに済むならそれに越したことはないというのが、その理由だった。そのためいまもクーちゃんは口をつぐんだままだったが、確かにぬいぐるみが息づいていることはイリスにはわかった。


 イリスは、かばんから水筒を取り出して、水を飲み、呼吸を整えた。そして言った。


「ありがとね、助けてくれて」


 サッカー少年は、爽やかな笑顔を浮かべた。


「いいよいいよ、お礼なんて。君に捻挫を治療してもらったとき、いつかきちんとお返しするって言っただろ。その約束を果たしただけさ。古典的な方法でうまくいくかヒヤヒヤしたけど、うまくいってよかったよ」


 古典的な方法とは、はったりのことを言っているのだと、サッカー少年は解説した。


 サッカー少年は、学校から帰宅途中、女子生徒のものと思しきかばんが道端に落ちているのに気づき、事件の匂いを嗅ぎ取ったのだという。近くの路地裏を覗き込むと、ハーフエルフがイリスを襲っているのがちらと見えた。そこで機転を利かせ、咄嗟に猿芝居を打ってイリスを救助した、というのが事のあらましのようだった。先生なんか、ほんとはどこにもいなかったが、ハーフエルフを追い払うために嘘をついたのだった。暴力沙汰に首を突っ込むのは少し怖かったが、怪我の治療でお世話になったイリスを助けるためならがんばれたと、サッカー少年は語った。


 あたかも先生がすぐそこにいたかのような迫真の演技に、イリスは感心した。


「それにしても、君が無事で本当によかったよ。まったく、この学校は、いろいろと危険が多すぎる」

「学校、危ないの。あたし、このまま通い続けてて大丈夫かな」

「ああ、いやいや、それは大丈夫。ごめん、話を先走りすぎたみたいだ。この学校の秘密については、そのうち、詳しく教えるよ。いまはまだ、早い。……そうだ。これ、あげるよ。疲れが取れる」


 サッカー少年は、自身の背負うリュックから、銀紙に包まれた粒状のチョコレートを三つ取り出し、渡してくれた。かわいらしいハート型のチョコレートだった。


「いいの? もらっちゃって」

「もちろん」

「いろいろ優しくしてくれて、ありがと」


「何言ってるんだよ。お互いさまだろ。君の治療のおかげで、あのあと、ちゃんとサッカーの試合に出ることができたんだ。試合には勝てたよ。全部、君のおかげだ。これからも、よろしく頼むよ。お互い、助け合おう」


 サッカー少年はここで言葉を切り、すっと立ち上がった。


「じゃ、また何か困っていることがあったら、いつでも言って」


 サッカー少年が帰ろうとするのを、イリスは慌てて引き止めた。


「待って。それじゃあ、いま、一つだけ聞いてもいい」

「いいよ。なんでもどうぞ」


 イリスは、マリーちゃん問題という難問を抱えていたことを思い出したのだ。この男の子なら何かヒントをくれるかもしれないと思い、イリスはそれとなく尋ねてみた。


「勉強ができて、スポーツもできて、きれいなお顔をしてて、性格もよくって、何一つ不自由ない生活を送ってて、それなのに自分が嫌いな人がいるとして、その人は、なんで自分が嫌いなのかな」


「何それ? なぞなぞか何かかな」

「まあ、そんなとこ」


「うーん。そうだなあ。あくまで僕個人の想像だけれども、その人は、一見何もかも手に入れているように見えて、その実、肝心なものを手に入れることができていないんじゃないかな。だから、どこか心が満たされない感じがして、毎日がつらく悲しいものになって、劣等感に苛まれて、しまいには自分のことが嫌になっちゃうんじゃないかな」


「その、肝心なものって」

「愛だよ。無償の愛さ」

「愛?」

「……なんてね。ちょっと、かっこつけすぎたかな。じゃあ、僕はこれで」


 公園の街灯に照らされながら、サッカー少年は背を向け、ゆっくりと歩き去っていく。サッカー少年の背中で揺れるリュックをなんとなく目で追いながら、イリスは考え込んでしまった。愛が肝心だというのはほんとなんだろうか。マリーちゃんには、愛が足りないってことなのだろうか。でも、愛って何? 愛。愛。愛。抽象的すぎて、掴みどころがない。「恋愛」なんて言葉もある。愛と恋はよく似たお友達同士みたいだ。では、愛と恋の違いってなんだろう。恋する女の子はいつだって輝いてる、なんていう文句を聞いたこともある。すると、マリーちゃんが欲しているのはむしろ恋なのか。恋してないから、塞ぎ込んでしまっているのか。でも、恋ってなんだろう。イリスは、ぐるぐる考えているうちに、頭がぼうっとしてきた。知性の減退が進んできているせいか、小難しいことを集中して考える力が失われてきた気がする。


 駄目だ駄目だ、考えたってなんにもわかんないよ、考えるのはやめだ、やめやめとイリスは思い、ベンチから立ち上がった。そういえば、お母様を心配させまいと、今日は早く帰るつもりだったのだ。


 イリスがチョコレートを一粒口に含み、かばんを持って家へと歩き始めたとき、クーちゃんが独り言のように呟いた。


「あの少年、どこかで見たことがあるような……」

「さっきの男の子のこと?」


 イリスはチョコレートをもぐもぐしながら言った。甘ったるいミルクチョコレートで、イリス好みの味だった。


「あたしが捻挫を治してあげた男の子だよ。そのときに見たんでしょクーちゃん」


 クーちゃんはいつもかばんにつけっぱなしの状態だ。だから、イリスが保健室の前で魔法の修行をしていたときには、クーちゃんはかばんとともに教室にいたはずだった。クーちゃんがサッカー少年を見たことがあるにせよ、それは、治療の際ではないはずだった。


 だが、イリスがこの事実に気づくことはなかった。そもそもクーちゃんの他愛ない独り言など、イリスにとってはどうでもよかったのだ。


 そんなことよりも、もっと重要なことを忘れていることに、イリスはいまになって気がついた。イリスは、サッカー少年にもう一つだけ聞きたいことがあったのだ。もう一つだけ聞きたいこと、それは名前だった。あのサッカー少年の名前を、イリスは無性に知りたくなっていた。

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