第三章
魔法少女の修行
第16話 菓子
「あのときは、ほんとに大変だったんだよ」
西日の差す放課後の教室の一角で、イリスはかばんを自分の机のうえに置き、そこにキーホルダーでぶら下がっているクーちゃんに向かって熱心に話しかけていた。
今朝のイリスは、迷子にはなるし、クーちゃんとはお話できなくなるしで、心底焦ったものだった。
イリスは不安で不安でしかたがなくて、赤ちゃんみたいに泣きじゃくり、しばらく辺りをうろうろとさまよっていた。偶然通りすがった親切な人に道案内をしてもらえなければ、イリスはいまも学校に辿り着くことができていなかったろうし、それどころか、家に戻ることさえできていたか怪しい。イリスはついていた。
学校に着いても、クーちゃんは生気を失ったままだった。
ようやくクーちゃんが魂を取り戻し、再び動いたり喋ったりできるようになったのは、学校の授業がすっかり終わってしまってからのことだ。
帰り支度をしようとかばんに教科書を詰めていたとき、イリスは、クーちゃんがかすかにぴくぴく動くのに気づいた。その動きは、いままさにクーちゃんに魂が戻ろうとしている証拠だった。事実、その数秒後には、クーちゃんは口を開いて、気だるそうな声でこう言ったのだ。
「やあ、おはようイリス」
あれほど心配していたのが自分が馬鹿だったと思えるほど、なんとも間の抜けた第一声だった。
「おはよう、じゃないよクーちゃん! いままでどうしてたのよ。もう、クーちゃんの馬鹿馬鹿」
イリスは、あのときはほんとに大変だったんだよと言って、今朝どれほど苦労して登校したかをクーちゃんに語って聞かせた。それから、どうして突然いなくなったりしたのかと、クーちゃんを問い詰めた。
クーちゃんによると、物体に魂を定着させるのは繊細微妙なことで、要するにとってもとっても難しいことなのだという。だから、ちょっとしたきっかけで魂が抜けてしまい、それからしばらくのあいだ魂の定着が不可能になってしまうことはよくあることなのだと、クーちゃんは弁解した。
「もう、クーちゃんたら、それ先に言ってよね。心配して損したよ」
「悪かった悪かった。説明したつもりになっていたよ」
「これからは、突然いなくなったりしたら駄目だからねクーちゃん。絶対だよ。クーちゃんがいなくなったとき、ほんとにほんとに、すっごく心細かったんだから」
イリスは頬を膨らませ、潤んだ目でクーちゃんを睨みつけた。
「すまないが、約束はしかねるな。さっきも言ったとおり、物体への魂の定着というのは、繊細で複雑な現象で、完全に制御するのは非常に難しい。だから、いつまたぬいぐるみから魂が抜けてしまうかは、私にも予想がつかないのだよ」
「そんなこと言わないでよ。クーちゃんならできるよ。ずっと一緒にいるって、前にも約束したでしょ」
駄々をこねるイリスに対し、クーちゃんは肩をすくめた。
「悪魔にだって、できないことはある。今後、突然いなくなってしまうことは、どうしても時々は起こるだろう」
「クーちゃんのいじわる」
「無茶言うな。もっとも、なるべく突然消えることがないよう、努力はするよ。今回は、心配かけて本当に悪かったね。……そうだ。いいものがある。ロッカーを開けてごらん」
クーちゃんに促されるがまま、イリスは教室の後ろにある自分のロッカーを開けてみた。
ロッカーには、取っ手のついた小さな紙箱が入っていた。見覚えのない紙箱だ。中を開けてそっと覗き見ると、ホイップクリームをたっぷり使った、いちごの乗ったショートケーキが入っていた。
「わあ。おいしそう! どうしたのこれ」
「忘れたか? 私は悪魔だ。これくらい作り出すのはたやすい」
「でもでも、こんなのもらっちゃっていいの?」
「お詫びの印といってはなんだが、私からのプレゼントだ。ふだんは、絶対にこんなことはしないんだからな。今回だけの特別大サービスだ。他の悪魔にこんなことしてるのを見られたら、非難轟々だ。『人間にプレゼントを渡すとは、なんと卑劣な行為だろう』『悪魔の道義に反する偽悪者め』なんて言われるだろうな」
「ありがとクーちゃん。プレゼント、とっても嬉しい。クーちゃんて、ほんと優しいんだね」
「別に優しくなどない。仕事を円滑に遂行するためだ。契約相手の人間に機嫌を損ねられると、知性の回収がやりにくくなってしまうからな」
「クーちゃんたら、すなおじゃないんだから。かわいいなあもう」
イリスはクーちゃんが愛おしくなって、両手で掴んで頬にこすりつけた。
だからやめろってと、クーちゃんはイリスの手のなかでちっちゃく暴れながらわめいた。
いいじゃない、減るもんじゃないんだからと、イリスはクーちゃんの意見を却下して頬ずりし続けた。
クーちゃんはたまりかねたように言った。
「わかった。わかったから。ケーキを食べようか、イリス。ケーキは生菓子だから、早いとこ食べないと駄目になってしまうぞ」
「はあい。今日はこのへんで勘弁しといてあげましょう」
イリスはそう言って、ようやくクーちゃんを解放した。
紙箱を開いてさっそくケーキを食べようとするイリスを、クーちゃんはちょっと待ったと制止した。
「ケーキを食べるなら、屋上へ行こうか、イリス」
「どうして?」
「ここだと、邪魔が多い」
学校にお菓子を持ってくるのは禁止されていた。ケーキを食べているのが先生に見つかったらまずい。
イリスは教室を見渡し、それから廊下のほうにも目をやった。確かにクーちゃんの言うとおりだった。教室にはちらほら生徒が残っていて、ケーキを堂々と食べようものならたちまち先生に告げ口されてしまいそうだ。廊下にも生徒がいたし、いつ先生が通りかかってもおかしくはなさそうだった。
「でもでもクーちゃん、屋上には鍵がかかってるよ。子供は立ち入り禁止だって、先生言ってたし」
クーちゃんはケタケタ笑い、得意げにこう言った。
「だから、何度言わせる。私は悪魔だぞ」
イリスはケーキの入った紙箱とかばんとを抱えながら、階段を登った。屋上へつながる扉の前まで来ると、クーちゃんは扉に向かって自らのぬいぐるみの手をかざした。かちりと音がする。ノブを回すと、扉はいともかんたんに開いた。
さすがはクーちゃんだと関心しながら屋上に出ると、驚くべきものがイリスの目に飛び込んできた。
「何あれ!」
広々とした屋上のど真ん中に、まるでおしゃれな喫茶店のテラス席みたいな感じのテーブルと椅子とが置かれていたのだ。テーブルの上にはティーポットがあって、かすかに注ぎ口から湯気が立っているのが見える。ティーポットの傍らには、角砂糖が入っていると思しきかわいらしい花柄の瓶と、ミルクティー用のミルクが入っていると思われるちっちゃなポットがあるのも、目に入った。
「ケーキだけだと喉が乾くだろうと思ってな。サプライズで、紅茶を用意しておいたよ」
「クーちゃんて、ほんとに優しい! クーちゃん大好き! だいだいだーい好き!」
イリスは感激のあまり叫び、クーちゃんのほっぺにキスをした。
「だから、そういうのはやめろと何度も」
クーちゃんは恥ずかしそうに言った。
クーちゃんはぬいぐるみの身体なので、どんなときも表情の変化は一切ない。が、夕日が当たっているせいだろうか、いまのクーちゃんの顔は赤くなっているように見えた。それが妙におかしくて、イリスはくすくす笑った。
イリスは椅子に座ると、ティーポットを手に取り、カップに紅茶を注いだ。それから角砂糖を六、七個ほど、とぽとぽと落とし入れ、最後にミルクをたっぷり注いで、ティースプーンでぐるぐるかき混ぜた。
一口飲むと、華やかな紅茶の香りとともに、口のなかいっぱいに甘ったるいのが広がった。幸せをぎゅぎゅっと凝縮したすばらしい飲み物に感じられた。
イリスにとって、お父様が失踪して以来の久方ぶりのティータイムだった。昔はよく三時のおやつの時間に紅茶とケーキをいただいたものだったが、いまとなっては、お砂糖たっぷりのお紅茶なんか、口にする機会はめったになかったのだ。そもそも甘いものですら、最近はずいぶんとご無沙汰だった。
お待ちかねのケーキを口に運び入れた。甘くて、果物のほのかな酸味もちょうどくて、ほっぺが落ちそうになるくらいおいしい。幸せなひとときだった。
「クーちゃんと出会えて、ほんとよかった」
イリスがぽつりと呟いた。ケーキをきれいにぺろりと食べ終えたイリスは、幸せの余韻に浸りながら紅茶のおかわりを飲んでいた。そよ風が髪の毛を撫でて心地いい。
夕日が山の向こうに沈みかけている。美しく、幻想的な景色だった。屋上から見るその景色は、格別に美しく見えた。
「クーちゃんと一緒なら、魔法が使えなくたって、学校生活、楽しく送れそうだもん」
だがクーちゃんの意見は違った。クーちゃんの声は硬くて、和やかな空気を引き裂くようだった。
「そうとも言えないみたいだぞ、イリス」
「どうしてよクーちゃん」
「気をつけろ。誰か来る」
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