第17話 打撃

 クーちゃんの目線は、屋上に出入りするための扉に向かっていた。階段をどたどたと駆け上がる音が聞こえた。扉が勢いよく開かれ、三人の男子生徒が現れた。


「こんなところにいるとは思わなかったよ。いけないなあ、屋上に上がるなんて。子供は屋上に行っちゃいけませんって、先生から教わらなかったの?」


 そう言ったのは、三人のなかで一番背の高い男子だった。


 イリスはその顔を見るなり恐怖し、身体がこわばってその場から動けなくなってしまった。


 この男子はイリスをいじめる主犯格の一人で、イリスは前々からよく殴られていたのだった。彼はハーフエルフ、つまり人間とエルフとの混血であり、身体能力に優れていた。だから彼に殴られると他の男子の数倍は痛くて、イリスはいつもこのハーフエルフを警戒していた。


 助けてクーちゃん、あたし怖いよとイリスが囁くと、残念ながら直接手出しはできないのだとクーちゃんは応じた。そもそも、悪魔は人間に対して、義務以上のことをするのは基本的に御法度なのだという。


 イリスにケーキをあげたのだって、ほんとはやっちゃ駄目なことだった。もっとも、ちょっとしたプレゼントをあげる程度のことであれば、まだしも軽い罪だ。これに対して、いくらイリスをいじめから守るためだといっても、クーちゃんがハーフエルフたちに危害を加えることなどは論外だった。もし契約義務に含まれていないことをしてまでクーちゃんがイリスを助ければ、クーちゃんは、悪魔界から永久に追放されてしまっただろう。


 だからイリスはこの窮地を、自力で脱さねばならなかった。


「先生の言いつけを守れないおてんば娘には、お仕置きが必要だよね」


 ハーフエルフが、仲間の男子二人に目配せした。


 イリスは、あっというまに男子二人に両腕を取られ、羽交い締めにされた。ハーフエルフがゆっくり近づいてくる。ハーフエルフは、イリスの下腹部に一発、拳を命中させた。


 強烈な一発だった。イリスはあまりの痛みに顔を歪ませた。


「いいねえ。いい顔だ。おれは、かわいい顔したやつが苦しんでるのを見るのが大好きなんだ。もっと苦しませてやるよ」


 ハーフエルフは、次なる打撃の準備運動のつもりか、肩を回し始めた。


 イリスはこのすきをついて、痛いの痛いのとんでいけ、と呪文を唱えようとした。しかし次の瞬間、ハーフエルフが二度目の打撃をイリスに食らわせた。再び下腹部に強烈な痛みが走る。もう一度、イリスは回復呪文を唱えようと口を開いた。だがまたその直後に、殴られる。これの繰り返しだった。ハーフエルフは四、五秒置きくらいの間隔で腹部を殴り続けた。イリスには、魔法を使う余裕は一切与えられなかった。


 イリスは歯を食いしばって苦痛に耐えながら、ハーフエルフを睨め上げた。それを見たハーフエルフは、にやにやと笑った。


「なんだ。今日は辛抱強いじゃないか。おれのおかげで、根性ついたんじゃないか。感謝しろよな」


 ハーフエルフは拳を振るう手を止めようともしなかった。イリスをサンドバッグか何かだと思っているかのように、躊躇なく殴り続けてくる。最初こそイリスは、腹筋に力を込めて攻撃に耐えていたが、鈍痛と疲労のためか、徐々に腹筋に力が入らなくなってきた。


「苦しめ。苦しめ。くそ女が」


 にやにや笑いを浮かべたまま、ハーフエルフは殴り続けた。少しずつ打撃の間隔が狭まり、殴る力も増してきたのにイリスは気づいた。最初はゆっくり間隔を空けて時間をかけて痛めつけ、終盤に向けてテンポよく激しく拳を打ち込んでいく。それがこのハーフエルフの常套のやり口だった。


 いつもならそろそろ打撃が終わってもいいころあいだった。だが、攻撃の手は止まらなかった。イリスは恐怖した。


 ハーフエルフは、イリスの苦しむ顔を見るのを生きがいにしていただけであって、何もイリスを殺してしまおうなどとは思っていなかったはずだった。だから致命傷を与える前に、ハーフエルフは攻撃をやめるのが常だった。


 しかし、今回は違った。イリスを殺してもいいと考えを改めたのか、それとも今日は特別ストレスが溜まっていたのか。どんな理由のためかはわからないが、ともかくハーフエルフの攻撃は刻一刻と勢いを増すばかりだった。


 痛い。苦しい。嫌。もうやめて。イリスは無駄と知りつつも頭のなかでそう訴えて気力を保ち、殴打に耐え続け、呪文詠唱のチャンスを窺った。


 だが、もはやイリスの気力は限界が近づいていた。


 もう駄目かもしれない。

 ハーフエルフの拳がみぞおちに命中し、あまりの痛みに一瞬息ができなくなったイリスの脳裏にそんな言葉が浮かんだとき、クーちゃんの大声があたりに響いた。


「イリス。このままでは埒が明かない。私に考えがある。呪文を唱えるとき、痛みの塊が相手に飛んでいってぶつかるのを想像しろ。そうすれば相手に攻撃を食らわすことができる」


 それを聞いたイリスはただちに、自分の腹部から痛みが光の塊となって飛び出し、ハーフエルフの腹部へと直撃するさまを思い浮かべた。


 ハーフエルフはどこの誰が発したかわからぬ異様な声に、身を固まらせた。まさか、かばんにぶら下がる小さなぬいぐるみから発せられた声とは、考えが及びもしなかったのだろう。


 イリスは、いまだ、と思い、力の限り叫んだ。


「痛いの痛いのとんでいけ!」


 事態はイリスが頭に思い浮かべたとおりになった。

 イリスの腹部から出現した光の塊が、ハーフエルフのほうへと突進していったのだ。

 あまりに一瞬のできごとだった。ハーフエルフは光の塊をとっさに避けることなどできなかった。


 ハーフエルフが、膝から崩れ落ちた。ハーフエルフは、自分の身に何が起きたのか、瞬時には頭で理解できなかったようで、しばらく無表情でその場にぐでんと転がり、ただ脱力していた。その後、ようやく脳の処理が追いついたようすのハーフエルフは、唐突にお腹を手で押さえ、目に涙を浮かべ、うー、うー、と低いうめき声を上げながら疼痛に苦しみ始めた。


「逃げましょう兄貴!」


 イリスを羽交い締めにしていた男子二人が手を離し、ハーフエルフのもとに駆け寄った。二人はハーフエルフを両脇から支えて歩かせ、屋上から退散すべく出入り口の扉へと向かった。


「覚えてろ。この復讐は必ず果たしてやる」


 ハーフエルフは食いしばる歯のあいだから捨て台詞を吐き残し、イリスの前から去った。


「よくがんばったな、イリス。よくやった」


 クーちゃんの労いの言葉を聞き、イリスはようやっと安堵した。

 同時に、どっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。


 視界が歪み、意識が遠のいていく。


「イリス、大丈夫か。おい。しっかりしろ。イリス。イリス。イリス……」


 クーちゃんの呼び声が遠くで聞こえていたが、声は次第に小さくなって、やがて完全に聞こえなくなった。

 世界が暗転し、すべてが無に帰したようになった。

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