第15話 批評

 また明日、と言って片山さんと別れてから帰路につくあいだ、俺は頭の中でせっせと批評文を組み立てていた。


 梅棹忠夫の名著『知的生産の技術』に、次の一節がある。

「紙や鉛筆をもたずに、そらでものをかんがえるのは、たのしいことである。とりとめのない空想にふけれるから、という意味ではない。こつこつと、文字で論理をくみたててゆくよりも、そらでかんがえたほうが、直観的な透察がよくきいて、思想の脈絡がはるかにうまくつくからである。[…]大宅壮一氏は、中学時代に、学校まであるいてゆく途中、頭のなかに原稿用紙のマス目をつくって、それに字をうめていったという。頭のなかで、そらで文章をくみたてるのである。一種の、思想的暗算である」。


 この一節を読んで以来、俺は「思想的暗算」を実践するようになった。学校の行き帰りの時間を利用して、頭の中で文章を組み立てる習慣をつけたのだ。


 小説家の夢が破れた頃から、批評家もしくは評論家になりたいというのが将来の夢となっていた。授業科目の中で唯一得意なのが国語で、評論にしろ小説にしろ、扱う題材の如何を問わず国語の時間は好きだったから、小説家への道を諦めた時点で、目標が批評家・評論家へと移行するのは自然の流れだった。もし批評家・評論家の夢が叶わずとも、最低限、新聞記者の文化欄担当あるいはウェブライターのように評論的な文章を書いて金を稼げる職に就きたいと思っていた。文章を書くことこそが自らに与えられた使命なのだと信じて疑わなかった。


「思想的暗算」は、こうした将来の夢を叶えるための自分なりの訓練のつもりだった。俺は、漫画やゲームやスポーツに時間を溶かしてただ無為に時間を潰すだけの日々を送っている周囲の連中とは違う。将来に向けての鍛錬を日々怠らぬプロ意識を持った人間なのだ。

 筒井康隆の『文学部唯野教授』を読んでからは文学理論にも関心が出て、その結果、以前にも増して批評文が書きたいという欲求が強くなり、「思想的暗算」にも精が出た。


 片山さんの小説は、「思想的暗算」の格好のターゲットとなった。「思想的暗算」によって弾き出された演算結果は、次の如き文字列となって脳内の原稿用紙へと出力された。


 ――小説『フルール・ド・リスの魔法の姫』は、片山氏が大学ノートへ手書きにて著述したファンタジー文学作品である。本作品について解説するのは慎重を要する作業となる。それは、本作品が難解きわまる作品だからではない。むしろ、あまりに単純すぎるからである。本作品は、所詮人生をたった14年程度しか生きていない人物が創造したありきたりなストーリーにすぎず、まったくもって薄っぺらな三文小説でしかない。そのような軽薄な小説をもし解説するとしたならば、結果がどうなるかは自ずから明らかであろう。ほとんど悪口ばかりを書くことになってしまわざるを得ないのである。しかし、本作品の読者は今のところ私を除いてほかになく、したがって本作品の解説という急務を遂行しうる者は私以外に存在すまい。なぜ急務なのかというと、本作品の解説文書がない状態が続けば、本作品を読ませられるという被害が今後拡大しかねないからである。そのため私は、あえて嫌われ役を買って出て、悪口を書き連ねるという愚行に及ぶことにした。


 そこでまずは冒頭部から振り返ってみよう。小説は、イリスとマリーという二人の少女が一緒にトイレに行くというシーンから始まっている。これは、大変まずい出だしである。やや性的なこの冒頭は文学性など一欠片もなく、官能小説まがいのおざなりな読者サービスにしかなっていず、作品全体の品位を下げているからである。性的な描写をするなら、いっそのこと筒井康隆の傑作短編「問題外科」くらいは突き抜けてもらわなければ興ざめであるし、さもなければ逆にむしろ、例えばアイザック・アシモフのヒューゴー賞/ネビュラ賞受賞作『神々自身』のようにSF的な発想力を通じてスマートに描出してもらいたいものである。


 設定も陳腐きわまっている。主人公イリスは、悪魔と取り引きをして、知性と引き換えに魔法の力を手に入れる。このような「強大な力と引き換えに何か大切なものを失う」という筋立てはきわめて陳腐な設定であり、また、いかにもなあざとい設定でもある。要するにこの設定は、ただ普通に魔法が使えるようになっただけでは何の苦労もなく病気の母親を救うことができてしまって物語として成立しないから、適当な困難が必要だったがために要請された設定にすぎぬのである。こうした作者の思惑が透けて見えてしまうような設定は、物語への没入感を損なわせ、小説の面白みを削ぐものとなる。そもそも、主人公が悪魔と契約して魔法少女になるという設定の時点で、魔法少女ものの王道パターンを無反省に踏襲してしまっており何の捻りもなく、設定の陳腐さに拍車をかけている。


 設定についてもう一点指摘できるのは、世界観についてである。一体、舞台はいつのどこなのであろうか。「イリス」だの「マリー」だのという人物名から察するに、場所はヨーロッパか、もしくはヨーロッパ風の異世界が思い浮かぶ。しかし、体操服や給食といった、いかにも現代日本的な風習についての描写もあって、不自然である。要するに、世界観が首尾一貫していず、随分と設定がさんなのである。


 語り口は退屈で、小説の体を辛うじて成しているだけの文の羅列にすぎず、ただ気の向くままに妄想を書き連ねているといった印象はどうしても拭えない。文体には知性が感じられず、何よりも単調であり、同一の語尾を連続させるという初歩的な過ちでさえ至る所に見受けられる。文体のレベルとしては、ちょうど小説投稿サイトに溢れかえっている閲覧数の低い数多あまたの駄作たちといい勝負といったところか。かつて私は友人に勧められるがままに、素人の作品を読んだことがあった。小説投稿サイトに載っていた小説だったが、やはり、思ったまま感じたままにひたすら長々しく虚妄が叙述され続けていて、読んでいるこっちが恥ずかしくなるほどであった。どうせウェブで小説を読むならば、青空文庫でも読んでいたほうが余程面白いし教養にもなるではないかと、そのとき私は強く痛感したものである。片山氏による本作品も、あのとき読んだウェブ小説と非常によく似ていて、真面目な文学的読解に耐えぬ浅薄な文章でしかない。――

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