第18話 修行
眩しい。
妙に明るくて、寒い。
のどが渇いた。それに少しばかり、尿意がある。早く、おトイレに行きたい――。
イリスは目覚めた。
いつのまにか眠っていたようだ。しかし、ふだんとあまりにようすが違う。だって、まず、布団のなかではない。それにここは自分の家ではない。いや、そもそも屋内ですらない。外だ。
寝起きの頭では、すぐには自分の置かれている状況が把握できず、イリスは自分がいまだ屋上にいることに気づくのに、しばらくかかった。
イリスは、屋上の地べたで、毛布にくるまって寝ていたのだ。
「よく眠れたかい、イリス」
クーちゃんの、いつもどおりの落ち着いた声がした。
「あたし、あのあと、いつのまにか寝ちゃってたんだ」
「ああ。急に倒れるからびっくりしたぞ。高度な魔法を使ったから、身体が疲れてしまったのだろう。痛みを敵に飛ばすあの魔法は、実は中級レベルの魔法でね。発動させられるか心配だったが、一発で使いこなしてしまうとは驚いたよ。つい昨日、魔法の使い方を覚えたばかりなのに、イリスの習得ぶりは信じがたいくらいだ」
「そうだったんだ」
ハーフエルフを撃退したあとすぐ、イリスは強烈な眠気に襲われて、ぶっ倒れてしまったのだった。クーちゃんは、イリスを家に運ぶことも一度は考えたが、やはり義務を超えた行為になってしまうことを恐れて、やめたらしい。その代わり、せめてこれくらいはと思って、クーちゃんはイリスに分厚い毛布をかけることにした。おかげで、イリスは身体を冷やすことなく、一夜をどうにかすごしきることができた。
イリスは下へ降りて、学校のおトイレに向かった。用を足し、顔を洗って、それからまた屋上へと戻った。屋上ではクーちゃんが、朝ごはんを用意してくれていた。
昨日、紅茶とケーキをいただいたあの喫茶店風の席で、イリスは朝食を取った。クーちゃんが用意してくれたのは、ミルクと、丸くてもちもちの小さなパン二つと、バターがひと欠片と、コンソメ味のオニオンスープだった。朝日を眺めながら、屋上のテラス席で食べる朝ごはんは、格別においしかった。
朝ごはんに舌鼓を打ちながら、イリスは家にいるお母様に思いを馳せていた。お母様は、イリスが帰ってこないので、きっとすごくすごく心配しているに違いない。イリスが学校帰りにオオカミに襲われたんじゃないか、悪い人に連れ去られてしまったんじゃないかなどと、最悪の事態さえ想像して不安になってもいるだろう。お母様は、不安で眠れず、容態が悪化してしまったかもしれない。お母様の容態が心配だ。
早いとこ、魔法の修行を積んで、どんな病気でも治せる立派な魔女にならなくちゃ。
イリスは思いを新たにし、お皿にまだ一口ぶんだけ残っていたパンを口に放り込むと、ぐいとスープで流し込んだ。
身体が温まり、栄養を取って元気が出てきたところで、イリスは大きく伸びをして、朝の新鮮な空気を目一杯吸い込んで深呼吸した。
お母様には無駄に心配をかけてしまったことだし、今日こそは学校が終わったらちゃあんと家に帰って、お母様に事情を説明しなきゃとイリスは思った。もちろん、すべてを正直に話してしまうわけにはいかなかった。悪魔と契約したこととか、ハーフエルフに殴られたこととか、そうしたことを話せばお母様をもっと不安にさせてしまう。昨晩はお友達の家にお泊まりさせてもらったのだとでも言って、ごまかすしかなさそうだった。
イリスは屋上を後にして下へと降り、早々に教室に向かった。まだ朝の早い時間帯なので、思ったとおり、まだ誰も来ていない。
しんと静まり返った朝の教室で、クーちゃんとイリスは今日の作戦会議を始めた。
「今日から忙しくなるぞ、イリス。魔法の修行を本格的に開始するのだ」
「了解です、クーちゃん先生」
「何をすればいいか、覚えているか」
「んーと。まずは、空想すること、でしょ」
「そうだ。空想については、いまのところよくできている。このまま継続して空想力に磨きをかけるように。授業中や、風呂に入っているときや、夜寝る前など、スキマ時間を有効活用してふだんから妄想する癖をつけるといい。小説を読んで情景を思い浮かべるのも、いい訓練になる」
「うん、わかった」
「もう一つの訓練はなんだったかな」
「もう一つの訓練は、えーと、もう一つの訓練はね……。傷ついた人たちをたくさん癒やして、実践を積むこと」
「そのとおりだ。いまイリスに圧倒的に足りていないのは、実践だ。怪我人を治す訓練を積もう。保健室の前に張り込んいれば、かんたんに怪我人を捕まえることができるだろう。怪我人が保健室のお世話になる前に、イリスが魔法で治療してやればいい」
「それ、いい考えだね、クーちゃん」
休み時間と放課後、保健室の前で待機して、怪我人の治療に従事することにした。
この日は全部で五人の怪我を治すことができた。
一人目はお昼休み中に保健室へとやってきた幼い男の子で、膝小僧を擦りむいていた。
二人目は同じくお昼休みに来た女の子で、肘に擦り傷があった。
三人目は放課後に、やはり膝小僧を擦りむいた男の子が来た。
四人目は、同じく放課後に、ドッジボールで突き指してしまった男の子だ。
五人目は、サッカーの練習中に足首を捻挫してしまったという、イリスと同い年くらいの男の子だった。
擦り傷や突き指を治すのは初めてだったが、どれもきちんと治療することに成功した。最初こそおっかなびっくり魔法をかけていたイリスも、五人目を治すころには医療行為を楽しめるくらいには慣れてきた。要は、頭のなかに癒やしのイメージを浮かべ、傷が治ったときのことを詳らかに思い描いて、最後に例の呪文を唱えればいいのだ。
どの怪我人も、イリスの治療に満足し、いたく感激していた。保健室での治療よりも痛みがなく、しかも一瞬で治ったからだ。
五人目のサッカー少年には特に深謝された。
「ありがとう。すごく助かった」
サッカー少年はそう言って深々とお辞儀した。話によると、二日後に大事なサッカーの試合があり、捻挫で出場できなかったらどうしようと不安になっていたところだったのだという。
「いつか必ず、きちんとお礼させてもらうよ」
「いいよいいよ、お礼だなんて。気持ちだけで、あたし、十分だよ」
「そういうわけにもいかないよ。今日はサッカーの練習で忙しくて時間がないから、今度、改めてお礼させてよ。じゃないと、僕の気が済まない。……それじゃ、また今度」
サッカー少年は再度、
イリスはその後、まっすぐに帰宅し、昨日はお友達とお泊まり会だったの、心配かけてごめんなさいと言って謝った。
お母様はイリスを叱らなかった。お母様には、叱りつける体力すらも、もう残されていなかったのかもしれない。お母様はただ、やんわりとした口調で、今度からはそういうことは事前に伝えるようにと言うだけだった。お母様は、最近めっきりやつれてしまい、喋る声にも元気がなくなってきているようだった。
イリスは、来る日も来る日も、魔法の修行に熱心に取り組んだ。
保健室前での治療行為を続けること一週間、イリスの治療も板についてきた。浅い擦り傷程度なら、気を張って意識を集中させなくても、治癒できるようになってきたのだ。
この一週間で、イリスの医療活動は、みるみるうちに口コミで広まっていった。保健室の先生に手当てしてもらうより早く治ると評判になり、やんちゃ盛りの男子がこぞってイリスの前に列を作るようになった。おかげでイリスは、魔法修行のためにわざわざ休み時間に保健室の前で待機する、なんて面倒なことをしなくて済むようになった。怪我人が、直接イリスのいる教室に来て、治療を求めてくるようになったからだ。
高度な医療技術をもっていることが周りに知られ始めると、イリスは、ほんのちょびっとずつではあるが、周りから一目置かれるようになってきた。いじめられる頻度が減り、代わりに、感謝される回数が増えてきた。イリスは、学校に行くのが以前よりも苦痛でなくなっていた。
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