第19話 自傷

 何もかも、クーちゃんのおかげだった。クーちゃんと出会っていなければ、魔法は使えなかったし、学校に行くのはいまも苦痛でしかたなかったろう。


 だからイリスは、日頃からクーちゃんへの愛情表現を欠かさなかった。


「ぎゅー」


 そんな擬音を声に出して言いながら、イリスはクーちゃんを毎日ハグしていた。


「何度言ったらわかるんだ。恥ずかしいと言っただろう」


 今日もいつものようにハグしていると、これまたいつものように、クーちゃんがわめいて暴れて抵抗してきたので、イリスは口を尖らせた。


「そんなに恥ずかしがらなくていいのに。だって、誰にも見られてないよ」


 イリスの言うとおり、確かに誰にも見られてはいなかった。イリスたちは、図書室の一番奥まったところの席についていたからだ。


 この席は、本棚の死角に隠れる形になっていて、ふつうの人ならこんな場所に席があることすら気づかないだろう。図書室に毎日出入りしているイリスだからこそ、この席を発見することができたのだ。席の周りにある本棚には、古くて小難しい文学作品が多く配置されていて、席の周辺に近寄る生徒はほとんどいなかった。カウンターにいる司書の先生からも、もちろんこの席は見えない。


 イリスはこの席を発見して以来、隠れ家みたいだと思って、心を休ませたいときや考えごとに耽りたいときに活用していた。近くには別の席はなく、少々音を出しても周りに迷惑はかからなかった。だからイリスは、お気に入りの詩を音読したり、鼻歌を歌いながら小説を読んだりすることもあった。今日も、クーちゃんと喋っていても怪しまれないだろうと踏んで、ここにやってきたのだ。


 どうしてこういう隠れ家的な席が設置されているのかは不明だが、この席だけ妙に古めかしいので、おそらくは昔、図書室に配備されていた文机の一つなのだろうと思われた。なんらかの理由で処分されずに一人残されてしまったこの文机は、行き場を失い、放浪したあげく、奥のほうの邪魔にならないスペースにひっそりと身を落ち着けることにしたのだろう。そんなふうにイリスは想像した。


「人間には見られていないが、悪魔には見られているかもしれない。だから恥ずかしいと言っているのだ。こんな情けない姿を他の悪魔に見られたら、私の沽券に関わる」


「こけ……?」


「まあいい。だいたい、図書室に来たのはこんなことをするためではないだろう。相談があるんじゃなかったのか」


「そうだった」


 イリスはクーちゃんをぱっと手放して、こくんとうなずいた。クーちゃんは、机の上にぽすんとお尻から着地した。


 相談というのは、マリーという少女の治療方針についてだった。


 イリスはここ最近で、数多くの怪我人の治療に携わってきた。どの治療も軒並み成功を収めてきた。擦り傷や切り傷はもちろんのこと、火傷、捻挫、突き指、ぎっくり腰、骨折などについても、治療を成功させてきた。


 ところが、マリーの怪我だけは、どうしても治すことができずにいたのだ。イリスはほとほと困り果てていた。


 マリーの治療を最初に行なったのは、五日ほど前のことだった。


 そのときは、マリーの怪我はそんなに大したことないと思っていた。傷自体はそれほど深くはなく、致命傷でもなんでもなかったから、治癒そのものはイリスにとってなんら難しいものではなかった。呪文を唱えれば、たちどころに傷口を塞ぐことができたのだ。


 しかし、事態はそう単純ではなかった。


 イリスはこの五日間、毎日のようにマリーの怪我を治してきた。なぜなら、マリーは毎日怪我を負っていたからだ。怪我はいつも同じで、左手首の切り傷だった。だが、治療しても治療しても、マリーは明くる日には同じところに怪我を作ってくるので、きりがなかった。マリーが左手首に血の滲んだ包帯をしていない日はなかった。


 マリーは、イリスと同じクラスの女の子だ。奥ゆかしい性格のためか、マリーのほうからイリスのもとに来て治療をお願いするといったことはなく、しばらくのあいだイリスはマリーの怪我に気づいてあげられなかった。

 実のところマリーは、イリスが魔法の力を手にするよりもはるか以前から左手首に怪我した状態が続いていた。もっとも当時のイリスには、マリーが怪我してるなんてことに気づく余裕はあろうはずもなかった。当時は、自分のことを考えるので精一杯だったのだ。


 イリスがマリーの傷の存在に気づくことができたのは、つい最近、近くの席の男子たちがマリーについての噂話をしているのを耳にしたときだ。彼らは無責任にも、マリーは邪悪な悪魔か精霊にでも取り憑かれたせいで、左手首から血が止まらなくなってしまったのだとか、一つ違いの姉から嫉妬されて毎晩ナイフで切りつけられているのだとか、そんな仮説を立てて楽しんでいた。


 マリーの怪我に気づいてからというもの、イリスはマリーが気になってしかたがなくなった。マリーの血の滲む包帯があまりにも痛々しくて、イリスはあるときついにマリーの元へ自ら赴き、傷を治してあげた。


 さも感謝されるかと思いきや、反応は真反対だった。マリーは、舌打ちし、ぷいとそっぽを向いてしまったのだ。


 不思議なことに、マリーは次の日も、同じ箇所に包帯を巻いていた。マリーのところへ行って、なかばむりやりに包帯を剥がしてみると、やっぱり痛々しい切り傷がそこにはあった。イリスは慌てて魔法をかけて治療した。ひょっとして、昨日の自分の治療が甘くて、再び傷口が開いてしまったのではないかと思ったのだ。念の為、いつもより時間をかけて魔法をかけ、傷跡が残らぬよう慎重に慎重を期して治癒を完了させた。


 だが、マリーはその翌日にも、また同じ箇所に傷を作っていた。イリスは、めげずに治療し続けた。何度だって魔法をかけるつもりだった。

 しかしそんなイリスの尊い奉仕の精神も、マリーにとっては単なるありがた迷惑でしかなかったらしい。治療を開始してから五日目に、マリーは耐えかねたようにこう言ったのだ。


「もうやめて。あたしに構わないで。意味ないもの。いくら傷を塞いだって、今日の夜にはまた傷ができるんだから」


「どうして。誰にそんなに傷つけられちゃうの。あたしでよければ、相談乗るよ。任せといて。もし、マリーちゃんを傷つけてる悪い子がいるなら、あたし、その子にがつんと言ってあげるから」


 ついこないだハーフエルフを撃退したことで自信をつけていたイリスは、ついそんなことを口にした。万が一、マリーちゃんを傷つける悪者が逆上してこちらに襲いかかってきても、また前みたいに、痛みを飛ばす魔法を使って反撃すればいいのだ。


「……別に、悪い人に傷つけられてるわけじゃないから」


「それじゃ、その傷って」


「自分で切ってるのよ。自分で切りたくて切ってるの。だから、もう構わないでくれる」


 イリスは衝撃を受けた。マリーがイリスのところへやってきて治療を依頼しないのは、奥ゆかしい性格のためなんかじゃなく、自ら率先して自分の手首を切っているからだったのだ。

 自分で自分を切りつけるなんて、そんなことが行為の選択肢に入っているということ自体がイリスには理解できなかった。どうすればマリーが傷つかずに済むのか、イリスにはまったく検討もつかなかった。でも、とにかくマリーが傷ついているというこの現状は、なんとしても変えたいと思った。自分で自分のことを傷つけるなんて、絶対に何かが間違っていると思った。


 それでイリスは、図書室でじっくり腰を据えて、クーちゃんに相談に乗ってもらうことにしたのだった。

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