第14話 朗読

「あの、菊川きくかわくん。お願いがあるんだけど」


 その日、片山さんは唐突にそう話しかけてきた。これが片山さんとの最初の会話だった。


「何?」


「授業ノート、写させてもらえると嬉しいんだけど」


 意外だった。片山さんから、授業ノートなどという単語が出てくるとは。授業にはまったく関心がないのかと思っていたが、一応は気にしていたらしい。


 もう一つ意外だったのは、片山さんが俺の名前を知っていたことだ。先生から小テストの答案を返却されるときなど、生徒が名前を呼ばれるタイミングはいくらでもあったから、それを聞いて覚えていたのだろう。だがそれにしても、いつも我関せずといったふうな片山さんが、そもそも他人に関心があること自体が意外だった。


 俺は片山さんの申し出を快く受け入れ、数学のノートを渡した。


「借りっぱなしになるのも悪いし、この場で写せるぶんだけ写して、すぐ返すね」

 片山さんはそう言って、せかせかとシャープペンシルを動かし始めた。


 コピーでも取ったほうが早いのではないかとも思ったが、ひょっとすると、ノートを写しているのは勉強のためではないのかもしれない。例えば、ちゃんと真面目に授業に出席していることを親にアピールするなどの目的のためだとしたらどうか。そうだとすれば、写せるぶんだけ写そうとしていることにも頷ける。とにもかくにも授業に真剣に取り組んだ痕跡さえ作られれば、それでよいのであろう。


 片山さんがノートに筆を走らせるあいだ、どうでもよい邪推にも飽きて暇になった俺はアーサー・C・クラークの『宇宙のランデヴー』を取り出した。既読の本だったが、この小説が近々映画化されるというニュースを見て、予習のために再読しておこうと思い、図書館で借りておいたのだ。


 十頁ほどページをめくって読み進めたところで、片山さんが声をかけてきた。


「菊川くんて、本、好きなの?」


 話によると、どうやら片山さんも小説が好きで、よく読むのだという。特にファンタジー小説が好きだと言い、小学生のときにはJ・K・ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズや上橋菜穂子の『守り人』シリーズは何度も繰り返し読んでいたのだと、片山さんは楽しげに語った。


「実は、自分でも書いてみてるんだ、小説」


 片山さんは、少し恥ずかしそうにして言った。話を聞くに、片山さんはここ最近は毎日、塾の自習室に籠もっては、大学ノートに小説を書き連ねてきたのだという。


 こうして片山さんの謎はあっさりと解決した。自習室に籠もっていたのは、勉強をするためではなく、小説を書くためだったのだ。


 それにしても、驚いた。同級生で、小説を書いている人がいるとは。


 俺自身、小説を書こうとしたことが昔何度かあったのを思い出した。一頃は、将来小説家にでもなってやろうと意気込んでいた時期があったのだ。


 面白い映画や小説に出会った後、創作意欲が刺激され、そのたびごとに興奮冷めやらぬ状態で勢いに任せて小説執筆に挑戦し、そしてことごとく失敗してきた経験があった。いつも二、三百字書き進めたところでどうしても筆が止まってしまい、そもそも起承転結をどのように設計すればよいかということさえ分からぬまま、六度目の挑戦に失敗したとき心を完全に折られ、小説家への道はあえなく断念したのだった。


 小説執筆の難しさはよく知っていたから、同級生で小説を書いているとなると俄然興味が湧いた。片山さんは、どんな小説を書いているのだろう。出来栄えはどんなものか。ジャンルは何だろうか。


 それに、小説を通じて、片山さんが普段どんなことを考えたり感じたりしているのか、伺い知れるかもしれない。


 そんなことを考えて、小説が完成したらぜひ読んでみたいというようなことを伝えると、片山さんはあっさりと快諾してくれた。


「いいよ。読んでも」


 なんでも、小説はもうほとんど完成間近であり、ちょうど今の段階で誰かに読んでもらって感想をもらいたいと思っていたところだったというのだ。周囲に自分の小説を真面目に読んでくれそうな友達がおらず、困っていたところだったとも片山さんは述べた。


 ただし、小説を書きつけたノートそのものを貸すことはできないと片山さんは述べた。曰く、このノートには小説の構想メモも一緒に書いてしまっており、それを見られるのが恥ずかしいらしい。メモの中には、片山さんが自分で描いた下手なキャラクターの絵も含まれていて、それを見られるのが特に恥ずかしいという。


 だからノートを貸す代わりに、自分が読み聞かせるのでは駄目だろうかと、片山さんは提案してきた。わざわざ、全文を朗読してくれるというのだ。


「片山さんが、それでいいのなら」


 そう答えると、片山さんは嬉しそうに笑った。


「よかった」


 すぐにでも小説の中身を知りたかったが、その日はもう遅い時間だったので、次の日の放課後、改めて時間を設けることで互いに了承した。待ち合わせ場所は、塾のすぐ隣の喫茶店とした。


 何の変哲もない平日の放課後二人きりで会うなんて、まるでデートみたいだな、と俺は思った。


 明くる日、片山さんと喫茶店で落ち合った。


 飲み物が来るとすぐに、片山さんは大学ノートを開き、小説を音読し始めた。


 当初はてっきり、長くとも15分程度で読み終わるものと思っていたのに、どうやら長編作品らしいと分かったのは、飲み物を飲み干してしまってもなお小説を読む声が途切れる気配もないことに気づいたときである。


 これで小説が面白かったのであれば全然よかったのだが、残念ながらそうではなかった。つまらない、どころの話ではない。聞いているこっちが恥ずかしくなってしまうほどの稚拙な作品であったのだ。慌てて章の切れ目を見計らって声をかけたときにはもう手遅れだった。あろうことかその場の流れで、次の日もまた小説を読んでもらう約束までしてしまった。


 まったく、面倒なことになった。片山さんと約束を交わしてしまった昨日の自分を呪いたい気分だ。ほんの少しばかり顔立ちが綺麗な女子と一緒に過ごしたとしても、一方的に面白みのない小説を読まされるだけでは、全然楽しい気持ちにならないことを俺はこのとき初めて知った。時間が無為に過ぎるだけだし、万が一、片山さんと喫茶店で過ごしているのが友人にでも見られたりしたら、からかいの対象にもなりかねず、こちらに何の得もありはしない。そもそも俺は、本来、無駄な人付き合いはしない主義なのだ。


 小説の音読を俺が強制的に終わらせてからほとんど間を開けずに、俺たちは喫茶店を後にすることになった。互いに会話下手だったせいで、小説という共通の話題があるにもかかわらず話し始めのきっかけがうまく掴めなかったのもあるが、何より飲み物一杯の注文で喫茶店に長居しすぎていた。


 会計を済まし、喫茶店を出た。


 今からでも「忙しいからやっぱり明日は駄目だ」とでも言って約束を破棄させてもらおうかなどとこの期に及んで悩んでいるところに、片山さんが小説の感想を求め、こう尋ねてきた。


「どうだった? ここまで聞いてみて」


 返答に窮した。正直な感想としては、あまりにも程度の低い三文小説にすぎない、としか言いようがなかったからだ。


「面白かったよ」


 正直な感想を伝えれば相手が傷つくのは目に見えていた。だから、嘘をつくことにした。

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