第22話 思案
「マリーが何を欲しているのか、よく考えてみろ。客観的には、マリーは間違いなく優等生だ。そのことは本人も自覚しているだろう。同級生から羨望の眼差しを向けられていることも、多かれ少なかれ自覚しているはずだ。ゆえに、運動神経がいいだの、成績優秀だのと、聞き飽きたような言葉をお前さんから言われたところで、マリーの心の空洞は埋まりはしないだろう」
これが、今回の作戦が失敗した要因についての、クーちゃんの見立てだった。
「要するに、マリーが欲しがっているものは、褒められることではないということだ。マリーの心のうちをよく想像してみるのだ、イリス」
マリーを怒らせてしまった翌日、イリスは図書室の奥のほうにある、いつもの席に来ていた。マリーちゃん問題の件について、クーちゃんに再び相談するためだ。
マリーちゃん問題とはイリスの命名によるもので、マリーの心の傷をいかにして癒やせばよいかという目下の最重要問題のことを指す。
あたしがマリーちゃんの立場だったら、何が欲しいと思っただろうと、イリスは考えを巡らせた。だが、何も浮かんではこなかった。
「ねえ。ほんとはわかってるんでしょクーちゃん。マリーちゃんが欲しいもの。もったいぶらずに、教えてよ」
「いくらイリスの頼みでも、それはできない」
「何よお。クーちゃんのけちんぼ」
「いや、そうじゃない。残念ながら私にもわからないんだ。マリーが本心では何を欲しているのか。何が原因で心に傷を負っているのか。私にも預かり知らぬことだ。私はただの悪魔であって、
「そんなあ」
「悲観することはない。想像力を鍛えた成果を、ここで発揮すればいいだけのことだ。想像なら得意じゃなかったのか、イリス。マリーの心の動きを、よく想像してみることだ」
そんなことを言われても、イリスには、わかんないものはわかんないのだった。第一、村を襲う悪のドラゴンの姿を想像するのと、マリーちゃんの心のなかを想像するのとでは、同じ想像するのでも難易度がまるっきり桁違いじゃないかと、イリスは文句を言いそうになった。
しかし文句を言っても始まらない。いま、できることをしなくっちゃと、イリスは考え直した。
そこでイリスは、せっかく図書室に来てるんだもん、ちょっとくらいいいよねと自らに言い聞かせ、小説を読むことに決めた。マリーちゃん問題があまりにも解決困難であるがゆえの、なかば現実逃避の行動ではあった。
だが小説を読めば想像力が鍛えられるはずだし、想像力が鍛えられればマリーちゃんの心についてもやがては想像できるようになるに違いないのだと自分に言い訳をして、イリスは御本を開き、小説の世界に逃げ込んでいった。
魔法の力を手に入れる以前、心が唯一休まるのは、図書室で本を読んでいるときだったということを、イリスは小説を読みながらふと思い出していた。
図書室は、イリスにとって聖域みたいなものだった。図書室では、暴力を振るわれることなく、好きな本に熱中することができたからだ。図書室では静かにしていなければならない決まりで、いじめっ子たちもその決まりに従わざるを得なかった。もしもその決まりを破ろうものなら、図書室のカウンターには常駐している司書の先生に、すぐに見咎められてしまったに違いない。だからいじめっ子たちは、図書室にまで来てイリスに暴力を振るうことは絶対になかったのだ。図書室は、平和で安全な非戦闘地域であり、武力衝突の起こりえぬサンクチュアリーだった。
特にイリスが座っているこの最奥の席は、そうだった。ほとんどの人はこんな場所にひっそり席があることさえ知らなかったので、この席はイリスだけの隠れ家みたいな感じだった。
この隠れ家で小説を読む時間だけが、イリスの学校生活のなかで唯一の憩いの時間だった。イリスは昔から本が大好きだった。
幼きころのイリスは絵本をよく好み、頻繁にお母様のところに絵本を持って行っては、読んで読んでとせがんで、読み聞かせをしてもらっていたものだった。それでも読み足りなくて、お屋敷の本棚にあった絵本を片っ端から取り出しては一人で読みふける日々を送っていた。
字の読み書きを習ってからは、字ばっかりの本もよく読むようになった。特にファンタジー小説が好きだった。
学校に通い始めてからは、馬鹿にされたり暴力を振るわれたりするつらいつらい現実から目を背けるために、図書室に籠もってファンタジー小説を読む時間が日ごとに増すばかりだった。ファンタジー小説を読んでいるときだけは、イリスはこの世の諸悪から解き放たれ、自由な世界を謳歌できた。物語に没頭することによってイリスは、姫君や聖騎士や吟遊詩人らとともに、いじめや暴力とは無縁の理想的世界に住まう住民の一員となることができたのだ。
やがて、ただ読むだけでは満足できないようになり、自分でも物語を作るようになった。図書室に籠もり、王子様とお姫様とがロマンチックな恋に落ちる物語をいくつも空想しては、ノートにしたためた。字だけではなく、挿絵を自ら手掛けることもあった。一貫した筋書きなどというものはなく、ただひたすらに妄想を書き殴っただけの代物だった。要するに落書きみたいなものにすぎなかったのだが、イリスは自分が書いた物語が大好きだった。たびたびノートを見返しては、あれこれ妄想に耽ってにやにやし、胸をきゅんきゅんきゃぴきゃぴときめかせて、イリスは一人楽しんでいた。
空想が魔法の訓練になるということをクーちゃんに教わってからは、イリスの空想にはますます拍車がかかるようになった。勉強する意味がなくなったので、イリスは授業中も先生の話を一切合切ぜえんぶ無視してあらゆることを妄想し続けた。授業中、イリスの頭のなかは、つねにお花畑が広がっているような感じになっていた。白昼夢を見ることさえ珍しいことではなくなった。
魔法の契約のせいでそもそも知的能力が減退に向かっていたことに加え、授業も真面目に受けず宿題もしないようになったために、イリスの成績は劇的に降下した。学生の本分は勉強だとかいう古臭い教条に照らして考えれば、成績の低下はまったくもって理想的な事態とは言えなかったが、そんなことはイリスはお構いなしだった。お母様の病気を治すのに勉強は不要だったのだし、それにひとたび妄想に耽りさえすれば、嫌な現実のことなど忘れてしまえたのだから。
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